横光 - みる会図書館


検索対象: 東風西雅抄
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1. 東風西雅抄

6 列車で一路パリに向った。それ以後、われわれのグループ以外の人たちには殆んど会って いなが、ただ横光さんとは偶然にもパリのオデオン座の裏でばったりと出会った。当時 オデオン座の周囲の回廊はフラマリオン書店の売店になっていたが、その人口のあたりだ ったかと思う。 やアやアと声をかけながら近付き、互いに近況を尋ねあったが、私の下宿はボアの近く で、 「お仲間の cn さんが前にとまっていた所だそうです」 と言うと、横光さんは目を丸くして、 「ほう、えらく豪勢な所じゃないか。あれは君、大ブルジョワなんだよ」 と驚いた振りをして見せた。その実、私の宿はいわゆる。ハンション ( 素人下宿 ) で、横光さ んのホテル、牡丹屋よりはずっと安くついていたのだった。そんな短い雑談を交して別れ てから、ついぞ再び会う機会がなかった。 その年の八月、ベルリンにオリンピックが開催され、横光さんは『毎日』に頼まれてい るのだから当然取材陣に参加した筈であり、私もパリからわざわざ見物に出かけたのだが、 前景気に違わぬ大賑わいで、世界中から集まった群衆の人波にもまれ、到底偶然の再会な

2. 東風西雅抄

は準一等待遇を受けることが認められ、禁止の制札を無視して自由に上甲板に上り、そこ でデッキゴルフに興ずることもできるようになった。 横光さんは早く名を成した大家であり、私が奉職していた京都大学に近い百万遍界隈に も、小説『紋章』が出ると、すぐその名をとったカフーが現われるといった状態だった から、よほどの年輩の人かと思っていたところ、実際は私と三歳ほどしか年が違っていな その横光さんと船中でどんなことを話したか、さつばり思い出せないから、そんなに深 刻な話は出なかった筈である。併しある程度親しく口を利いていたことは間違いなく、団 体でカイロへビラミッド見物に行った時も、駱駝の背に跨った姿を二人列んでスナップに 撮ったりしている。いよいよ船がマルセイユに着く前、お別れパーティの後で、サイン帳 いと気軽に、 錯を持出して一筆所望すると、 交 の 春の夜の桜にかかる投げテープ し」 西 箱根丸最終の夜横光利一 東と書いてくれた。 箱根丸船客はマルセイユで散り散りになり、私はこの港市の見物をそこそこにし、夜行 ゝっこ 0

3. 東風西雅抄

ろ 50 それから船長は語を継いで「時に今朝ニュースが這人ったが、日本は大変な事が起っ て居ます。斎藤内大臣、岡田首相、渡辺教育総監等が暗殺されて、高橋蔵相以下傷い たものも沢山あるとの事であります。」との話であった。皆黙然として其話を聞くば かりであった。 と記録した虚子は、「大陸の見えて帆船霞みけり」「水仙に日本のニュース聞いてたゞ」と いう二句を詠んでいる。 二日後の二十九日、虚子の高弟である機関長の楠窓の肝人りで、第一回の洋上句会が開 かれ、三月三日の第二回に、宮崎と落合驥一郎らが勧誘されて参加した。兼題は「雛」と 「更衣」。小冊子『箱根丸洋上句会』には、宮崎の「父はいま船の旅路や雛祭り」が、横 光の「カムランの島浅黄なる更衣」や虚子の「雛祭南十字の星の下」と一緒に収められて ーになったことで、宮崎は三歳年長の横光とかなり親しくなった。 いる。句会のメンバ ーティが開かれた。 三月二十六日、明日はマルセイユ上陸という前晩に、船中で別れの。、 終わったあと宮崎が差し出したカーキ色小形のスタンプブックに見開きで、虚子は「香港 の春暁の舟皆動く虚子」と、二月二十九日の旧作を揮毫した。続いて横光も見開きに、 「春の夜の桜にかかる投げテープ箱根丸最終の夜横光利一」と認めた。このパ

4. 東風西雅抄

旦し歴史屋には歴 、リに居ては、ただ遊んで暮すのが何より勉強になることは本当だが、イ 史屋の怠け方があるものだ。 もちろん体臭は体質と異なる。理屈から言えば歴史の研究には大学図書館の本さえあれ ば十分な筈である。併しそれは学生の時までのことであって、一人前の歴史屋ともなれば、 何かしら自分の手で自分の史料を漁りたくなり、自然に本屋めぐりが始まる。このじじむ さい習性がそのまま体臭となって染みつくものなのだが、矢代はスマートすぎて、この体 臭を感じさせない。 もっとも横光さんには別の考えがあったのかも知れない。歴史屋というやつは、ろくな 勉強もせずにいて、金持ちのきれいな令嬢と結婚することばかり考えているから駄目なん だ、歴史上の重大な疑間に、何一つ解決を与えないではないか、と皮肉りたいんであった 錯のなら、横光さんもずいぶんと人が悪い。 の 〔『展望』第二一四号、一九七六年十月〕 西 東

5. 東風西雅抄

横光利一と歴史 昭和十一 ( 一九三六 ) 年二月、欧洲航路の船内で、私は文学の神様、横光利一と知合いに よっこ 0 当時、私は文部省から向う二年間の在外研究員を命ず、というお墨付を頂いて、日本郵 船箱根丸の二等船客となり、フランスへ向って旅立ったのであった。同じ二等船客には、 私と似たような境遇の大学助教授クラス数人が居り、いつも行動を共にしていた。 この頃の旅客船の内部は、ちょうど軍隊と同じように厳重な階級制度があ「て、広い上 甲板はす。へて一等船室にあてられ、一等船客は言わば将校である。上甲板へ上る階段の人 口には、「一等船客以外の通行を禁ず」という制札が掲げられていた。 東と西との交錯

6. 東風西雅抄

『仏国風俗間答』 横光利一が取上げた旅愁の間題は、日本人とは何であるかを問いつめようとする在外邦 人の煩悶であるが、この主題を遡って行くと意外な事実につきあたる。それはずっと以前 の明治時代においては、このような問題は殆んど間題にされていなかったという現実であ 明治三十一年と一一一一口えば、横光利一の生れた年に当るが、当時三十五歳の国文学者、池辺 義象が留学生としてフランスに渡り、在外三年の後に帰国して『仏国風俗問答』なる書を 著した。これは大へん面白い本である。同じフランス事情を語るにしても、フランス文学 者や、或いはフランス化してしまった長期滞在者のルポルタージ、は、ともすれば専門的 ところが明治時 ドの抜けた面白味というものがない。 になりすぎて、そっがないだけに、司 代の日本古典学者のパリ滞在とは、その取り組みを見ただけで既に、興趣満点ではあるま 池辺義象は七月八日に英船エンプレス・オプ・インデア号で横浜を出帆し、太平洋を東

7. 東風西雅抄

礪波護 本書『東風西雅抄』は、一九〇一 ( 明治三十四 ) 年八月生まれの宮崎市定が、喜寿の年に 岩波書店から上梓した随想集『東風西雅』から大半、すなわち三分の二を抄録して文庫化 したものである。 文部省在外研究員として、一九三六年一一月二十日に神戸港を出帆する印度洋航路箱根丸 一万トンに乗船し、フランスに向かった宮崎は、台湾海峡を通過しつつあった二十七日の 朝、ガリ版刷りの「船内ニュース」の号外で、二・二六事件が勃発し、東京に戒厳令がし 説かれたことを知った。三十代半ばの宮崎や横光利一らと同船した、還暦を過ぎた高浜虚子 の『渡仏日記』 ( 改造社、一九三六年八月 ) には、この日の朝、食堂からの帰りがけに、機関 解 長の上ノ畑楠窓と虚子親子および横光が、海図室に入って船長から海図を見せてもらい この辺りは澎湖島の近くであるとの説明を聴いた話を書き綴った後、 解説

8. 東風西雅抄

と一一 = ロう久慈 日本に。ハリだけの美しい通りの出来るまでには、まだ二百年はかかるよ の言葉も、日本とフランスとの相違を、何よりも先ず時代の落差で押えようとしている。 本当に二百年でよいかは別間題として、は「きり数量で押えたために、ぐ「と実感が沸く。 抽象語の議論の中には、具体的な数量は滅多に出てこないものだ。実感と明晰、これは正 しく私の考えている歴史学の立場そのままである。小説家、横光利一は歴史が分るのだ ! その頭の良さは抜群である。 横光がパリを訪問した時代、日本はまだフランスにと「て、第一次大戦の連合国であ「 たから、そんなに居づらい国ではなかった。此処でも在留邦人は、ドイツ留学者のように、 ひたすら優等生になって、二百年の差を縮めようと努力したものだ。 錯ところで欧米学校の優等生は、果して欧米で尊敬されたかと言うと、それは疑わしい。 の 単に誉められ者の優等生だけでは実は駄目なのだ。尊敬を受けるには、強い個性、豊かな し」 と創造力の持主でなければ資格がない。そして個性と言う点では、日本人はどうも中国人に 東 及ばないらしいのである。 風呂敷神話に見られるように、過去の日本人が一体となって、欧米学校の優等生になろ ずれ

9. 東風西雅抄

次 目 - 東と西との交錯 : 横光利一と歴史 『仏国風俗問答』 『巴里絵日記』 『祖国を顧みて』 『支那人気質』 日本人気質 : ・ はしが」 東と西 目次 46 ろ 8 29 21

10. 東風西雅抄

深く浸透していると見え、屡辷在留同胞から、この偽乞食め、と言いたげな悪意の視線を 感ずることがあった。そういう場合は此方でも、それは貴方のほうの自主性の無さですよ、 と言う思人れで睨み返すのを常とした。 横光利一は活きた人間を描写する小説家であるだけに、抽象名詞の濫用を好まぬ。『旅 愁』の中で、世故に長けた東野老人は、 外国から来た抽象名詞というやつは、分析用には使うけれども、人間の生活心理を測 る場合には、極力使わない用心をしてるんだ。 と言っている。これは歴史家の用心と共通する。中国歴史家の祖である司馬遷は、自身の 修史態度を述べて、孔子の言を引き、 之を空言に載せんと欲するは、之を行事に見わすの深切著明なるに如かざるなり。 と言い、抽象語で真実は書けぬと言う趣旨に副って『史記』を著したのである。 横光利一は、だから東西文化を比較するに、その本質とやらを探るような発想法を用い 十 / 。ハリなんて所は、僕等の生きている時代は、これ以上の文化が絶対に二つと出ることの ない都会ですーーーと言う矢代の言葉は、現代という時点でのパリだと、ちゃんと押えてい あら