ものではあるまいと結論している。だから東洋と西洋を正反対の極に置いて抽象名詞で説 や、日本人の西洋に対する一般的通念に対しては、いっ 明するやり方には賛成しない。い も疑間を抱きがちである。その一つに風呂敷神話がある。 新前の日本人が外地に着くと、どこからともなく聞えてくる忠告は、風呂敷を持。て歩 くなという戒律の存在である。イギリスでは大使館からお布令が出たそうで、昭和十年頃 までは確かに存在した。なんでも西洋では、風呂敷ようの布で物を包むのは、乞食に限ら れ、彼等は杖の先に布包みを縛りつけ、肩に担いで町を廻り、貰いがあるとポンとそれを というの 包みの中に投げこむ。日本の風呂敷はそれに酷似しているから、止めたがよい、 がその理由である。その時私は考えた。乞食と共通で悪いのなら、帽子も靴も共通ではな いか。帽子や靴は西洋のものだからよくて、風呂敷は日本のものだから悪い、では筋が通 錯らぬ。杖の先にさえぶら下げなければいいのではないか。ひとっ験しにや 0 て見ようと、 の リでも、ロンドンでも、ドイツ、アメリカでも、乞食に間違え 風呂敷を使い出したが、パ し」 西 られたことは一度もなか。た。反って私の周囲の欧米人が、これは便利だ、と言「て真似 し」 東 こ過ぎな する者が続出してきた。どうも乞食風呂敷説は、日本人の取越苦労が生んだ神話ー、 か「たようである。併しこの神話は、神話であるだけに、理由を問うことなく、随分広く
職務熱心かは知らぬが、これは行過ぎというものである。これはたとえば「日雇いの勤 勉さ」である。諸君は失業対策で雇ったらしい日雇いさんが街路を掃除している前を通り かかることがあるだろう。人が通る時ぐらいは手をやめてもよさそうに思えるが、寸分の 暇も惜しいと言わんばかりに、勢いよく塵を掃きつけられた経験が誰しもあるに違いない。 そのくせ見ていると休憩時間はたつぶりあるらしく、何もそんなに職務熱心にしなくても いと思われるのだが。 大凡そ物事には目的があってから規則があるものだ。交通規則は大たい歩行人を車から 護るためにある。歩行人が車とぶつかれば例外なく歩行人が轢かれる。車が人に轢かれた なんて話はまだ聞いたことがない。だから歩行人が轢かれないために、車にこそ交通規則 が必要なのだが、何と勘違いしたか、歩行人までが取締まられるようになってしまった。 このやり方はどうも日本がドイツの悪い所を真似て出来たものらしい。 よ ドイツの話と言っても、ベルリンにオリンピック大会のあった昭和十一年、ナチスの勢 陽カ華やかなりし頃のことだから今は変。ているかも知れない。私は始めてベルリンへ行っ てその交通取締りの八釜しいのに驚いた。ストップ信号の時、一歩でも歩道から踏み出し て立っていると、交通巡査が近寄ってきて、ビッテ ( どうぞ ) とくる。どうぞ歩道の上へ上
2 ろ 6 中国で誕生日を祝うようになったのは、普通に唐代からで、玄宗の開元十七年 ( 七二九 ) その生日である八月五日を千秋節と名づけ、群臣が参賀して祝宴を開くことを定めたのが 天子誕生節の始まりとされるが、礪波護君の指摘によると、これは俗説で、北魏の太武帝 の始光二 ( 四二五 ) 年から既に行われたことであるという ( 日知録巻十三、僧史略巻中 ) 。北朝は 東西交通の盛んな時代であったから、この誕生日を祝う習慣が起こったのも、西方からの 影響であったに違いない。そして最初は天子に対してだけであったものが、次第に一般化 されてきた。特に権力者や地方長官の生日に、その属僚が金品を集めて進上し、盛大な祝 賀の宴を開くという悪い風習が流行しだした。 それでも宋代のころまでは、誕生の祝いを贈る方にも、取る方にも、若干のためらいと、 後ろめたさが感じられた。 当時の笑い話にこんなのがある。ある地方長官が着任早々に、役所の広間に大きな張り 紙を出した。日く、来る何月何日は長官の誕生日に当たるが、長官は平素、清廉潔白を旨 としていることであれば、祝賀のための金品贈呈は慎むがよい。念のために告示する、と いう文面であった。そこで属僚たちが集まって、どうしたものかと相談したが、その中に 一人の知恵者があって日く、どうも告示の書き方がおかしい。ひょっとすると、これは反
日本のコラムニストの草分けの一人に正岡子規がある。子規の『墨汁一滴』や『病牀六 尺』はもと『日本』新聞のコラムであった。近ごろは不徹底時代とでも申そうか、新聞記 事までが紙面の中途で消えて広告に変わっている。昔は広告が至って少く、全面記事が普 通なのであり、子規の随筆は最下段の左隅に囲われていた。但し長さは一定せず、堂々た る大論文があるかと思えば、日記の断片のようなものもある。 今度私がコラムを書くに当たって、まず手本にと思い浮か。へたのは子規のスタイルであ ム ラっこ、、ゝ、 テカ但し意気が沮喪するのを恐れ、わざと読み直すことをしなかった。しかし結果と コ 曜して無意識裏に影響を受けたに違いない。特に私は雑文を物する際、職業柄、それがどこ かで現代史の一齣になっていることを念願するが、子規のコラムはちゃんとそれが出来て いるのだ。 うしたなら、彼の人間も、その画も、もっと幅を増したに違いないに、と惜しまれる。 〔『読売新聞』一九七五年六月二十日〕 子規随筆
202 うならば、中共政権としては文句があるのだ。 そもそも中国で軍閥内戦の酣なりし頃、ソ連が中国人民に対して呼びかけたスローガン は、自国をも含め、列国が中国に対して結んだ一切の不平等条約の撤廃、ということであ った。ところが現状は、従来中国の領土であった外蒙古がソ連の衛星国になっている。こ れでは帝政ロシアの手口と少しも変らない。 もし現状をそのまま固定さすというなら、そ の前に中ソ国境の調整を行っておく。へきだというのが中国側の主張である。この見地から 中国はソ連に対して、ある種の申人れを行ったと思われる。これが中ソ断絶の最も大きな 原因であったに違いない。中国が行った提議の正確な内容は我々にはわからない。しかし 外蒙古からソ連が手を引けという意味であったことは疑いない。私は前から、このような 事実が必ずあったに違いないと推測していたのだが、最近に至ってこれを裏書きするよう な証拠が少しずつ現われてきた。 本年二九七二年〕八月九日から十二日頃までの間、日本の諸新聞に中ソ対立の記事が多 く現われ、その中に『イズベスチャ』に載せられた論文が引用されたりしているが、その 中で「中国はソ連の領土である百五十万平方キロへの中国指導部の領土権主張を正当化し ようとしている。モンゴルが一九一一年 ( 辛亥革命当時 ) に清国の支配を脱した事実を認め
さかさま 鑑に臨んで立てば、景は倒なり。 と読める。臨むというのは上から見下すことなので、この場合もたとえば、水鏡に身を写 やや すようなもので、倒立ちした影ができるのは当然のことである。この所を動もすれば凹面 鏡の理論などを持出して説明しようとするのは、考え過ぎと言うべきであろう。 間題はその続きの下半分であるが、私の考えではその中の多・少・寡區の四字は誤字で あり、これを、 ごと 右而若左。説在射照右にして左なるが若し。説は射照に在り。 と直して読みたい。恐らくこの部分は、磨滅、または虫喰いの甚だしい本文の、僅かに残 った字体を、形似によって漫然と抄写したに違いない。右と多と、左と少と、閉されたロ 形を含むと含まざるとによって書きわけたのであろう。 射と寡とは形が大分違うが、共通して自の形を含んでいる。この部分だけが比較的明ら かに残っていたので、苦心の末に寡の字形を造り上げたと思われる。その実、この部分に 相当する「経説」には射の字が見えるから、意味の上から考えても、これは射に違いない。 照と區とは形の上に類似がある。照の上半分の昭からは容易に口を三個取り出すことが できる。下の連火は今でも草書では一の字に近い形に書かれる。一の上に口を三個書けば
の違いであり、いち早くコスモポリタンに変身し、何故自分がハ 。リに生れなかったかを悔 む久慈とは、どこまで行っても意見が対立して果しがっかない。ちょうどそこへ同じ船中 で知合いになった宇佐美千鶴子がロンドンから飛行機で乗りつけて、二人の間に割って入 る。この矢代の異境における孤独感は、著者横光利一自身も、たつぶり経験したことであ ったに違いない。 小説『旅愁』の人物の中には、当然のことながら、箱根丸船客のある者がそれとなく顔 を出す。作家でもあった現会社重役、東野とはもし著者自身でなければ高浜虚子らしい 作家とことわって登場しながら、何時の間にか俳人になり、本屋の店頭で松尾邦之助訳の 芭蕉句集を見つけ、手にとって見て感動したりする。ダンスの上手な中国人、高有明らし い人も確かに船中にいた。もっともそのダンスを直接目で見たわけではないが、艶めかし いスペイン婦人を妻君に射止めるためには、ダンスが巧くなくては叶わぬことであったで あろう。英語のできる会社社長、沖に当りそうな人ならば何人もいたようである。 ところで小説の主人公の矢代は、大学講師級で、歴史の実習のため半年間ほど、叔父の 金で渡欧し、著作に心がけていることになっているが、箱根丸船中を見渡して、私自身の 外に歴史屋というものは居なかった。唯一性だけを取り出せば私が丁度それに当てはまる。
古本屋盛衰記 私が京大へ人学したのは大正の末頃であったから、それ以来五十余年、約半世紀をだい たい京都の地で暮したことになる。その間、さまざまの移り変りをこの身で体験してきた が、町へ出て私と関係の最も深かったものの一つは古本屋であったと思う。もっとも私は 金がないからそんなに高いものは買わず、その代り売りに行くことも殆んどなかったので、 よ少しも顔がきかない。ただ静かに移り変りを観察してきただけである。 一つは寺町を中 陽大正の末頃、京都の古本屋には大たい二つの系統があったように思う。 心とした由緒ある老舗であって、中には恐らく江戸時代から継続したものも少くなかった であろう。従ってそこで取扱われるのは、いわゆる和漢書、美術書など、半ば骨董がかっ 無駄をどのように無くしたらよいかが問題の焦点である。結局それは合理主義に徹するよ この点について有益な指標を与える国があったなら、それは流石に先進国だ り外はない。 けあると言って脱帽せざるを得ないのである。 〔『洛味』第二八九集、一九七六年十月〕
を離れる時であった。横光利一の『旅愁』の中の船客たちは、マルセイユへ着くと、明日 はいよいよ敵陣へ乗りこむのた、という悲愴な決意を抱いて、最後の夜を過ごすのであっ た、とある。この緊張はパリへ着いてもまだ暫くは続く。そして敵の真っただ中にいるん 日。い一 ~ ロ だ、という気持が消えぬのである。それは、お前たち日本人とは何者か、という えることができぬから、周囲から絶えず不審者扱いにされて観察されているような気がし、 みんなが敵に見えてしまうのである。そこで『旅愁』の宇佐美千鶴子は、連れの男たちを、 。、リに居る日本の方、みな半気違いに見えるわ。 とたしなめる。千鶴子のほうは然る。へき男を見つけて、それに倚りかかればいいわけだが、 男のほうは倚りかかるものがない。自分自身で答を出さねばならぬから苦しむのは自然で ある。 錯 これに比。へると、明治時代の池辺義象には悩みが少ない。日本人が何であるかなどは分 交 の リへ出たのは、地球人が月の世界へ降 りきったことで、今更間う必要はない。日本人がパ 西 り立 0 たようなものであ。た。だから物理的な孤独に堪えればもうそれでよい。ただ全く 東 別の世界へ来た以上は、その性質がどういうものであるかを先ず片端から見極めなければ ならなか「た。幸いに見るもの聞くものが、凡て珍しくて面白か 0 たので、それを書き留
男の婚期 欧米では男にも婚期があると言われる。実際に地位も財産もありながら、婚期を失って 独身でいる男性が少なくないようである。 結婚は交際、求婚、婚約という手続きを経て行われるが、この期間中は男性にとって重 ム ナイト ラ大な試練の時期である。というのは特に気をくばって立派な騎士として振る舞わねばなら コ 曜ぬからである。たとえば電車の中などで、立っている老人や婦人を見かけたらば、とび上 がるようにして座席を譲らなければならぬ。万が一にも同伴の彼女にそれを先がけてやら れでもした時には騎士の面目は丸つぶれ、絶交を言い渡されたようなものである。しかし いう説明のついた写真がこれである ( 図 ) 。もしこれを正面から見たなら、全く菱とい う字に似た形になるに違いない。 これとよく似たのが、一九七六年に日本で開催され た中華人民共和国古代青銅器展の図録、出品番号四一、鳥尊とあるもので、この方は ( 一九七八年五月追補 ) いかにも一本足と呼びたい支えが尾の前についている。 〔『読売新聞』一九七五年四月十八日〕