書』 ) と述べている。 原敬が明確に大正天皇の病気を知ったのは、日記て見る限り、大正八年二月のことてあ る。宮内大臣詰所て石原健三宮内次官との会話て、「聖上御病気の御様子」をきいたとこ ろ、葉山て静養している大正天皇は、風呂にも入らす庭にも出ないのて、侍医が散歩を勧 めたという話を聞いている。続いて次のような記述がある 別に是と云ふ御病症あらざれども何分少々御熱などのある事もあり、御脳の方に何 きよ、つく か御病気あるにあらずやと云ふ事なりと。甚だ恐に耐へざる次第なり ( 『原敬日記』 大正八年一一月十五日 ) この後『原敬日記』には大正天皇の病状についての記事がしばしば現われるようにな る。特に原が間題としたのは、もちろん山県もそうてあるが、帝国議会開院式への大正天 皇の出席間題てある。天皇は議会の開院式において勅語を読むことになっているが、無事 それがてきるかてある。つまり国民の前て天皇としての儀礼的役割か果たせるのか疑間に なってきた。兀老の松方正義は「誠に遺感の次第ながら数日来御練習になっているが、何 分にも御朗読は困難なようだ。開院式御出席は難しいてあろう」と原に報告している 0 0 4 16
1 府督初代統監の伊藤博文に連れられて日本に留学 李し、純日本風の環境て育った。 よ 『牧野伸顕日記』の大正十年八月九日の項にこんな 右 一三ロ込がある 前 〈加藤泰通入来。其談話の一節に、過日梨本両 子 太 殿下〔宮・守正王、同妃伊都子〕、〔李王〕世子 皇文 〔李垠〕殿下帯同、御用邸伺候の折は、数日前 当藤 より陛下は特に世子の参内を御待ちあり。世子 皇に ー御幼少の時代より御承知あり、且っ御自分朝 正左 大列 鮮語を話すとの兼ての御抱負もあり、殊に世子 し は八年下なれば目下に御覧あり、勝手に待遇も 問宗 訪純 出来る等の事より、頻りに御侍あり〉 を帝 国皇日 帝国力藤泰通は宮内省の式部官てある。牧野は、李垠 大、は大正天皇より八歳年下と書いているが、これは十 、皇 年天八歳年下の誤りてある。 よしひと 四大大正天皇が嘉仁親王と呼ばれていた皇太子時代か 119 第三章朝鮮王族の事件簿
日載 1 ペ 正ム 日図 の会 良立 勇※ 一三ロ 依薩男待 え正十五キ十月一一十合 男爵爵記。御璽の上に大正天皇の名 ( 嘉仁 ) とならんて、 摂政時代の昭和天皇の名 ( 裕仁 ) が見える
白蓮スキャンダルの激震 皇太子妃内定に変更なしとの宮内省発表て宮中某重大事件がひとまず一件落着し、秋に は皇太子が摂政に就任して皇室最大の危機がとりあえず回避された大正十年、宮中を揺る びやくれん がすもう一つの大事件が起きた。柳原白蓮事件てある。 さきみつ あき、」 柳原白蓮 ( 本名・燁子 ) は、明治十八 ( 一八八五 ) 年、公家出身の伯爵・柳原前光と柳橋芸 者のおりようの間に生まれた。 なるこ にいのつぼね 明治天皇に仕え、大正天皇の生母となった柳原愛子 ( 二位局 ) は、白蓮の父柳原前光の 妺てある。つまり大正天皇と白蓮はいとこの関係になる。 燁子は十六歳て柳原の分家の北小路家に嫁するが、間もなく離婚、二十七歳のとき筑豊 の炭鉱王の伊藤伝右衛門にみそめられて再婚した。 しかし、佐佐木信綱に師事して「情熱の歌人」ともてはやされた燁子と、一一十五歳も年 上の炭鉱王との結婚生活はやはり長くは続かなかった。 とうてん 燁子は大正十年十月、孫文とも交流があった革命家・宮崎滔天の息子て、当時、東大の 社会主義グループ「新人会」に所属していた宮崎龍介と出奔するスキャンダル事件を引き 起こした。白蓮は女ざかりの三十七歳、不倫相手の宮崎龍介は白蓮より八つ年下の二十九 217 第四章柳原白蓮騒動
大正天皇の病状はこの日まて四回発表されている。五回目はその日から三日後の十一月 二十五日に発表され、この日、皇太子が摂政に就任した。 翌日の『東京朝日新聞』は、侍医頭池辺棟三郎を筆頭とする五名の連名による「聖上陛 下御容体書」を掲載している。後述するように、 「御容体書」は摂政制度を導入する手続 き上、倉富が最も重視した文書だった。 〈天皇陛下に於かせられては稟賦御孱弱に渉らせられ、御降誕後三週日を出てざるに 脳膜炎様の御疾患に罹らせられ、御幼年時代に重症の百日咳、続いて腸チフス、胸膜 炎等の御大患を御経過あらせられ、其の為御心身の発達に於いて幾分後れさせらる、 せんそ 所ありしが、御践祚以来内外の政務御多端に渉らせられ、日夜宸襟を悩ませられ給ひ し為め、近年に至り遂に御脳カ御衰退の徴候を拝 するに至れり。目下御身体の御模様に於ては引続 き御変りあらせられず、御体量の如きも従前と大 0 差あらせられざるも、御記銘、御判断、御思考等 の諸脳カ漸次御衰へさせられ、御考慮の環境も随 きようあい て狭隘とならせらる。殊に御記慮力に至りては御 しかのみならず 衰退の兆最も著しく、加之御発語の御障碍あ 大正天皇 ひんぶ せんじゃくわた 201 第四章柳原白蓮騒動
をを ) を 府司法部長官という重要ポストにあった。 前掲の『現代』 ( 大正十五年七月号 ) は、朝鮮総督府 時代の倉富について次のように述べている。 〈時の総督寺内正毅伯は、有名な八釜し屋てあ る。その厳格と、批評眼の鋭利なるとは、非常 きむ なものて、気六づかしいことも亦た無類てあ 彼 る。随って、彼に用ゐられた人といへども、 から一度も叱かられず、また一度も、その六づ かしい顔を見すに済んだといふ者はあるまい〉 その寺内がいつも褒めていたのが、倉富だったと いう。『現代』の記事は、これに続けて、「『さすか の総督ても褒める人』といふ一言が、朝鮮に於ける 倉富氏の声価てあった」と書いている。 府 総李垠と大正天皇 明治四十年 ( 一九〇七 ) 、十歳の李垠は、韓国統監 朝 やかま 1 18
予「聞かず」 西園寺「東久邇宮附武官某より陸軍大臣に封し、東久邇宮殿下は婦人関係にて健康 すぐ 勝れざる故、早々帰朝せらるる様取計ひたらば宜しからんと申来り、陸軍大臣より之 を宮内大臣に転報したりとのことなり」 予「婦人関係にて健康を害すと云ふは解し難し。如何なる病状なりや。精神病ても 起りたる訳なりや」 つまびら 西園寺「然るには非ず。詳かなることは分らず。或は神経衰弱とても云ふ訳なる あわ べきか。神経衰弱位ならば何も遽てて帰朝せしむるには及ばざることなり」〉 としこ 明治天皇の皇女の聡子内親王 ( 大正天皇の妹 ) を妃にして昭和天皇とは叔父、甥の関係に なるひこ なった東久邇宮稔彦は、型破りの皇族として知られて 大正九 ( 一九二〇 ) 年、フランスに留学して自由奔 放な暮らしを謳歌し、帰国したときはすっかり自由主 稔義者となっていた。倉富と西園寺がここて話題にして いるのは、東久邇宮のパリての奔放な生活ぶりについ 邇 東ててある。 0 185 第四章柳原白蓮騒動
それをすべてパソコン打ちし、 <<< 判の紙にプリントアウトすると、枚数にして千四百 枚あまりにのばった。四百字詰め原稿用紙に換算すると、ざっと五千枚、字数ては約二百 万字になる計算てある。 読み下した記述に関しては、専門家か精読したわけてはないのて、あるいは誤読がある かしれ . ない。 この点については、あらかじめ大方の叱正を請うておきたい。 第一級の歴史的資料 大正十年と十一年に照準を定めたのは、一つには、その時代が、現在にも通じる皇室最 大の危機の時代だったからてある。 大正天皇のご不例はもはや公然の秘密となり、大正十年十一月二十五日には、病気の大 ひろひと 正天皇に代わって皇太子裕仁 ( 後の昭和天皇 ) が国事を代行する摂政制が敷かれた 大正十一年には、明治・大正の政治に多大な影響力をケえてきた大隈重信と山県有朋が 相次いて他界し、前年の大正十年には、大正という時代の一瞬の輝きを体現した原敬が暗 殺されている。 明台は確実に終わり、大正は行き詰まり、時代は昭和という暗い時代に入る準備にゆっ くりと移っていた。
歳だっこ。 この事件が宮内官僚の悩みのタネとなったのは、燁子が大正天皇といとこの関係にある ことに加え、燁子の異腹の兄の柳原義光が伯爵て貴族院議員だったからてある。 ためもり さらに、義光の姉の信子は東宮侍従長の入江為守に嫁いており、この複雑な姻戚関係が 事態をなおさら紛糾させた。 籾原白蓮はいまや、宮中の中心部に巣食った厄介きわまる獅子身中の虫だった。 宮中某重大事件のニの舞か 宮中某重大事件の政治的収拾てどうにか威信失墜を免れたばかりだというのに、またこ こて華族の一員てもある白蓮の不祥事が人びとの耳目を集めれば、皇室の権威が地に堕ち ることは火を見るより明らかだった。 倉富日記にも、この白蓮間題に関連する記述が随所に出てくる。 前にも述べたか、日記という特性ゆえ、間題はあちこちに拡散して書かれている。日記 頂に間題を追っていくことは、 かえって読者を混乱させるばかりなのて、テーマを三つに 絞って見ていこう。 ます一つ目は、白蓮の兄て彼女を監督する立場にあった柳原義光の責任問題てある。こ 218
第一一章懊悩また懊悩ーーー倉富勇一一一郎の修業時代 武臣命を愛し又銭を愛す / 倉富家のルーツ / 胤厚の鬱屈 / 六歳て勘当 / この父にして この子あり / 邪路に踏み込む / 村夫子然とした風貎 / 旧枢密院を訪ねる / 倉富の通勤 スタイル / 同時代の倉富評 / 石の如 、草の如く / 孫が見た倉富勇三郎 第三章朝鮮王族の事件簿ーー黒衣が見た日韓併合裏面史 日鮮融和のシンポル / 李垠と大正天皇 / 李太王の死の謎 / 朝鮮王家をどう位置づける か / 殿下の臨場、是か非か / 会議は踊る / 朝鮮人参は効能ありや / 予の富は憐れむべ き富なり / 着帯式の是非 / 記述の温度差 / 怪しき朝鮮人見参 / 世子暗殺の噂 / ポート バイに三食メヌーっき / 乳母の選択 / 駆けつけた御典医 / それほど乳質が悪しきや / 朝鮮への旅 / 容体急変 / 消化不良か毒殺か / 水際だった采配 / 葬儀は朝鮮風に / 李王 家の必要性 / 李垠夫妻のその後 115