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検索対象: 枢密院議長の日記
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1. 枢密院議長の日記

水天宮生まれの″赤い貴族″ 公務の宮内省関係者と親族を除き倉富日記に最も頻出する登場人物は、有馬家当主の有 よりやす 馬頼寧てある。前にも少しふれたが、倉富は明治三十年代から、旧藩主有馬家相談会の最 高顧間を委嘱されていた 有馬家の家政を左右する相談会の重鎮として関わったことが、倉富の平凡な私生活にか なり刺激的なアクセントをもたらすことになった。 よりつむ 有馬頼寧は明治十七年、旧久留米藩主の有馬頼萬 ( 伯爵 ) の長男として、東京・日本橋 かきがらちょう の蠣殻町に生まれた。現在の水天宮のある場所てある。ちなみに、水天宮の元地権者は有 馬家てある。 ただより 久留米藩一一代目藩主の有馬忠頼が、故郷に寄進した広大な社殿が水天宮のそもそものル よりのり ーツてある。それが参勤交代により参詣てきなくなったため、九代目藩主の有馬頼徳が文 やしろ 政元 ( 一八一八 ) 年に有馬家の江戸屋敷内に社を移し、その後有馬家屋敷の移転に伴って、 明治五 ( 一八七一 l) 年に蠣殻町に移ってきたのが、東京水天宮の始まりてある。この歴史 的経緯からもわかるように、水天宮は初めから有馬家の屋敷神的性格を帯びていた 有馬家を家督相続して昭和二 ( 一九二七 ) 年に伯爵となった頼寧は、明治以降の華族の 292

2. 枢密院議長の日記

ず。牧野の家よりは宮内省総務課 ( こ電話する」とに酒巻が約し居りたる趣にて、酒巻 は総務課に行き、牧野の家より電話来りたる否を問ふ。既にして返り来り、「電話 ま 未だ来らず」と云ふ。予、今一度牧野の家に一話すべきことを酒巻に命す。酒巻復た 総務課 ( , こ行き、電話の来りたるや否を問ひ、一話来らざることを確め、復た牧野の家 に電話す。牧野の家人、「出先に電話したれ、、も牧野は未だ行かざる趣に付、牧野が 先方に達したらば早速問合せて返答すべし」云ひたる由を伝へ、且、牧野の出先は すなわ 新喜楽に相違なき趣なることを報す。予、乃酒巻をして新喜楽に電話し、牧野が往 き居るや否を間はしむ。酒巻、新喜楽に電話しこるも、牧野は未だ来り居らずと云ひ、 且、今タの来会時刻は午後六時三十分なりと一ひたる由を報す。時に六時頃なり。 予乃ち酒巻に「予は是より家に帰るべし。君、牧野が新喜楽に行きたる後、予が明 朝八時頃、牧野の私宅を訪ふべきに付、差支なきや否を問ひ、其返事を予が家に電話 し呉よ」と云ひ、宮内省の自動車に乗りて家に帰る〉 そう言い置いて、倉富は赤坂の家にひとます帰ると、七時に酒巻から電話がかかってき 酒巻が一一一一口うには、「新喜楽に電話したところ大臣の秘書が出て、明朝大臣の家に行かれ てもよいか、今夜こちらに来られるほうが便利てはないかと言っています。どうされます 67 第一章宮中某重大事件

3. 枢密院議長の日記

正という時代には主家思いの気風がまだ色濃く残っていたからだろう。 大正十年二月二十四日の日記を見ると、有馬家相談会どんなことが話し合われていた かがよくわかる。この日、倉富は午後四時過ぎに帰宅した。有馬家家令の橋爪慎吾が相談 会の打ち合わせにやってきたのは七時半て、橋爪が帰ったのは九時。この一時間半の話の 内容をまとめた部分だけて、日記は四百字詰め原稿用紙にして十二枚にも及んている。以 下、箇条書きにしてみよう。 〇水天宮の大正十年度予算の件。有馬家職員が水天宮の手伝いをした場合の手当減額。そ の代わり、一昨年減額した水天宮から有馬家への地代を元に戻してはどうか。水天宮が 年に一度、新聞記者を饗応することになっているが、それを継続するかどうか 〇松村雄之進が死亡したが、有馬家からの香典をどうするか。松村は有馬家にとって利害 半ばする面がある。倉富が言うには、松村が大楽源太郎を殺したことなど、有馬家の利 益になっていない。 〇有馬家の家令を名誉職としてはどうか。そうすれば相当な人物を得ることがてきる。 や、名誉職にするのはかえってまずい。その理由。 〇青山にある頼寧の住まい増築の件。むしろ麭町あたりに土地を買って新築したらどう か。頼寧夫人が麭町は方位が悪いと言っている。増築が木造の場合と鉄筋の場合の見積 だいらく 295 第六章有馬伯爵家の困った人びと

4. 枢密院議長の日記

きにする方が都合宜し。兎に角、邦久王の意向を知ることが第一なり。娘の写真も差 上げて宜し』とて、姉妹の写真も送られ、邦久王の写真も有馬家に送りあり。久邇宮 殿下より既に邦久王にも話されたることと思ふ。姉の方は十七歳にて〔大正十一年は 十八歳ならん〕、邦久王と四歳違ひにて、俗説は之を嫌ふ由。然し有馬家にて頓著な ければ、宮家にては姉にても宜しとのことなり」 予「然らば、有馬家にては最早予等に話す必要なしと思ひ居るならん」 栗田「然るべし」〉 このやりとりからわかるのは、倉富がこの縁談について栗田からの依頼を伝えたのに 頼寧から何の連絡も受けていなかったらしいことてある。 倉富が栗田に言った「然らば、有馬家にては最早予等に話す必要なしと思ひ居るなら ん」という言葉に、倉富の憮然とした感情が読みとれる。 頼寧と倉富の関係は微妙だった。爵位を返上すると公言し、部落解放運動に血道をあげ る頼寧のふるまいは、倉富の目から見れば烏滸の沙汰だったに違いない。 倉富にとって頼寧は、有馬家を潰すかも知れない困った若殿様てあり、頼寧にとって倉 富は、煙たいお目付け役の老臣てしかなかった。 全五巻の『有馬頼寧日記』を読むと、頼寧は有馬家相談会について、「少しも温かみが 317 第六章有馬伯爵家の困った人びと

5. 枢密院議長の日記

有馬秀雄「伯爵が自分等に対して怒らるれば宜しきも、夫人又は家従等に対して怒 らるる故之を使用せざる方宜しかるべし」 少時後、漸く他より自動車を借り得たりとのことにて、仁田原、松下、境は一台に 同乗し、予は一人にて乗り、浅草雷門まて平佐廉太郎を乗せ、風雨の為め通行人少き 故、疾駆し、午後十時十五分前、家に帰りたり〉 仁田原、松下と車に同乗した境 ( 豊吉 ) も有馬家相談人の一人てある。久留米の漢学者 の家に生まれ、三菱の岩崎家と有馬家の顧間弁護士をつとめた。ちなみに境の三男は三菱 わたる 銀行会長となった田実渉てある。 鬱々とした感情を夫人や使用人にぶつける頼萬のわがままにはほとほと困ったものてあ いつものように無断て自動車に乗り込 たがこの日の有馬家相談会からはそれ以上に、 りと、それを苦々しく思いながら注 み、豪雨の中を帝国劇場に出かける頼寧のドラ息子ぶ 意てきない頼萬のふがいなさが、ありありと伝わってくる。 やはり華族は華族なり この相談会から二カ月ほど経った大正十年六月十二日、倉富は頼寧を訪ねて注意を与え ている。だが、頼寧はあまり聞く耳はもたない様子て、倉富に反論している。そのやりと 302

6. 枢密院議長の日記

方面に向って狭い路地を進み、右手の石段を登って突き当たった山脇学園に隣接したあた りぞある。赤坂丹後坂の倉富の家から、皇居内の枢密院まて直線距離にすると二キロ足ら ずてある。 倉富の出勤経路は、現在の地図に当てはめるなら、丹後坂からまず青山通りに出て、お 崛端の道を日比谷交差点まて進み、そこを左折して日比谷通りを北に進み、和田倉門から 皇居に入るルートだったと考えられる。倉富はこの道を、人力車か宮内省差し向けの自動 車、時には市電て毎日通った。 倉富が皇居内の枢密院に通っていた大正十一年、朝鮮銀行元山支店長の倉富鈞 ( 勇三郎 の長男 ) の次男として朝鮮の元山市て生まれた英郎氏は、大正十五年に一家て東京に移り、 倉富の家と同じ町内に住んだため、赤坂丹後坂の家の記憶がかすかに残っている。 「当時の赤坂は田んばだらけてした。丹後坂界隈は谷間みたいに低くなっていて、小さな に麻布三連隊本部があって、朝の起床ラッパ 家がごちやごちゃありました。その向こ - フ側一 がよく聞こ、んました」 丹後坂の家は平屋て、家にはお手伝いさんが常時一二人くら、 「ても、枢密院議長の家としてはちっちゃなものてした。建坪ははっきり記應していませ んが、全部日本間だったことは覚えています」 105 第二章懊悩また懊悩

7. 枢密院議長の日記

念入りな返事てある。倉富は「有馬の意向を聞いて報告しよう」と言い、十月一一十五日に は栗田と会って、有馬頼寧にその件を話しておいた旨を告げている。 臣の心主知らず この話は、翌年一月八日の日記にも出てくる。ここても倉富の話し相手となっているの は、栗田直八郎てある。 〈予「先頃話を聞きたる有馬頼寧の一一女を邦久王の配侶と為すことに付ては、其後未 だ頼寧の返答を聞かざるが、 ( 有馬家家令の ) 仁田原重行よりも、未だ何とも云はざる や」〉 栗田はこれに答えて、この縁談が起きたそもそものきっかけを倉富に初めて明かす。 ま壬生家に勤めている。有馬家からその女中に娘 先年、有馬家に勤めていた女中が、い の縁談の話があり、壬生伯爵がその話を久邇宮殿下につないだ。有馬家ては邦久王本人の 意向がわからなければ返答するのは難しいと言っている。 この話の後、栗田は続けている。この間には倉富日記にはきわめて珍しく、矛盾した記 述があるのだが、本筋てはないのて省略する。 〈栗田「 ( 有馬家の話ては ) 『有騎家には姉妺あり。いづれにても宜しきも、姉の方を先 み 316

8. 枢密院議長の日記

たが、水野は「そんなことを話しても不利益になるだけてはないてすか。以前にも例があ ることなのて、そのままにしておいた方がよろしかろ , フと思います」と断っている。「以 前にも伊がある」という一言に、静子の発展家ぶりがうかカえる 水野のふるまいは女中として明らかに行きすぎてある。水野に関する記述を読んだとき とっさに浮かんだのは、テレビの人気ドラマ「家政婦は見た」の市原悦子ぞある。使用人 の分際て、主家のお嬢さまの私信を盜み読みする水野という女中は、市原悦子演じるとこ ろの家政婦以上の出すぎた蓮っ葉な女だったのだろう。そう勝手に想像していた。ところ が、水野万に付された倉富の注記を読んて考えがまるきりかわった。 まさな 倉富の注記には「水野正名の娘にて只今青山有馬家に雇はれ居るもの」とある。水野正 名は有馬家にとって恩人とてもいうべき大物てある。 水野は、慕末の政変にともなって朝廷内の尊王攘夷派が追放された有名な七卿落ちに随 従し、久留米勤王党の首領と仰がれ、有馬家の家老格となった。維新後、前に述べた大楽 源太郎らと通じたとして反政府活動の責任を間われ、終身刑に処せられ獄死した。 有馬家てはその恩に報いるため、一人娘の万を女中頭として雇ったものと思われる。万 の生年は不明だが、昭和七年に死去して水野家は断絶となっているから、この当時は六十 をとっくに過ぎた独身の老女だったと推察てきる。その経歴からみても、それなりの教育 311 第六章有馬伯爵家の困った人びと

9. 枢密院議長の日記

一郎らと帝政党を旗揚げし、のちに台湾総督府国語伝習所長、衆議院議員などを歴任し、 国士として名を馳せた 維新から半世紀あまりしかたっていない大正十年代は、倉富ら旧藩主に仕える忠臣にと って、慕末・維新の血なまぐさい事件はまだ生々しい記憶をもって思い出せる時代だっ それは、われわれ〃団塊の世代みが、実際には経験していない太平洋戦争を昨日の出来 事のように話せる感覚に近 いといえば、少しは理解していただけるかも知れない。 倉富が 大久保彦左衛門のような役割を果たした有馬家相談会が、人脈的には慕末の〃文化圏内〃 にあったことは、また後て述べる機会があるだろう。 倉富家を訪間した橋爪慎吾は、この当時、有馬家の家事全般を監督する家令の立場にあ にたはらしげゆき った。それから間もなく、福岡出身の元陸軍大将て倉富より九歳年下の仁田原重行が家令 となり、さらにその後任となるのが、久留米藩の元家老職の家柄て、夫人が先代当主有馬 頼萬の従妹にあたる有馬秀雄てある。 橋爪と倉富のこの夜の話し合いからわかるのは、家を新築することから香典の金額ま て、有馬家の家政に関するありとあらゆることが旧藩家臣の流れをくむ長老らによる相談 297 第六章有馬伯爵家の困った人びと

10. 枢密院議長の日記

これ以上はとても付き合っている余裕もなければ、酔狂も持ち合わせていないのて、そ の手記のなかから重要だと思われる部分だけ要約して以下に記す。 倉富家は富裕とはいえないまても、久留米藩の領内に若干の土地を持ち、農業を営んて いた。ところが倉富の祖父の倉富又市の代に領内に百姓一揆が起き、庄屋が打ち壊される 事件が起きた。その庄屋は倉富家と縁戚の関係にあったため、連座により家格を剥奪され その上、不幸なことに又市が生した男児はすべて早世したため、倉富家は絶家の危機に 見舞われた。そこて、数代前に倉富家から出て園田熊三郎と名乗っていた男を、倉富家て 唯一人成育した三女の久仁子の婿にとったのが、倉富の父の胤厚だった。以下、原文を引 用ししょ - フ。 〈父は十六才の時より豊後の広瀬淡窓先生の塾にて漢書を学び、十七才の時より久留 米藩の家老某の家来と為りたるが、某は父の学力あるを愛し、其業を大成せしめんと 欲し、引続き淡窓先生の塾にて修学せしめ居りたるが、倉富家の事情切迫にして某の いとま 承諾を求むる遑なく、之を得ずして養子と為りたる為め、某は之を怒り、父に瑕を遣 はし、且っ他家に奉公することを差止めた。 とど 父は右の事情にて、漢学は中途にて其の修学を停め、愛護を受け居りたる某よりは