上海亭という支那料理店て開かれた帰りの車中てある。 〈十時頃より一同帰途に就く。予と頼寧とは頼寧の自動車に乗り、他は皆歩して電車 停留場に到りたり。自動車中にて頼寧より「先日来、君を訪はんと欲し居るは実は突 飛なる問題なり。長女静子は女子学習院にて更に高等科に入ることとなし、今後一一年 おか 間在学することなるが、自分より云ふは笑しきことながら、学習院にては評判宜し 此の如き人こそ皇族の妃たるべき人ならんとの噂ある趣なり。若し秩父宮殿下の 妃となることを得れば幸のことなりと思ふ ( 中略 ) 。君の考にて牧野〔伸顕〕に談じて も宜しとのことならば、自分と牧野とは同愛会のことにて関係を生じ居るに付、牧野 に話し置かんと思ふ」旨の談を為せり〉 かたもり この縁談も実現しなかった。秩父宮の妃となったのは、旧会津藩主・松平容保の孫の勢 津子てある。 それにしても「学習院にては評判宜しく」「皇族の妃たるべき人ならん」というお世辞 し力にもお坊ちゃん育ちの頼寧らしい。女中の水野万が娘の不 を真に受ける無邪気さは、、。 品行を告げロしていたらど - フなっていただろ - フか 有馬頼寧という男を通じて見えてくるのは、大正デモクラシーの底の浅さてある。倉富 日記には、有馬頼寧というある意味て典型的な大正貴族の言行の矛盾が、もっとはっきり せ 326
有馬「然るか。今月末日に発表せらるる様に思ひ居りたり」〉 有馬秀雄の口から頼寧の女性スキャンダルの話題が出るのは、その後てある。 この日の 倉富日記はいつも、相手の談話をそのままだらだらと続けてとりとめかない。 談話はとりわけその傾向が顕著てある。核心部分以外は要約してご紹介しよう。 頼寧が近々旅行することを夫人に告げていたところ、ある人物から電報が届いた。夫人 がふと手にすると、最近の電報は封をしていないのぞ開いてしまった。差出人は女性て、 一オナここからが迫真の夫婦の会話て 某日、福岡を出発することを頼寧に知らせる内容ごっこ。 ある。 〈夫人より「手紙の婦人は誰なりや」と云ひ、頼寧君は「是は〇〇 ( 二字分空白 ) な り」と云ひ〔舟子のこと〕、夫人は「然らば旅行は公の用に非ず、此の婦人の為なり や」と云ひ、頼寧君は「然り、此の為ならば旅行しては悪しきや」と云ひ、夫人は 「悪しと云ふには非ざるも、自分は女なり、面白くは思はず」と云ひ、頼寧君は「然 らば旅行は止むることとすべし」と云ひ、夫人は「止めらるるには及ばす」と云ひ、 頼寧君は「旅行しては宜しからずと云ふならば止むることにすべし」と云ひ、遂に之 を止むることとなりたる趣なり〉 よく練りこまれた名シナリオのワンシーンのようてある。 308
使用するのはけしからん」 倉富は大殿を必死になだめながら、若殿の弁護も引き受けオ ぎみ 「今夜は風雨も激しく、 伯爵はお出か けにならないから、頼寧君は自動車を使ったのてし よう。帝国劇場に行った後、すぐに自動車を返せば別に差し支えないのてはありません か。このような些事はもちろん、家令のことなどについても、あまり気をもまれてお身体 に章ってはいナ 。ません。私も何とか急いて対処しますのて、それまてご辛抱なさってくだ さい。橋爪に不都合なことがあったら、少しも遠慮なされずお叱りになって、それても改 めなければ、どんなことてもこの倉富にお申しつけ ′ \ さい」 やれやれと倉富の溜め息が聞こえてきそうな記述てある。一同が伯爵家から帰宅の途に つくくだりは原文をお読み し中に 4 にこ , フ はげ . 〈此日午前は微雨、午後風雨漸く劇しく、八九時頃より殊に甚し。予等が有馬邸より 帰らんとするとき、橋爪が自動車を雇ひ、予等を送らせんとするも、自動車一台の 外、雇ひ難く、伯爵邸の自動車を使用すれば二台となるも、今夜は頼寧が無断にて自 動車を使用し、伯爵が之を怒り居るに付、之を使用し難しと云ふ。 予「其事に付ては先刻伯爵より話あり。予より弁明致し置たる故、伯爵邸の自動車 を使用するも差支なかるべし」 301 第六章有馬伯爵家の困った人びと
『恋の華・白蓮事件』永畑道子 ( 一九九〇年四月・文春文庫 ) 『有馬頼寧日記 2 』尚友倶楽部・伊藤隆編 ( 一九九九年十一月・山川出版社 ) 『七十年の回想』有馬頼寧 ( 一九五三年十一一月・創元社 ) 『評伝廣津和郎』坂本育雄 ( 二〇〇一年九月・翰林書房 ) 『摘録断腸亭日乗 ( 上・下 ) 』永井荷風、磯田光一編 ( 一九八七年七、八月・岩波文庫 ) 『狂気と王権』井上章一 ( 一九九五年五月・紀伊国屋書店 ) 『西園寺公と政局 ( 第一一巻 ) 』原田熊雄 ( 一九五〇年十一月・岩波書店 ) 『昭和天皇独白録』寺崎英成他編 ( 一九九一年三月・文藝春秋 ) 『昭和史の謎を追う ( 上 ) 』秦郁彦 ( 一九九三年三月・文藝春秋 ) 『二・一一六事件 ( 第三巻 ) 』松本清張 ( 一九八六年二月・文藝春秋 ) 『明治維新人名辞典』 ( 一九八一年九月・吉川弘文館 ) 『久留米人物誌』久留米人物誌刊行委員会 ( 一九八一年十月・菊竹金文堂 ) 407 主要参考文献
〈予「唯、頼寧が果して十分の決心ありや否に疑ひあり。而して、軽率に爵位も無用 なり、資産も無用なり、性命も無用なり抔と云ふことあり。 ( 中略 ) 徒らに家を滅ばす様のことありては、有馬家としては困る訳なり。有馬家の相談人 等は、其事業に反対する訳に非ず。随て、其費用も支出せずと云ひたる訳に非ず。 ( 中略 ) きゅ、つこう 頼寧も矢張り華族の子にて、躬行は言に合はす忍耐も出来難きこと多きに付、実効 を得すして家に累を及ばすことを恐れ、実は先頃関屋貞三郎、西園寺八郎等に相談 し、頼寧をして方針を変ぜしむる為、式部官にても任用することを計画し、関屋等は 何とか工夫すべしと云ひたるも、本人が承知せざりし為め其儘になれり」〉 さすが貧乏士族の家柄から男爵を授けられる地位まて這いあがった倉富てある。やは 見るべきところはしつかり見ている。倉富は要するに、頼寧は世間知らすのお坊ちゃ んて、言行も不一致だし、こらえ生もないのて、とても社会救済活動を最後まてやり遂げ と一一一一口っている。 ることがてきるとは田 5 - んたい、 倉富としては、牧野からも頼寧に注意してもらえると田 5 っていたのだろう。ところが 牧野の返答は予想外のものだった。 この日の日記には、「 ( 頼寧は ) 実に得難き人と思ひ居れり」「国家の為め必要なる人と思 いたず 322
令問題はかなりの期間くすぶっていた。 家令問題の決着 橋爪が有馬家の家令を正式に罷免されるのは、大正十年八月二十五日てある。この日の 日記には、倉富が電車に乗ったことカ言されている。 ここて倉富と交通機関の関係を述べておけば、倉富は宮内省に出勤する際、赤坂丹後坂 の自宅から人力車か宮内省差し向けの自動車だけに頼っていたわけてはない。 「赤坂見附の停留所にて電車を降り」という記述が結構あるから、電車通勤も珍しくなか った。なかにはこんな記述も見られる。 〈午後一一時より電車にて宮内省に行かんとす。今日は特別大演習の最終日にて昨夜よ り今暁に掛け多摩川辺にて演習あり、之を見に行きたる衆人正に帰るときにて電車は たまたま 皆満員なり。将に歩して行かんとし、赤坂見附に到る。偶乗ることを得る電車あ り、乃ち之に乗り、桜田門外にて車を下り、宮内省に行き非常ロより入らんとす。扉 開かず。乃ち判任官玄関より入り庶務課に到る〉 ( 大正十年十一月二十日 ) 同年七月一一十七日の日記には、「午前九時十分後より、電車に乗り、司法大臣官舎に行 き、刑事訴訟法改正案の委員会に列す」と書かれている。律儀な倉富らしく、古巣の司法 305 第六章有馬伯爵家の困った人びと
もり額。頼寧は将来、荻窪に本邸を構える考えて、結局は仮の住まいになるだろう。 〇台湾ての植林事業の調査がすみ、近々許可となる見通し。 〇安藤信昭が近く侍従となる見込み。安藤からそのための衣装代につき、頼萬伯爵に借金 を申し込んだが、 倉富に相談せよと言われた云々。 〇有馬家一同の近況。伯爵夫人の風邪が治らない。伯爵は元気て、今日も横浜に行ってい る。横浜てはいつものように昼食をとり、 活動写真を見た。横浜行きの汽車賃を「表」 ( 有馬家の予算 ) から出すようになってから伯爵の横浜行きが増えた。 読者にとってあまり関心が持てそうにない事柄を、それこそ倉富日記ばりに連綿と書き 連ねたのは、大正という時代の歴史的ポジショニングを、ここてもう一度読者に再認識し ていただきたかったからてある。 たとえば、倉富と橋爪の間てこの日話題にあがった松村雄之進は、幕末期に活躍した久 留米勤王党の流れをくむ男てある。松村は明治四年、久留米藩を震撼させた大楽源太郎殺 害事件に加わって獄につながれた。大楽は高杉晋作の奇兵隊に合流した幕末の志士て、維 新後、尊皇攘夷はいまだ達成されずとして第一一維新を呼号し、挙兵したが誰 ( れす、明治新政府のお尋ね者となって久留米に匿われていた。松村らが大楽を殺害したの は、新政府の追及の手が久留米藩に及ばうとしていたためてある。出獄後の松村は福地源 かくま 296
本書の内容 序章誰も読み通せなかった日記 第一章宮中某重大事件ーーー怪文書をめぐる「噂の真相」 第ニ章懊悩また懊悩ーー倉富勇三郎の修業時代 第三章朝鮮王族の事件簿ーー黒衣が見た日韓併合裏面史 第四章柳原白蓮騒動ーーー良族・華族のスキャンダル 第五章日記中毒者の生活と意見ーー素顔の倉富勇三郎 第六章有馬伯爵家の困った人びとー・・ー若殿様と三太夫 第七章ロンドン海軍条約ーー枢密院議長の栄光と無念 終章倉富、故郷に帰る
し居る故、奉職する考もなかるべし、当分其意に任かせ置く方宜しからんと云ふこと にて、其儘になり居れり。実は東宮侍従位に適当ならんと思ひ居りたるも、只今の話 にては、直接に右様の事になす訳には行かず。一二年位、足を洗ひたる後のことにな さざるべからざるべし。自分は宜しからんと思ふが、大臣次官は如何云ふべきや、夫 れは分からず。自分より本人に話し見るべきや」〉 自分はい、 しと思うが、社会事業などから足を洗わなければ、すんなり宮内省に入れるわ + ′こ一↓よ一丁 かないだろう 痛いところをつかれた倉富は必死に食い下がる。 「本人が何を言うか、私にもわからない。頼寧は新聞などにもいろいろ書くのて、大臣が どういう反応をするかもわからない。、 ご迷惑だが、 君から大臣などの意向を内偵してくれ ることはてきないだろ , フか」 牧野とは一年中話しているにもかかわらず、身内のことになると倉富も気軽に頼むわけ には行かなかったのだろう。隆を内苑掛に押し込んだときとはそもそもレベルが違う。西 園寺は倉富の苦衷を察して救いの手を差し伸べた。 〈西園寺「自分より直接に次官に向ひ、有馬を採用することを申出し見ても差支な し。本人の意見は分らざるも、華族の中にて相当の人を用ゆる必要あり。若し不可な らば、俸給生活を為す人に非ざる故、何時之を罷めても差支なしと云ふても宜し」 320
を説明しこ。 頼秋は寮生活をしており、九月二日の夕刻、幼年学校に帰ると言って青山の自宅を出た が、学校の門まて行ってそのまま行方をくらました。二日目の夜になって頼秋は自宅の勝 手口に現れ、「これを父上に」と言って小さな紙切れを差し出した。頼寧が読んてみると、 「学校に帰るつもりて出かけたがどうしても帰る気になれす、荻窪の別邸に行ったが留守 番に会、 したくないのて森の中て一夜を過ごした」とあり、次のように結ばれていた 〈父母に心配を掛けたるは済まざることなり。如何様にも処置して貰ひ度〉 頼寧は仁田原に「自分の育て方が間違っていた。あなたから十分に説諭してほしい」と 頼み、仁田原が頼秋に話を聞くことになった。頼秋はこんな胸中を明かして仁田原を呆れ させている。 「学校に行かなくても勉強はてきる。ばくは文学て身を立てるつもりだ。伯爵家の長男が 云々というけれども、爵位などは二十年くらいてなくなるだろう。一時は父母に心配をか けても、あとて事を成せば不孝てはない これによく似た台詞をどこかて聞いたと思ったら、前年の六月十二日に頼寧が倉富に語 った一言葉とそっくりてある。トンビはめったなことてはタカを産まない トンビの子はや はりトンビてある 313 第六章有馬伯爵家の困った人びと