た憲法の条文には容易ならざる歴史がある。山県有朋、大山巌両閣下からも種々の意見が しんりよ あり、そもそも明治天皇の深い宸慮を労し賜いたるものにて : : : 」 剛直な性格て知られ、ライオン宰相といわれたさすがの浜口も、山県有朋、大山巌から 明治天皇まて総動員されれば、ワシントン軍縮条約の先例を出して逃げを打つほかはなか この大時代な応酬に見られるように、枢密院は世間からはすてに時代遅れの存在と見ら れていた。 条約支持論を展開する新聞は、枢密院を前世紀の遺物扱いして攻撃し、浜口と もうろく 同じ民政党に所属する代議士の永井柳太郎は、枢密顧問官は耄碌爺の集団と悪態をつい 倉富はこうした世論の動向に歯ぎしりしたが、枢密院の無力化は明らかだった。枢密院 は立憲君主制の草創期こそ、議会制度と天皇制の調整弁として重要な役割を担ったが、こ の時代になると曲がりなりにも議会制度が成熟しつつあり、枢密院の存在意義は失われか けていた。それを覆い隠していたのが、三度にわたって議長をつとめた山県有朋の存在て ある。山県の最後の在任期間は十三年近くに及び、元老としての絶大な権力をバックに政 党政治に対抗しつづけたが、前述したように、山県死後の議長は清浦奎吾、浜尾新、穂積 陳重と軽量化の一途をたどるようになる。 377 第七章ロンドン海軍条約
平八郎に強い共感を抱いていたことは想像に難くない。 倉富が昭和七年の五・一五事件後の混乱した事態を収拾するため、元老の西園寺公望に 長広舌をふるって東郷平八郎を内大臣に強く推挙したことは、前に述べた。倉富のそのと きの大時代なふるまいは、その二年前のロンドン条約に対する東郷平八郎のポジション が、少なからず影響していた。 しかし、「乞骸始末」のなかに登場する倉富は、緊急勅令を審議した関東大震災下の枢 密院会議のときと同様、あくまて法の精神にのっとった筋論を通している。 軍縮条約批准への不信 ロンドン条約の審議が枢密院に諮詢されたのは、昭和五年七月二十四日だった。「乞骸 始末」は述べている。 〈七月二十四日、ロンドン海軍条約批准の御諮詢あり。同日午後四時二十五分頃、枢 密院書記官堀江季雄より予の家に電話し、条約案の御諮詢ありたることを通知す。予 が正に堀江と電話するとき、内閣総理大臣浜口雄幸来訪す〉 浜口は、葉山御用邸て避暑中の天皇陛下に拝謁し、条約案の諮詢を奏請し、併せて条約 案の審議を進めることを枢密院議長に交渉すべき旨を奏上したところ、枢密院の会議が開 372
る後、殆んど二年を経て始めて副議長より議長に進むことを得たり〉 ・一一六事件ぞ岡田同様危うく難を逃れた最後の元老の西園寺は、ロンドン軍縮条約間 題ては、老獪に根回しを謀って条約批准に導いた陰の黒幕だった。また二・二六事件当時 侍従長だった海軍出身の鈴木貫太郎は、ロンドン条約批准反対の直訴をするため昭和天皇 への上奏を企てた海軍軍令部長の加藤寛治の動きを事前に察知し、侍従長としてこれを事 実上阻止して条約締結に大きく道を開いた最大の功労者だった。 ロンドン条約批准を裏て画策した要人たちへの倉富の怨みはすさまじく、岡田も西園寺 も鈴木も二・二六事件て残念ながら死をまぬがれたといわんばかりてある。 倉富の故郷久留米ての田園生活は、表面的には俗界を離れて仙境に入ったかにみえる。 だが、その心中は晩節を汚してしまった自分への呵責と、自分の憂国の赤心を抹殺した男 たちへの怨念が、激しく渦巻いていた 389 第七章ロンドン海軍条約
かれるならば、避暑中ながら還幸して会議に臨む、その旨を浜口から倉富に伝えよ、との 御沙汰があった、と申し述べ ' これに対し倉富は、田 5 し召しは謹んて承るが、下調べに相当の日数がかかるのて、この と答えている。 夏の間に審議を開始するのは難しいかも知れない、 それから十一日後の八月四日、倉富は内閣総理大臣官舎に浜口を訪ねた。その後の調べ て、条約案が枢密院の諮詢にいたる過程に生じた疑義を、浜口本人に直接質すためだっ 会談前の八月一日、倉富は「聞く所に依れば此条約案は枢密院に御諮詢あらせらるるに さきだ 先ち、軍事参議院に御諮詢あらせられ、参議院は奉答書を呈したりとのことなるを以て、 予は其奉答書は枢密院にて条約案を審議するに欠くべ からざる資料にして之なければ可否ともに決し難きも のと思料し」として、内閣書記官長を通じて浜口に奉 答書を枢密院に提出することを迫っていたたが、四 日の会談て浜口は「それには応じられない」と突っぱ 幸 ロ 倉富は手続き論を主張することて、条約批准拒否の 浜 かんこう 373 第七章ロンドン海軍条約
に止らす、官を退きたる後、亦同じ。是官の通規なり。但、其の秘密は事体に因り一 時に止まる者あり。或は稍 : 長きに渉る者あり。数十年の久きを経るも猶秘密を要す けだし る者の若きは蓋希なり〉 倉富は続けてロンドン条約の批准案が裁可公布された経緯と、昭和十一年初めに日本が きはん 同条約から脱退し、その羈絆から解かれたことを述べている。これが、この手記を書いナ 倉富なりの理由となっている。 〈然れば前年条約の審議にケかり秘密を守る義務ありたる者も、今日にては必ずしも 之を守る必要なかるべし。予は枢密院に於て海軍条約の会議を指揮し、其の議決が予 の意に違ひたるに拘はらず、予の名を以て議決を奏上し、御裁可を仰ぎたるは自ら欺 きたるの甚しき者なり〉 ところが最後に、 ~ 則言とはまったく相矛盾する、優柔不断な結語がいじいじと述べられ 〈然れども記述の主旨は本来自己の責任を明にするに在り。之を公洩する如きは固よ り予が敢てする所に非ず。是一己の私記に止むる所以なり。子孫たる者、能く此の意 を領し、妄りに之を人に示すこと勿れ〉 「乞骸始末」の本文には、ロンドン条約の批准案を審議するため枢密院内に設けられた審 ている。 みだ 368
倉富はこれに続けて、「委員会の全会一致て決定した案を本会議て変更した例はない。 だから、本件も全会一致て決定する必要がある。もし委員の意見が一致せず、政府案に沿 わない決定があり、本会議てその案が可決されても、政府は枢密院の議決いかんに拘わら ず、既定方針通り原案を奏請するだろうから、枢密院の面目は丸つぶれになる」と発言し げんち た伊東の言葉をとりあげ、それを言質にこう批判している。 〈伊東の此の意見は根底に於て誤あり。本来内閣の外に枢密院を設置したまひたる御 趣旨は、重要の案件に付ては内閣の審議を経たる上、更に枢密院の意見を御聴取遊ば さるる為なり。若し枢密院が内閣の意に反することを恐れ、意を枉げて内閣に迎合す るが如きことあれば、内閣の奏請に因り直に御裁可あらせらるると同一にて、特に枢 密院を設けらる必要なきことなり〉 倉富の意見は正論すぎるほど正論てある。ただしむらくは、倉富が国際情勢というも のをまったくといっていいほど理解していなかったことてある。倉富は最後に述べてい 〈今〔ロンドン〕海軍条約に付審査手続を見るに、条約の兵力量は国防の欠陥を生じ たること ( を ) 認めたるに拘はらす、欠陥補充の計画、補充に関する経費、条約に関 する軍令部の意見、民カ休養の財源、其の他条約の可否を決するに必要なる資料は一 382
姿勢を貫こうとしたのてある。以後、倉富は三度にわたって浜口との交渉を続けたが、話 し合いはいつも平行線て終っご。 倉富は浜口とのやりとりを踏まえて、自分の意見をまとめている。 〈予は初め八月一日、枢密院書記官長〔二上兵治〕をして内閣書記官長〔鈴木富士 弥〕に対して軍事参議院奉答書の提出を求めしめ、次て予自ら三回〔八月四日、同月 六日、同月七日〕浜口雄幸に対し、或は法規に基き、或は実際の便宜に因りて其提出 を勧告したるも、終に其勧告に応ぜず。蓋、軍事参議院の奉答書は絶対に条約案に反 対したるには非ざるも、条約の兵力量にては国防上欠陥を生する故、之を補充する必 要あることを言明したるを以て、此言明は政府が条約上の兵力量にて国防に支障なし と云ふ宣伝に矛盾し、又補充軍艦を建造する為には巨額の経費を要し、政府が軍備を 縮少し、国費を節減し、之を以て国民の負担を軽減すと云ふ宣伝に抵触するを以て、 政府は之が為奉答書の提出を難かるものと思はれたり〉 八月十一日、倉富が最後まてこだわった奉答書の提出がないまま、枢密院は条約批准の 可否を審議する審査委員会のメンバーを枢密顧問官のなかから選抜した。 委員長には、古くは大日本帝国憲法の草案づくりに参画し、関東大震災下の緊急勅令を 審議する枢密院会議ては性急な議事進行をして、法律の筋論を説く倉富を憤慨させた伊東 けだし 374
も委員会自ら之を審査せす。終に国務大臣が軍部と協調を整へ、国防の補充計画を遂 行し、且国民負担の軽減を実行し、本条約の目的を達成するに遺憾なきを期すとの言 責に信頼し、本件を可決すべきものと議決すと云へり。 国務大臣が条約の目的を達成するに遺感なきを期すと云ふことは、特に枢密院に対 してのみ之を言明するに非ず。陛下に対し奉りても其の旨を奏上すべきは当然の事な るを以て、若し国務大臣の言責に信頼して決することを得るならば、特に枢密院に御 諮詢あらせらるる必要なく、枢密院は無用の機関なりと謂はざるべからず。然れど も、是固より枢密院が当然の職責を尽くさず、理由なき面目論を云々して政府に迎合 したるより生じたる結果に外ならず。蓋、伊東は外剛直を装へども内心之に反し、終 局に至り終に其の本心を吐露し、自己の為さんと欲する所を成したるものなり〉 まさに声涙倶に下るような文章てある。残念なのは、倉富がなぜこの正論を、昭和五年 の時点て吐けなかったかてある。倉富はやはり自己保身の謗りを免れない。 斎藤実の背信 「乞骸始末」には、本記を執筆して一年二カ月後の昭和十三年七月に書き終えた「余録」 という四百字詰め原稿用紙にして十枚ほどの文章が添えられている。 383 第七章ロンドン海軍条約
こうした流れのなかて、優柔不断て政治力は皆無に等しい倉富が議長に選ばれたのてあ る。ロンドン条約をめぐる政府との攻防は、枢密院が歴史の表舞台から退場するわびしい セレモニーにすぎなかった。その意味て一一一口うなら倉富は、知らず知らす時代からおいてけ ばりをくって、ひとりきりきり舞いさせられるピエロ的存在だったといえる 伊東巳代治の変節 倉富が「乞骸始末」に書きとめた十三回にわたる審査委員会の審議過程を詳細に読んて / 、し J 委員長の伊東の態度が徐々に変化していく様子がよくわかる。 伊東は、九月十日に行われた第九回目の審査委員会て、「近頃、軍令部長の加藤寛治の 統帥権間題がやかましくなったのて、この間題を枢密院てこれ以上議論するのはやめにし よう」と突然発言して、倉富を驚かせた 委員会の帰趨を決したのは、伊東の独演会となった九月十七日の第十二回審査会だっ たそれまて、押さば引け 引かば押せといった老獪な司会ぶりて、委員会を批准賛成の 空気に導いてきた伊東はここて頃合よしとみて、「軍部と完全なる協定を遂げ、補充の遂 行、国民負担の軽減に付、条約の目的を達するに違算なきに於ては条約御批准相成然るべ しと思考す」という覚書を読みあげ、採決を迫った。 0 378
その後に続く伊東の独演部分を、「乞骸始末」から引用しよう。 ^ 予は此の案の外に工夫なし。若し各位に於て事情にも適し、実行も出来る様の意見 あれば喜て之に従ふべし。若し又予の案に反対し、之に代はるべき好案なきならば、 ひっきよう 畢竟予の不徳の致す所なるを以て、予は即刻委員長を辞せんと欲す〉 倉富はさらに、伊東が声を励まして「此の案に依らずして委員会の決議を為し、本会議 にて其の案を否決せらるれば、其の結果は条約の単純可決と為り、枢密院の面目は全潰と 為る。此等の事も考慮せずして反対しては困る」ととどめを刺したと記している。 覚書の承認を迫る伊東の演説は罵詈に渉り、委員の賛同を得ると急に顔を和らげ言も穏 やかになった、と悪意をもって書いているところに、倉富の伊東に対する積年の憎しみが にじんている ロンドン条約批准案は、九月二十六日に行われた第十三回審査委員会て、全会一致によ り可決され、十月一日、浜口首相以下の閣僚と倉富議長以下の枢密顧間官が出席した、宮 中東溜の間の御前会議て裁可された。 倉富はこのとき提出された四百字詰め原稿用紙にして四十枚近い最終審査報告書を、全 文筆て書き写している。興味深いのは、本論に続いて書かれた倉富の雑感部分てある 0 わた 0 379 第七章ロンドン海軍条約