『原敬日記』の大正十年一月二十四日の項に、この怪文書に関する記述が出てくる。 〈久邇宮王女皇太子妃に御内定の処、色盲云々にて変更の議あるは山県等不忠の所為 なりとの印刷物余等及び上院議員等に無名にて送付し来れり、多分久邇宮家関係者の かくのごときこと 処為と田 5 はる、も、 此事にては世間の注目する所となり、甚だ妙ならざる次第に 付、岡警視総監より宮相に注意せしむる事となしたり〉 ″羽織ゴロ″の登場 大正十年三月十九日の倉富日記に、怪文書間題に関する驚くべき内容が書きとめられて しる。この日と翌日の日記は、ふだんとはまった く違う緊迫した筆遣いてある。かなりの 長文だが、重要な場面なのて、原文に沿っててきるだけ多く紹介しておこう。 三月十九日の午前十一時頃、宗秩寮総裁室に久邇宮附事務官の木村が飛び込んてきた。 木村は開口一番、久邇宮家宮務監督の栗田から大変なことが起きたと聞いた、と言って倉 富に説明を始めた。倉富が怪文書のことを最初に知ったのはこのときてある すこぶ 〈木村「 ( 栗田が ) 頗る狼狽し居るゆへ、『何事なりや』と云ひたる処、『昨日、来原某 おとな が久邇宮邸に来り、武田健三を訪ひたる処、武田が在らざる為め、分部某 ( 資吉 ) に たが 面会し、高声にて武田が約に違ひたる事を罵りたるに付、其事情を間ひたる処、来原 よら 0 くるはら 61 第一章宮中某重大事件
云ふことなり。名家の家庭に此の如き風聞あるは 実に困りたることなり。此事は誰にも話さず、君 一己の含に留め置呉よ」〉 それから約一一週間経った十二月二十日の日記にも、 久徳川慶久の話題が出てくる。倉富が牧野との打ち合わ せを終わり、部屋を出て行こうとすると、牧野がまた 徳 言したいことがあると言って、倉富を呼びとめた。 其原因は不在中 〈牧野「徳川慶久が一昨年頃、西洋より帰りたる後嫉妬を起したり。 其妻が待合に行きたること、家扶と私したることありと云ふこと等なる由。慶久は一 度は離婚を言渡したるも妻之に応ぜす。或時は妻を厳責したるも服せざる為、終に刀 を以て其髪を切りたるも、僅に切りたるのみなりし由〔昨年五月頃〕。其後妻は葉山 の有栖川別低に行き居る由なり。慶久は近々洋行する由なるが、其女 ( 娘 ) を伴ひ、 其侍者の名義にて妾を随行せしむる由にて、妻は異見なきも、女が悪感化を受くるこ とを気遣ひ居るとのことなり」〉 このあと、牧野は慶久に忠告するには渋沢栄一あたりが最も適当な人物だろう、と述べ ている。渋沢栄一は、慶久の父親の徳川慶喜を生涯主君と仰いだ男てある。 178
記者「新聞任命は既に出来居れり」 予「然らば既に免職せられたるならん」と云ひ、笑ふて去る〉 ここて新聞記者が質問している大臣説云々とは、い うまてもなく宮内大臣のことてあ る。宮中某重大事件の責任をとって、宮内大臣の中村雄次郎が辞任することは確実視され ていた。中村に代わる新宮内大臣に牧野伸顕が就任するのは、この二日後てある。 枢密院議長就任の日 新聞記者を煙にまいてひとり悦にいるお茶目さを持ち合わせながら、就職の世話をして ほしいと頼ってくる同郷人に対しては論たくあしらった。 たとえば大正十年八月七日の倉富日記の欄外に、こんな記述がある。 〈午前八時頃、昨日来訪したる筑後青年同生会幹事鐘ケ江良由、電話にて「今日往訪 せんと欲す、差支なきや」を問ふ。 予、安をして、今日は日曜なるも官用あり、家に在らざる旨を告げしめ、又自ら電 話に掛り、「青年同生会のことならば、予は先年来の経験にて賛成し難きに付、来訪 の必要なかるべし」と云ふ。 鐘ケ江「自分も同生会に関係し居れども、実は不賛成なり。昨日往訪したるは、一 263 第五章日記中毒者の生活と意見
し居る故、奉職する考もなかるべし、当分其意に任かせ置く方宜しからんと云ふこと にて、其儘になり居れり。実は東宮侍従位に適当ならんと思ひ居りたるも、只今の話 にては、直接に右様の事になす訳には行かず。一二年位、足を洗ひたる後のことにな さざるべからざるべし。自分は宜しからんと思ふが、大臣次官は如何云ふべきや、夫 れは分からず。自分より本人に話し見るべきや」〉 自分はい、 しと思うが、社会事業などから足を洗わなければ、すんなり宮内省に入れるわ + ′こ一↓よ一丁 かないだろう 痛いところをつかれた倉富は必死に食い下がる。 「本人が何を言うか、私にもわからない。頼寧は新聞などにもいろいろ書くのて、大臣が どういう反応をするかもわからない。、 ご迷惑だが、 君から大臣などの意向を内偵してくれ ることはてきないだろ , フか」 牧野とは一年中話しているにもかかわらず、身内のことになると倉富も気軽に頼むわけ には行かなかったのだろう。隆を内苑掛に押し込んだときとはそもそもレベルが違う。西 園寺は倉富の苦衷を察して救いの手を差し伸べた。 〈西園寺「自分より直接に次官に向ひ、有馬を採用することを申出し見ても差支な し。本人の意見は分らざるも、華族の中にて相当の人を用ゆる必要あり。若し不可な らば、俸給生活を為す人に非ざる故、何時之を罷めても差支なしと云ふても宜し」 320
かわらす、栗田らが強行しようとしているのだという。 求タン 〈木村「自分が伊勢より帰りたる処、皇太子殿下にカフス釦を献上することになり居 ると云ふに付、殿方よりの献上なりやを問ふたる処、女王殿下よりの献上と云ふに 付、『夫れは不可なり、是非献上なさるるならば、王殿下よりの献上ならば尚ほ可な るべきも、女王殿下よりの献上にては断じて宜しからず』とて、其理由を説明し、属 おとな 官等は之を了解したる模様なりしなり。夫れより栗田直八郎を訪ひ、此事を談じたる 処、意外にも栗田は『女王殿下よりの献上にて宜し』と云ふに付、大に協議し、『自 分は如何なることありても同意し難し、宮務監督が職権にて取計ひを為すならば致し 方なし』と云ふて別れたり 朝日新聞に女王殿下が三月一日に葉山に伺候せられ、同 処にて皇太子殿下に奉別し、貴重品を贈らるる旨を記載し居りたるも、栗田より漏ら したるものならんと田 5 はる」〉 これに対し、倉富は「予も其事は同感」と答えている。幕末生まれの倉富にとって、婚 約者の女性から将来天皇になる男性にカフスポタンを贈るなど、驚天動地の出来事だった のだろう。 〃カフスポタンみ献上間題は、この頃、宮内省職員に格好の井戸端会議の話題を提供して おり、二月二十八日の日記にもこんな記述がぞてくる。
〈坂下門に到る。門衛、門蓋の瓦墜つるを以て其恐なき右方を通過すべき旨を告ぐ。 之に従ひ門を出て、広場に到る。地屡震ひ歩すべからず。暖歩を停め、震の止む を待ち、復た歩す。桜田門は瓦の墜つる恐あるを以て凱旋道を経て濠岸に沿ひ、参謀 本部前を過ぎ、独逸大使 ( 館 ) 前より赤坂見附を経て家に帰る。宮城前の広場に出て たるとき、既に警視庁附近及日比谷公園内に火あるを見、参謀本部前を過ぎるとき赤 坂に火あるを見たり。沿道処々に家屋の倒壊したるものあり。難を避くる人は皆屋外 めぐ に出て居り 既に家に達す。」 ド仰より家の両辺を周らしたる錬瓦塀は全部倒壊 し、屋内の器具散乱し居り、人影を見ず。内玄関より入り茶の間及書斎を経て庭上に 出てたるも、家人在らず〉 倉富日記とほば同時代に書かれた長大な日記に、永井荷風の『断腸亭日乗』 ( 大正六年九 ついたちこっそうや 月ー昭和三十四年四月 ) がある。『断腸亭日乗』のこの日の記述は、「九月朔。爽雨歇みし ひる たちまち が風猶烈し。空折 : 掻曇りて細雨烟の来るが如し。日将に午ならむとする時天地忽鳴動 す」という有名な書き出しから始まっている。荷風は灰燼に帰した帝都の荒廃を高見から 眺めて内心ひそかに快哉を叫びながら、世態人情を縦横に論じ、時に辛辣な文明批評を差 ちんめん しはさみながら、やっしにやっして花鳥風月の世界に沈湎している。 0 0 331 第七章ロンドン海軍条約
それに対して国分は「本着帯のとき祝いの品を贈る内儀はあります」と説明している。 また、同年四月一日の日記には、こんな記述がある。 午後一一時頃、倉富が宮内省の総務課から審査局に戻る途中、南部光臣の部屋に立ち寄っ た。そこて倉富が、昨日、南部と関屋貞三郎が話していた朝鮮の王公家軌範の話題を持ち 出し、何かその件て間題が起きているのかと尋ねた。関屋は石原健三に代わって宮内次官 に就任したばかりてある 〈南部「別に問題と云ふ程には非ざるも、現に世子妃の分娩も近き居り、其出生児は まこと 殿下と称することを得ざる不都合あり。朝鮮総督斎藤実も朝鮮の統治に関係すとて解 いままで 決を迫まり居る趣なり。自分は今造は宮内大臣の責任とのみ思ひ居りたるも、内閣総 理大臣も其責任を有する訳なり」 予「予は此事は朝鮮統治に関係する程のものに非すと思ふ。皇室にても、皇太子の ある時には皇太孫と云はす、単に皇孫たる資格を有せらるるに過ぎす。然れば王世子 の子が殿下の敬称なきも妨なかるべし。朝鮮の公は殿下の敬称あるも、公の子には其 敬称なし。優遇は併合の時の詔書に示されたる丈にて十分ならんと思ふ」 南部「朝鮮にては皇太子の在るときに王世孫と為したることありとて、先頃高義敬 、、。朝鮮に行きたるとき之を取調べて持ち来りたるものあり」〉 0 ちかづ 136
后陛下に六回拝謁したという 〈国分「良子女王は ( 以前 ) 王殿下 ( 久邇宮 ) 又は妃殿下と共に皇后陛下に謁せられた ることもあり、一人にて謁せられたることもありたるが、一人にて謁せられたるとき すみのみや は最も陛下の御機嫌宜しく、澄宮殿下が傍にあらせられたるに対し、『是は〔アナ タ〕の姉さんなり』と云はれ、腕輪を取り出し、『是は昭憲皇太后より賜はりたるも のなるが、之を贈る』と云ひて、賜はりたる程なりし由」 予「其時は勿論、問題の起らざりしときなる故、事情が異なるべし」 わだか 国分「今日にても、尚ほ多少蟠まりがあるには非ざるべきや。是は懸念のことな 澄宮はのちの三笠宮てある。倉富が「間題の起らざりしとき」というからには大正九年 夏前と思われるのて、母親に「この人があなたのお姉さんになるのよ」と言われたこのと き、證宮はまだ満五歳にもなっていない 宮内省の横暴不逞 宮中某重大事件て私が最も興味をひかれるのは、久邇宮家とその支援勢力が婚約を押し 進めるためにとっこ、 露骨な策動てある。 59 第一章宮中某重大事件
書類に捺印しようとした。倉富が物忘れについて記しているのは、 額について話し合い その直後てある。 おも かくし 〈此時予の認印を発見せず。小礼服のチョッキの隠嚢に入れ置きたるやを念ひ、之を 捜がす。なし。乃ち花押を為し、後、風呂敷包の中を捜がす。其中にありたり〉 緊迫した場面の中に、こうしたたわいもない記述がさしはさまれると、脱力感に襲われ たか、それて読む気がなくなるというわけてはない。むしろ倉富の存在が急に身近な ものに見えてくる 〈今朝出勤前、万年筆を刺したる〔サック〕を捜がす。得ず。 ( 中略 ) 昨日は〔サッ ク〕を自家に遺し居るものと思ひ居りたり。今朝自家にて之を捜がしたるも見出さざ る故、宮内省に在るものと思ひ机の抽斗を捜がしたるも見出さず。終に或は小礼服の 、、礼服を検したるも之を見出さず。不 隠嚢に入れ居るならんと思ひ、宗秩寮に行き月 〕の表の隠嚢を探りたる処、其中に入り居りたり。是は昨日よ 図〔モーニングコート り入り居りたるも気附かざりしなり〉 ( 大正十一年二月二十五日 ) て、この騒ぎてある。これはもう、呆れるよ 万年筆を収める革のサックを失くしただけ、 それから約一カ月後の忘れ物は、叙位式に不可欠な勲章だった。 り ~ 則に笑うしかない。 〈今朝は叙位式を行ふべき日なる故、家を出づるとき礼服著用のとき穿つべき靴を穿 269 第五章日記中毒者の生活と意見
何となれば君の氏が倉富と云ふを以てなり」 予、為めに倉富と称する所以を説日 月し、「予の富は此の如く憐むべきの富なり」と 云ふ。世子も之を聞きて笑ひ居れり。 韓又「先日貴家を訪ひたるに、質素なる家にて奧ゆかしく思ひたり」 たいかこうろう 予「大廈高楼を望めども能はざるなり」〉 着帯式の是非 この頃の倉富の公務上の関心はもつばら、方子妃の着帯式の服装問題と、将来生まれる 世子の子の敬称をどうするかにあった。 こんなことを聞いている ( 大正十年六月八日 ) 。 倉富は李王職次官の国分象太郎に 「着帯式の習農は朝鮮にはないのだから、内地の式を李王家に適用するのは穏当てない。 朝鮮人の一部には、内地人を妃にしたおかげて、世子が朝鮮人らしくなくなってしまった という声があがっている。着帯式のような些事のために彼らの感情を害するのは無益なの ぞ、着帯式のとき、李王 ( 純宗 ) より世子や妃にお祝いの品を贈られるかどうかは李王家 の意向に任せたほうがよいと、 たたいま高と話していたところだ。君の考えを聞きた 135 第三章朝鮮王族の事件簿