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検索対象: 枢密院議長の日記
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1. 枢密院議長の日記

〈倉富勇三郎年譜〉 年 倉富勇三郎関係 ( 年齢は数え年 ) 一八五三年 ( 嘉永 6 ) 7 月日、久留米藩に生まれる ( 1 歳 ) 一八六〇年 ( 万延元 ) はじめて父に書字を学ぶ ( 8 歳 ) 一八六八年 ( 慶応 4 ) 弘道館に入り漢書を学ぶ信歳 ) 一八七〇年 ( 明治 3 ) 藩校明善堂に入り漢書を学ぶ歳 ) 一八七二年 ( 明治 5 ) 草場船山のもとて漢書を学ぶ元歳 ) 一八七三年 ( 明治 6 ) 長崎にて英書を学ぶ ( 幻歳 ) 一八七四年 ( 明治 7 ) 上京歳 ) 一八七五年 ( 明治 8 ) 東京英語学校にて漢書を教える ( 歳 ) 一八七七年 ( 明治川 ) 司法省出仕生徒 ( % 歳 ) 一八七九年 ( 明治リ司法省十六等出仕歳 ) 一八八一年 ( 明治判事 ( 四歳 ) 一八八二年 ( 明治新 ) 内子と結婚 ( 歳 ) 一八八五年 ( 明治じ長男・鈞誕生 ( 芻歳 ) 一八八六年 ( 明治じ次男・孚誕生、早世歳 ) 一八九〇年 ( 明治 ) 三男・隆誕生龕歳 ) 一八九一年 ( 明治幻 ) 大津事件を担当 ( 歳 ) 一八九八年 ( 明治引 ) 法典調査会委員、司法省民刑局長 ( 恥歳 ) 一九〇一一年 ( 明治肪 ) 大審院検事・次席検事 ( 歳 ) 国内外の動き 一八五三ペリー来航 六七大政奉還 六八戊辰戦争 七一廃藩置県 七三地租改正 七四台湾出兵 七七西南の役 八一明治凵年の政変 八八枢密院設置 八九大日本帝国憲法発布 九〇第一回帝国議会 九四日清戦争始まる 424

2. 枢密院議長の日記

大正十年の日記に、一時上京して赤坂の倉富の家に寄宿し、宮内省に勤めてお花の係に なった隆の記述が出てくる。ご、 オカ英郎氏が言ったように体が弱かったため、宮内省には 二カ月ほど勤めただけ て、また郷里に戻っている。 ここて倉富の結婚について、簡単に述べておこう。 倉富が元久留米藩士て、明治初期に日朝交渉を担当した外交官・広津弘信の長女の広津 のぶ めと 能婦 ( 後に宣、宣子 ) を娶ったのは、司法省時代の明治十五 ( 一八八一 l) 年、三十歳のときだ った。能婦の兄が、明治の文学者の広津柳浪 ( 本名・直人 ) ぞあり、その息子が序章て少し ふれた、やはり作家の広津和郎てある。 日記の中て倉富は、夫人の名を一貫して「内子」と表記している。家系図やその他の資 料ては「宣子」が一般的だが、「内」には通常の読みとは別に「のぶ」の読みがある。漢 けいたいふ 語の「内子 ( ないし ) 」には、中国周代の王の直属家臣に命名された「卿大夫」の正妻の意 味があることから、倉富は自らを卿大夫になぞらえて夫人を「内子」と書いたのだろう。 倉富日記を主題とする本書ては内子を名前として用いたことをお断りしておく おとな 倉富日記には、「広津直人、正に来り居り」「隆、広津和郎を大森に訪ふ」「広津直人の 妻より電話す」といった広津親子に関する記述が頻繁に出てくる。 倉富が結婚した明治十五年は、明治天皇の名の下に軍人勅諭が布令され、ドイツ、オー 0 31 第一章宮中某重大事件

3. 枢密院議長の日記

一九〇三年 ( 明治 ) 大阪控訴院検事長訂歳 ) 一九〇四年 ( 明治芝東京控訴院検事長 ( 歳 ) 一九〇七年 ( 明治韓国法部次官、統監府参与官 ( 浦歳 ) 一九〇九年 ( 明治肥 ) 韓国統監府司法庁長官を兼ねる ( 歳 ) 一九一〇年 ( 明治昭 ) 朝鮮総督府司法部長官龕歳 ) 一九一三年 ( 大正 2 ) 法制局長官 ( 礙歳 ) 一九一四年 ( 大正 3 ) 貴族院勅選議員歳 ) 一九一六年 ( 大正 5 ) 帝室会計審査局長官 ( 歳 ) 一九二〇年 ( 大正 9 ) 宗秩寮御用掛、李王世子顧問 枢密顧間官兼任、宗秩寮総裁代理 ( 歳 ) 一九二一年 ( 大正川 ) 宗秩寮総裁事務取扱歳 ) 一九二二年 ( 大正Ⅱ ) 宮内省御用掛 ( 間歳 ) 一九二三年 ( 大正リ枢密顧問官兼帝室会計審査局長官行歳 ) 一九二五年 ( 大正枢密院副議長歳 ) 一九二六年 ( 大正 ) 枢密院議長に就任、男爵を授けられる行歳 ) 一九二八年 ( 昭和 3 ) 王公族審議会総裁元歳 ) 一九三四年 ( 昭和 9 ) 枢密院議長を辞任、郷里へ帰る ( 歳 ) 一九三六年 ( 昭和リ家督を長男・鈞に譲る ( 制歳 ) 一九四五年 ( 昭和 ) 内子死去歳 ) 一九四八年 ( 昭和 ) 1 月 % 日、死去 ( 享年 ) 一九〇四日露戦争始まる 一〇韓国併合 一一一明治天皇崩御 一四第一次世界大戦始まる リ講和会議 一一一皇太子裕仁、摂政となる 二三関東大震災・虎ノ門事件 二六大正天皇崩御 三〇ロンドン海軍軍縮会議 三一満州事変 三二五・一五事件 二・一一六事件 四一太平洋戦争始まる 四五終戦 425 倉富勇三郎年譜

4. 枢密院議長の日記

水天宮生まれの″赤い貴族″ 公務の宮内省関係者と親族を除き倉富日記に最も頻出する登場人物は、有馬家当主の有 よりやす 馬頼寧てある。前にも少しふれたが、倉富は明治三十年代から、旧藩主有馬家相談会の最 高顧間を委嘱されていた 有馬家の家政を左右する相談会の重鎮として関わったことが、倉富の平凡な私生活にか なり刺激的なアクセントをもたらすことになった。 よりつむ 有馬頼寧は明治十七年、旧久留米藩主の有馬頼萬 ( 伯爵 ) の長男として、東京・日本橋 かきがらちょう の蠣殻町に生まれた。現在の水天宮のある場所てある。ちなみに、水天宮の元地権者は有 馬家てある。 ただより 久留米藩一一代目藩主の有馬忠頼が、故郷に寄進した広大な社殿が水天宮のそもそものル よりのり ーツてある。それが参勤交代により参詣てきなくなったため、九代目藩主の有馬頼徳が文 やしろ 政元 ( 一八一八 ) 年に有馬家の江戸屋敷内に社を移し、その後有馬家屋敷の移転に伴って、 明治五 ( 一八七一 l) 年に蠣殻町に移ってきたのが、東京水天宮の始まりてある。この歴史 的経緯からもわかるように、水天宮は初めから有馬家の屋敷神的性格を帯びていた 有馬家を家督相続して昭和二 ( 一九二七 ) 年に伯爵となった頼寧は、明治以降の華族の 292

5. 枢密院議長の日記

うおづ ある。富山県魚津て起こった米騒動はたちまち全国に波及し、各地て米騒動が頻発した。 このとき寺内内閣の後継として元老西園寺が推薦したのが原敬てある。山県は米騒動に代 表される社会不安を処理てきる政治家として原敬を認めざるを得なかった。原敬もまた、 社会不安に対する危機感は山県と同じてあった。 米騒動ばかりてなく、第一次世界大戦以降勃興し始めた労働運動や社会主義運動や思想 間題は、山県にとってだけてなく原敬にとっても大きな問題てあった。彼らは政治体制の 揺らぎをそこに見たのてある。しかも最大の危機は体制の項点においても迫っていた。大 正天皇の病気てある。 明治国家は英明な天皇と天皇に対する忠誠と献身を持つ人々の存在を前提にしていた。 えいまし そして明治天皇はまさに英邁な君主てあった。維新の志士て軍人てあった三浦梧楼は、自 叙伝『観樹将軍回顧録』て、明治一一十一一年、学習院院長時代に明治天皇に拝謁したときの 様子を次のように書いている。 もと 陛下は固より学習院の事と思召されて在らせらる。我輩は謹んて「甚だ相済みませ ぬ儀て御座りまするが、今日拝謁を御願ひ申上げまするは、学習院の事ては御座りま せぬ」と言上すると、「さうすると何か国事のことかナ」と仰せられた。「左様て御座 413 解説「倉富勇三郎日記」によせて

6. 枢密院議長の日記

明治十年、倉富は前年に開設されたばかりの司法省法学校速成科 ( 期間二年 ) に入学し、 フランス人法学者のボアソナードらから刑法、民法、行政法などを学んだ。倉富が入学し た司法省法学校は、その後、東京大学法学部に吸収された。 後の日記に見られる倉富の驚異的な記憶力と場面再現能力は、この時代に培われたよう な気がする。この時代の裁判に公判記録をとる速記制度が導入されていたかどうかは不明 オカたとえそれが導入されていたとしても、公判の様子を頭に叩き込むための基礎訓練 は司法官の絶対条件だったはずてある。 オここから倉富の半世紀以上に 明治十一一年十一月、倉富は司法省の十六等出仕となっこ。 及ぶ長い官僚生活が始まった。 村夫子然とした風貌 いま私の手元に、孫の英郎氏が提供してくれた、爵位服に威儀を正した倉富の記念写真 がある ( ロ絵参照 ) 。 これは、昭和三年十一月十日、京都御所て行われた昭和天皇の即位の大礼時に、やはり 正装した内子夫人と並んて記念撮影されたものてある。 内子夫人は前述したように、明治初期に日朝交渉を担当した外交官の広津弘信の長女 100

7. 枢密院議長の日記

範増補によって初めて行われた日本皇族と朝鮮王族の結婚だった。 奇しき因縁というべきか、梨本宮方子は女子学習院時代、その後、宮中某重大事件て世 間を賑わすことになる久邇宮良子の一級上だった。皇太子裕仁 ( 後の昭和天皇 ) のお妃候補 が取沙汰され始めたときには、良子と並んて最有力候補とされた。 翌大正十年八月十八日、垠と方子の間には長男晋が生まれ、新聞は「日鮮融和のシンボ ル」と書きたてた。 倉富は垠と方子が結婚した大正九年四月から、帝室会計審査局長官の役職のまま宗秩寮 御用掛を兼務して李王世子顧間とな り、日本と朝鮮の架け橋といわれたこ のカップルの後見人的役割を担ってい 倉富と朝鮮の関係は古く、明治四 十年九月、韓国法部次官に任じられた 妻 ことに始まる。明治四十二年十一月に は韓国統監府司法庁長官兼統監府督参 の動 代 時子与官となり、日韓併合後の明治四十三 婚 新悸年十月から大正一一年まては、朝鮮総督 117 第三章朝鮮王族の事件簿

8. 枢密院議長の日記

この父にしてこの子あり この時は、母親が何とかとりなしてくれたため事なきを等ご。ご、、。、 彳オオカ父の厳格な教育は これだけてはおさまらなかった。 胤厚はその頃、生家から一里あまり行ったところにある弘道館という塾の塾頭になって いた。恒二郎、勇三郎兄弟もその塾に通った。 明治三年、胤厚は前述したように、久留米藩に招聘されて藩校明善堂の教官となり、恒 一一郎、勇三郎兄弟も明善堂の寮生となった。 ところが、明治維新て藩校が廃止となったため、兄弟は家て勉学を積むことになった。 倉富が次に父の怒りにふれたのは、明治五年、数えて二十歳のときだった。 ある日のこと、倉富の親族が上海に遊学するため瑕乞いに倉富家を訪れた。父は兄弟に 送別の詩を作ることを命じた。ところが、兄の恒一一郎は感冒のため頭痛を起こし、詩を作 る前に中座した。 〈私は七言絶句を作る積りにて三句を作りたる時、兄が退席したる故、私も作るに及 ばすと思ひ、其儘に致し置きたるが、客の去りたる後、父は私に向ひ、如何なる詩が 出来たるやと云ふ故、実は未だ完成し居らすと云ひ、三句を告げたる処、父は非常な しようへい 95 第二章懊悩また懊悩

9. 枢密院議長の日記

とき固く之を辞したれども、真の一時のことなる故、引受けよとのことにて之を受け たり。今日まて続きたることも、実は予想より永き訳なり。尤も、宗秩寮御用掛は王 世子に関する用を取扱ふ為め命ぜられたるものなるが、 偶総裁代理の必要ありたる 故、御用掛の名義を利用し居る訳なり」〉 情報空白地帯に置かれた倉富 牧野は明治の元勲大久保利通の次男てある。それに比べ、最後は男爵にして枢密院議長 という、宮中序列第四位の高位まて登りつめたとはいえ、倉富には誇るべき家系も係累も 十ノー、 。ちなみに倉富が宗秩寮総裁代理となったのは、井上勝之助が病気療養中だったため てある。 突き放した言い方をすれば、倉富は宮中事務屋のトップにいるにすぎない。 明治の元勲 はんべい の威光がまだ色濃く残る大正という時代にあって、皇室の藩屏たる自覚を強烈にもった山 県有朋、西園寺公望、松方正義などの元老政治家たちゃ、その流れを汲む牧野との格の違 いは、明らかたった。 それは格の違いというだけにとどまらず、入ってくる皇室情報の圧倒的な質の差となっ て現われた。 たまたま もっと

10. 枢密院議長の日記

侵入事件は明治国家が作り出した国母としての皇后のイメージと緊密に結びついている。 大正中期の宮廷に起きたこれらの事件は決して孤立した事件てはなかったのてある。この 意味て本書は、大正世相史あるいは大正文化史の新たな地平を拓くものてある。 ( ひろせ・よしひろ駿河台大学教授 ) 422