旦し幸いに現今までの所では、こんな心配 ようなものだ」と言うことにもなりかねない。イ は無用であった。我々は漢文史料の読解においてさえ、日本人の方がずっと分析的に正確 に読みこなしている心算でいる。 ところでこのような盛況をもたらした近代的な歴史学の研究方法というものは、その淵 源を尋ねて行くと、それは実にヨーロッパ十九世紀に完成された産業革命文化につき当る のである。即ち歴史学の近代化は、歴史学の中から自然に発生したのでなく、産業革命期 の自然科学の飛躍的な進歩に刺戟されて、それに追随して行くことによって達成されたも のなのである。産業革命は機械を発明し、自然力を駆使する人間に対して絶大の自信を与 えた。世界は神が造ったものでなく、自然に存在するものであって、その自然界では人間 が一番進歩したものだということになった。自然科学におけると同様な合理主義が人心を 支配し、歴史学も従来のような、教会から与えられた歴史をそのままに信用せず、いちい ち自己の理性に照して、古い伝統を批判しなければ承知せぬのが近代的な歴史学だったの である。 ところが歴史学というものは、余りに図体が大きすぎて、一寸やそこらで衣替えができ
ぬ。この近代的歴史学がまだ十分に成長しきらない間に、現実の世界状勢はもっと先へ進 んだ。それは産業革命によって惹起された大資本の形成と、従って起る階級闘争の激化で ある。階級闘争の立場から過去の歴史を振りかえってみると、過去の歴史もすべて階級闘 争に見えてしまう。そこにマルクスの唯物史観が成立したのである。世界の歴史は、主人 対奴隷、領主対農奴、資本家対労働者の階級闘争の連続であり、最後に世の中は労働者の 勝利によって、原始共産制と似たような、階級のない世界が来るという説である。 歴史学はここで第二の波に見舞われたわけで、この場合も、唯物史観なるものは歴史学 自身の中から生れたものでなく、産業革命後の現実から発生したのであった。前の第一波 が言わば自然科学的であるのに対し、今度の第二波は社会科学的であると自称し、現に唯 学 史物史観と社会科学という一言葉が同義に使われたりする。この唯物史観は当然の成行として 東日本へも伝播してきた。 本但し唯物史観の波は日本に対しては、最初は単なる歴史解釈として紹介された。歴史の 動きの裏には必ず経済問題がある。歴史の経済的解釈、階級的分析が唯物史観史学だとさ れた。尤も経済史の必要な事は、唯物史観派でなくても唱えていた所だから、始めの間は
1 ろ 4 ある。ところが本当の学問というものはそんなものであってはならない。中国革命が共産 革命だとしたら、それが立遅れた中国に起ったこと自体、マルクスの理論に合わないので ある。日清戦争から今度の戦争の初期まで、日本軍の景気のよかった時には、ある人たち は本当に天皇の稜威によってだと信じたであろうし、その昔サラセン軍が西アジアを席捲 日こよってだと信じたであ した時には、イスラム信徒は本当に大慈大悲なるアッラーのカ護ー ろう。併し局外者から見れば、強い者が強い間だけ強かったに過ぎない。 凡て学間は、学問である限りにおいて、それ自身の中から生れた真実で社会に役立たな ければならない。産業革命以後の歴史学は、外部からこっかれ通しで、自分自身の独特の 立場を主張する遑がなかった。最初の科学的史観は単に従来の不合理を排除するというだ けで、積極的な世界史の影像を造り上げるまでに至らなかった。唯物史観は仮説と認めれ ば学問の範囲内にあるが、動かせない真理と見るなら、それは既に学問ではなくて宗教だ。 原始共産社会なんていうものがあったかどうかは確認の限りでないが、奴隷制社会などと いうものは西洋史の上にも存在しなかったようだ。単に色眼鏡というでなく、凸凹眼鏡で 物をゆがめて見ているのである 。いったい結論が先に出来ているのなら、何も骨を折って
110 欧米近世の繁栄は奴隷制度の上に立てられたものである。所謂産業革命が起り機械が十 分にその威力を発揮するに至る迄、機械に代「て動力を供給したのは奴隷であ。た。 この奴隷制度は近世初頭より三百年に亘「て継続し、十九世紀に人。て表面上変形して 苦カ制度となり更に約百年の後に消滅するのであるが、この苦カ貿易に終止符を打たせた ものは明治初年日本政府が大英断を以て世界の目の前で行て見せた正義の為の奮闘の賜 ものに外ならなかった。 外国人の書いた東アジア外交史、中国人の書いた華僑史には屡にこの間の真相を見落し ている嫌があるので、特に読者の注意を喚起しておく次第である。 〔『東京新聞』、一九四三年六月七ー十一日〕
196 帝政治の遺制がっきまとう。どうやら毛沢東には清朝の独裁君主雍正帝の俤があるようだ。 もしもそんなに容易に過去が払拭されて、ぜんぜん新しい世界が即席に誕生できるものな らば、歴史学などを研究する馬鹿は世の中にないはずだ。 さて革命のあとに資本主義そこのけの官僚的独善体制が現われても、まだ前よりはまし だとシラをきり、経済的繁栄の方向へハンドルを切りかえるのがこれまでの共産国の行き 方である。しかし潔癖な毛沢東にはそれができない。自分の納得の行くまで革命を繰り返 さねば気がすまぬ。共産主義は改良、改善の可能性を認めない。何でも革命でやらねばな らぬ所に悲劇的な宿命がある。だから紅衛兵連動は毛沢東のすばらしい独創というよりは、 ああいう手段より他に方法がなかった窮余の戦略と見る方が当たっているかもしれぬ。し かもこれが最終の革命だという保証はどこにもない。 さてこの文革はもともと純然たる中国の国内問題として始まったのであるが、それが一 段落した時、特にそれが思った通りに運ばなかった際に、つぎに起こるのは革命の輸出で ~ ないかと虞れる。ラオス、タイ、ビルマ、インドの方面には、中国からの革命輸出を受 け人れそうな要因が至る所に存在するからである。 中国は近いといっても外国である。徒らに反発したり、盲目的に追随したりせず、冷静
的に評価しようということになったわけで、これは中国の学界もそこまで余裕ができたこ とを物語っている。 この始皇帝の再評価は、彼が法治主義者であったことを、儒教の唱える徳治主義と比較 した上で、その功績を認めようというのである。由来中国の史上において、法治主義は王 朝創業期の原理であり、徳治主義は守成期の原理である。王朝初期の主権者は多く優れた 武将であると同時に、偉大な立法者であった。然るに守成期に人ると、儒教の徳治主義の 名の下に、階級が固定し、政治は姑息となり、改革の労を厭って腐敗が進行する。その被 害を蒙るのは常に下積みにされた人民大衆に外ならない。永久革命を呼号する中共指導者 景が停滞安定をモットーとする儒教を退け、新社会の理想を追求しようとする法家の学を表 的彰するのは当然の帰結であると言えよう。併し目的は果してそれだけに止まるものであろ 史 歴、つ , 刀 の 孔始皇帝が成就した事業は、その国内統一と共に、外に向っては北狄匈奴を撃攘し、万里 林長城を築いてその南侵を防禦した功績を見逃すことができぬ。由来中国において、東と西 との対立は、もし起っても間もなく解消するが、南北の対立は幾度となく執拗に繰返され る。そのうちでも最大の対立、北方遊牧民の蒙古と中国との対立が解消されたのは清朝の
のだ。こんな言葉の遊戯で明け暮れる中に、戦争の方はあっけなく敗けてしまった。 戦時中軍部の指導と言っても、軍人は単純だから深い理屈を知らない。裏で軍部を操り、 知恵を貸していた者があったので、それは生粋の国家主義者の外に、在来の左翼運動家で あった。唯物史観はもともとへーゲルの唯心史観を裏返したものであるだけに、それをも う一度裏返すと、ドイツのナチズムにもなるし、日本の皇国史観を助ける役にも立つので ある。史観とは実に便利なものだ。 日本の敗戦によって、再び場面は急転直下のどんでん返しが起る。殊に皇国史観から弾 圧を受けていた唯物史観に人気が集まった。特に唯物史観を景気つけたのは、中国におけ る人民共和国の成功である。唯物史観による予言がここでも実現したというのである。唯 史物史観は青年層にその信奉者が多いが、我々の目から見ると、将来の歴史学が果してその 方 東線で行っていいかどうか、甚だ気がかりである。 の 本これまで述。へてきたように、産業革命以後は社会の現実の推移が激しくて、歴史学はい つも現実におしまくられて動いてきた。いわゆる科学的史観から、唯物史観、皇国史観、 また唯物史観と、色々に動いてきたが、それは凡て歴史学の外部で成立したものばかりで
116 されたオリエントの文化は次第に後退し、殊にヨーロ ッパに産業革命後の新文化が興ると、 その威力の前に屈服を余儀なくされ、次第々々に植民地化されて行く運命を免れることが できなかった。そしてその植民地化の度合は中国の場合よりも遥かに強度だったと言える。 植民国家の雄は一言うまでもなくイギリスである。イギリスは十九世紀以来、オリエント たが から東南アジアに亘って、要所々々を植民地とし、鉄の箍をはめてその住民を締め上げた のである。第一次世界大戦は、民族自決の呼び声にも拘らず、オリエントにおけるイギリ スの鉄の箍は一層強力になった。その住民に対する経済的な搾取も甚だしいものがあった。 私は一九三七年、考古学的な興味をもってこの地方を単身で旅行したことがある。その 旅行中一、二見聞した所だけで言っても、当時イラクはイギリスの委任統治から解放され たばかりであったが、解放は名目だけで実権は全くイギリスの手中にあった。殊に石油資 源がイギリスに抑えられて居り、イラクの石油を輸送パイプで地中海岸に送り、そこから タンカーでイギリスに運んでゆく。ところがその石油の価格はイギリスに運んでイギリス で売る値段を十とすれば、イラクでイラク人民に売る値段がその二倍の二十といった具合 である。
孟子の言葉にあるとおり「何ぞ必ずしも利を言わんや」であ「て、経済主義は軽蔑され るのである。中国共産党は大揺れに揺れて、原形をとどめぬまでに破壊された点は確かに あるが、実はそこが毛沢東の狙いであったのである。ソビエトロシアの共産党が建国後五 十年ですっかり動脈硬化に陥って官僚主義に転落したように、中国共産党も全国制覇の後、 二十年分だけ官僚主義化してしまった。これではいかぬから、もう一度根本から立て直そ うというのが、外ならぬこんどの文化大革命の目的だったのだ。 こういう毛沢東の考え方は実に真面目そのものである。日本に引きあてていうなら、政 治資金規正法と中央地方行政機構改革を、それこそ「小骨一本抜かず」に徹底的に遂行し ようというに等しい。まかりまちがえば党の命取りになるかも知れぬ危険な作業だ。それ を敢てやろうというから、ほとほと感じ人った次第である。そういうことがだんだんと日 まこの頃次第に影をひそめ の本にもわかってきたので、文化大革命に対する非難めいた言論 ( 革てきたようである。 大 しかしながら、果たしてそんなに手放しで安易に文化大革命に同情していいものか。私 文 はそこが気がかりである。何となれば文革の当初に日本で色々心配された真面目な疑問は、 何一つとしてまだ安心できる解答を事実によって与えられていないからである。
社会の全体的な進歩はその傷痍を癒して益に前進を続ける。中国人は漢という古代帝国を 結成し、北方遊牧民も匈奴の草原帝国を建設した。ヨーロ ノバでも上代からローマ帝国に 至る古代史はこれと相似たる経過を辿った。 後漢の半ば頃から以後、中国は一転して暗い谷間の時代を迎える。それは正しくヨーロ ッパの中世時代を彷彿させるものである。何故かは知らねど、世の中が次第に不景気にな ってきた。銭がなくなる。物がなくなる。仕事がなくなる。庶民は段々食ってゆけなくな る。併し特権階級だけは別だ。政治権力で只同様で手に人れた土地に、貧民を吸収して荘 て園をつくり、只同様で働かせるのだ。荘園が一つの王国になり、地方が一つの王国になる。 当中央政権は弱体にならざるをえない。それに乗じて外部から異民族が侵人してくる。この 結ような状況は唐を経て五代まで続く。 完 ツ。、でい、つレ それが中国の宋代になると、再び世の中がパッと明るくなる。正にヨーロ 史 歴 ネサンスだ。景気恢復の波に乗って、新しい技術が進歩する。火薬、羅針盤、印刷、何れ の も近世的な新文明に必要な道具だが、それがみな揃。たのだ。宋代以後の中国の繁昌は他 の世界の何処の国も及び難かった。惜しいことにまだ動力機械を使う術を知らなかった。 機械文明を特長とするヨーロッパの産業革命の波は十九世紀になってアジアへ押しよせ