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検索対象: 枢密院議長の日記
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1. 枢密院議長の日記

浅田恵一 甘粕正彦・ 荒井賢太郎・ 有馬静子・ 有馬忠頼・ 有馬秀雄・ 人名索引 あ アインシュタイン 青山操・ 明仁 ( 今上天皇 ) ・ 46 , 49 , ) 3 , 60 , 121 , 122 , 12 乙 136 , 202 ・・ 21 ) , 216 ・・ 330 ・・ 3 ) 3 , 376 ・・ 126 , 2 ) 3 ・・ 334 ・・ 332 ~ 334 , 3 乃 , 380 , 392 ・・ 310 , 318 , 32 ) , 326 ・・ 292 ・・ 297 , 299 , 302 , 304 , 井上勝之助・ 196 , 202 , 333 井上良馨・ 入江為守・ 233 , 234 , 338 卩 94 上野季三郎・ 尹徳栄・ 巌谷小波・ 岩崎初太郎・ 岩倉具視・ 岡喜七郎・ 大谷正男・ 大山巌・ 大森鍾一 大村益次郎・・ 大竹貫一 大杉栄・・ 大隈重信・ 大久保利通・ 大木彝雄・ 大木遠吉・ 潤愛彦・ 内田良平・ 内田康哉・ 臼井水城・ 上原勇作・ 上野彦馬・ ・・ 44 , 48 , ) 0 , 180 , 187 , ・・ 213 , 348 , 349 " 218 , 223 ~ 229 , ・・ 26 , 27 ・・ 121 ・・ 181 ・・ 306 ・・ 197 , 303 , 323 307 ~ 309 , 363 , 364 有馬頼義・ 有馬頼萬・ 有馬頼秋・ 有馬頼徳・ 有馬頼寧・ 298 ~ 304 , 306 ~ 310 , 313 ~ 326 安藤信昭・ 五百木良三 石橋正二郎・ 石原健三 石渡敏一 一木喜徳郎・ 市来政方・ 市村慶三 伊藤伝右衛門・ 伊藤博邦・ 伊藤博文・ 163 , 180 , 213 , 243 , 267 , 3 ) 3 ・・ 292 , 296 ~ 302 , 304 , 307 ・・ 102 , 119 , 123 , 162 , ・・ 213 ・・ 217 , 219 , 224 ~ 227 ・・ 176 ・・ 173 ・・ 213 , 343 , 386 ~ 388 ・・ 239 ・・ 36 ~ 38 , 41 , 42 , 44 , ・・ 364 ・・ 43 ・・ 276 , 296 ・・ 19 , 276 , 292 ~ 296 , ・・ 292 ・・ 312 ~ 314 ・・ 90 ・・ 213 ・・ 2 ) 8 , 2 ) 9 ・・ 332 ・・ 33 , 44 , 219 , 228 ~ 233 , 268 ・・ 28 ) , 3 ) 6 ~ 3 ) 8 ・・ 332 ・・ 176 ・・ ) 0 , 26 乙 323 ・・ 16 , 19 , 240 , 242 ~ 244 ・・ 213 , 334 ・・ 43 ・・ 89 ・・ 23 7 ・・ 3 77 ・・ 69 ~ 〃 , 19 ) , 196 , 241 ・・ 19 , 61 , 63 ~ 6 ) , 68 ~ 70 , 乃 , 80 ~ 82 , 227 ~ 229 , 231 岡田啓介・ ・・ 19 , 370 , 376 , 388 , 389 , 392 , 393 , 39 ) , 396 岡野敬次郎・ 奥保鞏・ 尾崎紅葉・ 押川方義・ 尾野実信・ 小原驗 ・・ 332 ・・ 181 ・・ 43 ・・ 24 ) , 246 ・づ 3 , ) 7 , 17 ) , 176 , 伊東巳代治 374 , 37 ) , 378 ~ 384 ・・ 28 , 29 , 338 , 3 ) 2 , 188 , 190 , 191 , 193 ~ 19 う , 202 , 208 , 276 大養毅・ 井上馨・ ~ 279 , 3 ) 4 , 3 ) ) , 3 ) 7 , 3 ) 8 おりよう ・・ 3 ) ) ~ 3 ) 乙 360 ・・ 44 , 180 , 181 , 213 , 36 ) ・・ 21 7 (i) 430

2. 枢密院議長の日記

水天宮生まれの″赤い貴族″ 公務の宮内省関係者と親族を除き倉富日記に最も頻出する登場人物は、有馬家当主の有 よりやす 馬頼寧てある。前にも少しふれたが、倉富は明治三十年代から、旧藩主有馬家相談会の最 高顧間を委嘱されていた 有馬家の家政を左右する相談会の重鎮として関わったことが、倉富の平凡な私生活にか なり刺激的なアクセントをもたらすことになった。 よりつむ 有馬頼寧は明治十七年、旧久留米藩主の有馬頼萬 ( 伯爵 ) の長男として、東京・日本橋 かきがらちょう の蠣殻町に生まれた。現在の水天宮のある場所てある。ちなみに、水天宮の元地権者は有 馬家てある。 ただより 久留米藩一一代目藩主の有馬忠頼が、故郷に寄進した広大な社殿が水天宮のそもそものル よりのり ーツてある。それが参勤交代により参詣てきなくなったため、九代目藩主の有馬頼徳が文 やしろ 政元 ( 一八一八 ) 年に有馬家の江戸屋敷内に社を移し、その後有馬家屋敷の移転に伴って、 明治五 ( 一八七一 l) 年に蠣殻町に移ってきたのが、東京水天宮の始まりてある。この歴史 的経緯からもわかるように、水天宮は初めから有馬家の屋敷神的性格を帯びていた 有馬家を家督相続して昭和二 ( 一九二七 ) 年に伯爵となった頼寧は、明治以降の華族の 292

3. 枢密院議長の日記

念入りな返事てある。倉富は「有馬の意向を聞いて報告しよう」と言い、十月一一十五日に は栗田と会って、有馬頼寧にその件を話しておいた旨を告げている。 臣の心主知らず この話は、翌年一月八日の日記にも出てくる。ここても倉富の話し相手となっているの は、栗田直八郎てある。 〈予「先頃話を聞きたる有馬頼寧の一一女を邦久王の配侶と為すことに付ては、其後未 だ頼寧の返答を聞かざるが、 ( 有馬家家令の ) 仁田原重行よりも、未だ何とも云はざる や」〉 栗田はこれに答えて、この縁談が起きたそもそものきっかけを倉富に初めて明かす。 ま壬生家に勤めている。有馬家からその女中に娘 先年、有馬家に勤めていた女中が、い の縁談の話があり、壬生伯爵がその話を久邇宮殿下につないだ。有馬家ては邦久王本人の 意向がわからなければ返答するのは難しいと言っている。 この話の後、栗田は続けている。この間には倉富日記にはきわめて珍しく、矛盾した記 述があるのだが、本筋てはないのて省略する。 〈栗田「 ( 有馬家の話ては ) 『有騎家には姉妺あり。いづれにても宜しきも、姉の方を先 み 316

4. 枢密院議長の日記

きにする方が都合宜し。兎に角、邦久王の意向を知ることが第一なり。娘の写真も差 上げて宜し』とて、姉妹の写真も送られ、邦久王の写真も有馬家に送りあり。久邇宮 殿下より既に邦久王にも話されたることと思ふ。姉の方は十七歳にて〔大正十一年は 十八歳ならん〕、邦久王と四歳違ひにて、俗説は之を嫌ふ由。然し有馬家にて頓著な ければ、宮家にては姉にても宜しとのことなり」 予「然らば、有馬家にては最早予等に話す必要なしと思ひ居るならん」 栗田「然るべし」〉 このやりとりからわかるのは、倉富がこの縁談について栗田からの依頼を伝えたのに 頼寧から何の連絡も受けていなかったらしいことてある。 倉富が栗田に言った「然らば、有馬家にては最早予等に話す必要なしと思ひ居るなら ん」という言葉に、倉富の憮然とした感情が読みとれる。 頼寧と倉富の関係は微妙だった。爵位を返上すると公言し、部落解放運動に血道をあげ る頼寧のふるまいは、倉富の目から見れば烏滸の沙汰だったに違いない。 倉富にとって頼寧は、有馬家を潰すかも知れない困った若殿様てあり、頼寧にとって倉 富は、煙たいお目付け役の老臣てしかなかった。 全五巻の『有馬頼寧日記』を読むと、頼寧は有馬家相談会について、「少しも温かみが 317 第六章有馬伯爵家の困った人びと

5. 枢密院議長の日記

正という時代には主家思いの気風がまだ色濃く残っていたからだろう。 大正十年二月二十四日の日記を見ると、有馬家相談会どんなことが話し合われていた かがよくわかる。この日、倉富は午後四時過ぎに帰宅した。有馬家家令の橋爪慎吾が相談 会の打ち合わせにやってきたのは七時半て、橋爪が帰ったのは九時。この一時間半の話の 内容をまとめた部分だけて、日記は四百字詰め原稿用紙にして十二枚にも及んている。以 下、箇条書きにしてみよう。 〇水天宮の大正十年度予算の件。有馬家職員が水天宮の手伝いをした場合の手当減額。そ の代わり、一昨年減額した水天宮から有馬家への地代を元に戻してはどうか。水天宮が 年に一度、新聞記者を饗応することになっているが、それを継続するかどうか 〇松村雄之進が死亡したが、有馬家からの香典をどうするか。松村は有馬家にとって利害 半ばする面がある。倉富が言うには、松村が大楽源太郎を殺したことなど、有馬家の利 益になっていない。 〇有馬家の家令を名誉職としてはどうか。そうすれば相当な人物を得ることがてきる。 や、名誉職にするのはかえってまずい。その理由。 〇青山にある頼寧の住まい増築の件。むしろ麭町あたりに土地を買って新築したらどう か。頼寧夫人が麭町は方位が悪いと言っている。増築が木造の場合と鉄筋の場合の見積 だいらく 295 第六章有馬伯爵家の困った人びと

6. 枢密院議長の日記

省やプライベ ートな有馬家相談会に出かけて行くときは、宮内省の自動車を使っていない 一」し J か、わかる 話を大正十年八月一一十五日に有馬頼寧の荻窪の自宅て開かれた相談会に戻す。電車に乗 ったことが記されているのは冒頭部分てある。 〈午前七時頃より家を出て、将に荻窪に有馬頼寧を訪はんとす。豊川稲荷前の停留場 に到る。青山行の電車来らす。乃ち四谷の停留場に到り、同処より鉄道省の電車に乗 らんとす。待っこと三十余分、七時四十六分に到り、吉祥寺行の電車始めて来る。乃 ち之に乗り、八時頃荻窪駅に達し、歩して有馬の別邸に到る。誤て二町許を行き過 ぎ、人に間ふて之を知り、返りて邸に到り頼寧と話す。 予、家令橋爪慎吾を罷むること、仁田原重行に家事監督を嘱託すること、岩崎初太 郎に家扶を嘱託すること、頼寧の有馬家の事を視ることは従前の通りにすることを謀 る〉 それから十日後の九月五日に水天宮て開かれた有馬家相談会て、倉富は罷免された家令 の橋爪慎吾を有馬家の相談人として残すことに賛成している。 〈予「橋爪慎吾を有馬家相談人と為すは別に格別の利益ありとは思はざるも、第一、 頼寧君をして悪感を懐かしめざる為に幾分の利益あること、第二は橋爪は警察方面に 306

7. 枢密院議長の日記

たるまて、意思が通じ合うことが必要だ。先夜も関屋貞三郎に会ったとき、今は皇后陛下 自ら貧民学校に臨まれるべき時代て、もはや皇后宮大夫を遣わされる時てはないと話して おしオ」 思わず笑わせられたのは、それから三日後の日記てある。この日の夜、倉富の家を訪ね てきた有馬秀雄は、倉富にこんな話を打ち明けている。ちなみに有馬秀雄は、頼寧より十 五歳年上、倉富より十六歳年下てある。 ぎみ 学生たちも涙を流して 「先日、頼寧君が慶応義塾て行った演説は非常に評判がよかった。 聞いていたという報告を受けている。演説の趣旨は、自分は華族に生まれたことをたいへ ん残念に思っている、今日この頃、貴族や富豪が自動車に乗って通行人たちに泥をはね返 して黙って通り過ぎる傍若無人な輩が少なくないが、これは言語道断の看過てきないふる オ説を終える まいて、自動車などに乗るのはやめるべきだ、といったものだった。ごが、 頼寧君はそんな演説をしたことを忘れてしまったかのように自動車に乗って帰ってい った。それを見た聴衆は、やはり華族は華族てしかない、と失笑していた」 有馬秀雄はこの時点て有馬家相談人の一人てある。有馬家当主の頼萬が嫌う橋爪慎吾は まだ家令の身分のままだった。 ごという批判もある」という記述もあり、有馬家の家 倉富日記には、「有馬秀雄は専横オ ぎみ 304

8. 枢密院議長の日記

会て決められていることてある。 この相談会の合議を経なければ、当主といえども家政を自由にすることはてきなかっ た。有馬家が自動車を買うときも、子どもの進路を決めるときも、相談会の決裁が必要だ 有馬家を企業組織にたとえれば、旧藩家臣団て構成された有馬家相談会は会社の財務や 経理を細かくチェックする監査役会によく似ている。旧藩時代これといった身分てはなか った家柄から、相談会の長老格として倉富が迎えられたのは、ひとえに、倉富が栄誉栄達 を成し遂げた政府高官ゆえだったろう。 相談会は、隅田川のほとりの橋場にあった有馬家本邸を会場にする場合が多かった。 有馬頼寧に『七十年の回想』という著書がある。そのなかて頼寧は、「私の家には馬車 がありました。箱馬車が二台と、メリケンという幌馬車と、お使馬車と呼ぶものと都合四 台ありまして、馬は四頭おりました」と橋場の屋敷の思い出を懐かしそうに語っている。 当主の有馬頼萬はこの屋敷て大勢の召使にかしずかれ、藩主時代とあまりかわらぬ何不 自由ない生活を送っていた。 伯爵の憤懣爆発 298

9. 枢密院議長の日記

したのは大正十一年の五月だから、その時点から十年が経過したことになる。 倉富が有馬に安の就職の世話をしてくれた礼を述べると、有馬はもっと早く話してくれ ればよかったと答えている。おやと思ったのは、有馬が安の就職先を有馬家と縁のある石 橋某の会社と言っていることてある。これはおそらく、有馬の出身地の久留米て石橋正二 郎が大正七年に創業した日本足袋株式会社 ( 現・プリヂストン ) のことてある。 もう一つ意外だったのは、倉富が有馬との会話のなかて、特許に夢中になっている安の 発明病にも困ったものだ、と言っていることてある。理由はわからないが、安は特許制度 に関むをもち、それか就職面にも役立ったということらし、 倉富は安の就職の世話をした、とは書いていない。だが、日記の安に関する記述には、 困ったヤツだと言いながら、十年前に安を厳しく叱りつけたことがやはり気がかりて、就 職に際してそっと手を差し伸べたらしい様子が読みとれて、熱いお茶て一服いれたように ほっとむ和まされた。 恩賜の鳩杖 五・一五事件に遡る半年前の昭和七年一月十四日、倉富は長年の功に対して宮中から鳩 杖を下賜された。鳩を象った金具が握りの部分についた鳩杖は、八十歳以上の宮中功労者 364

10. 枢密院議長の日記

一郎らと帝政党を旗揚げし、のちに台湾総督府国語伝習所長、衆議院議員などを歴任し、 国士として名を馳せた 維新から半世紀あまりしかたっていない大正十年代は、倉富ら旧藩主に仕える忠臣にと って、慕末・維新の血なまぐさい事件はまだ生々しい記憶をもって思い出せる時代だっ それは、われわれ〃団塊の世代みが、実際には経験していない太平洋戦争を昨日の出来 事のように話せる感覚に近 いといえば、少しは理解していただけるかも知れない。 倉富が 大久保彦左衛門のような役割を果たした有馬家相談会が、人脈的には慕末の〃文化圏内〃 にあったことは、また後て述べる機会があるだろう。 倉富家を訪間した橋爪慎吾は、この当時、有馬家の家事全般を監督する家令の立場にあ にたはらしげゆき った。それから間もなく、福岡出身の元陸軍大将て倉富より九歳年下の仁田原重行が家令 となり、さらにその後任となるのが、久留米藩の元家老職の家柄て、夫人が先代当主有馬 頼萬の従妹にあたる有馬秀雄てある。 橋爪と倉富のこの夜の話し合いからわかるのは、家を新築することから香典の金額ま て、有馬家の家政に関するありとあらゆることが旧藩家臣の流れをくむ長老らによる相談 297 第六章有馬伯爵家の困った人びと