来原 - みる会図書館


検索対象: 枢密院議長の日記
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1. 枢密院議長の日記

るべきや。左もなければ来原の要求も過大にて、武田の約束も過多なり。又分部某も 幾分事情を知り居るには非ざるべきや。来原が分部に贈りたる書状中に、 co 某の符帳 あり。事情を知らざる者には解し難きことなり」〉 ここてというアルファベットが出てくるのは、倉富日記にはきわめて珍しい。倉富が 来原の子分てある某の名前をつかんていたのは、前日の三月十九日に牧野に面会した 際、牧野から示された武田、分部宛の来原の手紙のなかに某の名前があったからてあ る。来原が「返事次第ぞはを連れてお伺いする」と書いていることから、は武田、分 部にとって旧知の間柄てあり、脅迫の切り札となるような凶暴な男だったと想像てきる。 さすが元東京控訴院検事長てある。証拠は挙がっているといわんばかりの迫り方てあ る。その迫力に負けたのか、栗田は「来原は初め、武田に十万円を要求したそうぞす」と 「あるいは武田が ( 来原に ) 何か言ったのかも知れません」と漏らした。来原が武田 に最初に要求した十万円という脅迫金は、現在の貨幣価値に換算すれば、三億円という途 方もない金額になる。 栗田と話しているとき、宮内省の木村英俊が電話してきた。四時頃、来るという。電話 が終わって戻り、倉富は栗田と面談を続けた。栗田は四十分ほどて帰った。

2. 枢密院議長の日記

が先日、鉄筆版の書類を配付したる事に付、武田に対し三万余円の出金を求め、武田 なじ は一万五千円を出金すべき事を約し、其約を履行せざる為め、来原は其不都合を詰り たるものなり』との事なり。然るに武田は一両日所在を晦まし、昨夜帰宅したる故、 栗田より辞職せしむる事に話し、今朝辞表を出さしむべき筈の処、今朝は亦其家に在 らす」〉 木村がここて言わんとしていることは、要するに、久邇宮家は来原という男を使って婚 約反対派に揺さぶりをかけた、しかし、久邇宮家はいまは逆に来原から金銭をゆすられる 立場になってしまった、ということてある。来原は名を慶助といし 谷に〃羽織ゴロみと 呼ばれる札付きの壮士だった。 警視総監との密談 木村の話が終わらないうち、会計審査局属官の西野英男が来て、牧野伸顕が倉富を呼ん ているという。牧野は一カ月前に新宮内相に就任したばかりてある。 牧野の部屋に行くと、牧野はすてに栗田から木村と同様の報告を受けていた 牧野は来原から武田宛の手紙二通と分部宛の手紙一通を倉富に渡し、「これを読んぞお していたたきたい。 その上てこの手紙を警視総監または警保局長に見せて、来原が宮邸に くら

3. 枢密院議長の日記

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4. 枢密院議長の日記

たが、仙石は岡には今から面会に行くつもりだという。 以下は、岡との面会を終えて宮内省に帰ってきた仙石と倉富の会話てある。 〈仙石「武田健三の事も武田より金を来原に渡し、来原も志士を以て自ら任じ居る者 に付、後日更に恐喝する様のことはなからんと思ひ居るが、来原の下には壮士体の者 も居ることに付、確かに安心と云ふ見込ある訳に非す。此事に付ても別に詳細の事情 分り居る訳に非ず」 予「武田が渡したる金額は分らざるや」 仙石「五千円なり」 予又「其金の出所は分らざるや」 仙石「其事に付ては却て自分の方より岡等に話し置たり。夫れは牧野某と云ふ者が 久邇宮附の事務官たりし角田某と懇意なりし為め、角田の周旋にて牧野も久邇宮に出 入することとなり、今日にては殿下にも接近し居り、此節の金も牧野が出し居る様な 。然し其後、牧野の方に何処からか之を償ひあるや否は分からずと云ひ置たり」〉 ここて仙石は慎重に、牧野某から武田を経由して浪人の来原に渡った五千円はどこから 出たかわからない、 と一一一口っている。ご、、、 たカ四日後、仙石はさらに踏み込んだ発言をした。 〈予「牧野某より出したる金を償ひあるや否は分らざるや」 81 第一章宮中某重大事件

5. 枢密院議長の日記

言上したところ、事務の引き継ぎもあるのて二、三日は出せないと仰せられ、武田には十 分ご同情がおありのようてした」 つづいて倉富が栗田と面会したことを話し、「内務大臣、警視総監らの意向を久邇宮に 伝えることは、栗田が来原に関係している疑いが消えていないのて見合わせました」と報 告する。牧野は「もっともなことだが、 久邇宮殿下には内務大臣らがここまて考えている ほど容易ならざる事態てあることは一一一〔上しておいたほうがよいと思う」と答え、最後に山 石に対して「来原の性向などは警視庁て調査してもらって、その調書を取り寄せてほし い」と命じ、打ち合わせを終えた。久邇宮家はおろか、皇室、宮内省を巻き込む一大スキ ャンダルに発展しかねないこの一件を、牧野がいかに重視していたかがわかる 来原、武田間題はまだ後を引き、三月三十一日の日記にも、牧野とのこんな会話が書き とめられている。この日、倉富が牧野と会ったのは学習院の控え室ごっご。 オオこの当時、倉 富は学習院の制度改革委員長を務めていた。 〈牧野「更に栗田直八郎を召びて久邇宮邸の近状を間ひたる処、何も懸念のことなし と云へり」 ( 中略 ) 予「牧野は栗田等と懇意にて、此節も牧野は武田の為めに金を出し居る趣なり。其 額は確かならざれども、 五千円とか云ふことなり」 79 第一章宮中某重大事件

6. 枢密院議長の日記

石が流れて木の葉が沈む 来原、武田間題は結局どう決着したのか。三月二十八日の倉富日記にそれを暗示する記 述がある。この日の記述も、例によって宮内省職員との会話体てある。 倉富の皇室情報は、いつも井戸端会議て語られる。この日の相手は、木村英俊と仙石政 敬てある。 倉富はこの日、午前九時半頃に宮内省に出勤した。雑務を済ませ、宗秩寮に行くと、木 村と仙石が雑談している。倉富は一一人を誘って総裁室へ入った。 りたり』と云ふに 〈木村「先日武田健三に面したる処、武田は『此節の事は恐れ入 付、自分より『事実の真相を聞き度し、事実を知らざれば宮の利益又は君の利益を図 りても、却て不利益の結果を生ずることあるも図り難し』と云ふ。武田、『来原とは 然るに事の決定したる後 先年より懇意の間柄なる故、度々往来して打合を為したり。 に至り、来原より金を請求するに付、之を拒まんと思ひたれども、結局已むを得す金 を遣はすことを約したり』と云ふ。依て自分より『其後如何なる状況になり居るや、 円満に運び居るや、又は結局争はざるを得ざるや』と云ふ。武田、『円満に運び居る』 と云ひ、『此事に付ては、是以上間ひ呉るるな』と云ふに付、其程度にて止めたり。 其後、栗田直八郎に対し、『全体如何様なることなるや』と云ひたるに、栗田は『牧

7. 枢密院議長の日記

野某が心配し居るに付、必ず都合よく決定するならん』と云ひたり」〉 ここに出てくる牧野とは、牧野伸顕のことてはない。 倉富も「牧野とは何者か」と尋ねている。これに対して木村は、「多年久邇宮に出入り し、殿下も近づけられている人てす。牧野の長男の妻は前の久邇宮附事務官の娘て、栗田 が媒酌したという関係てす。その娘は亡くなりましたが、牧野は栗田とも懇意にしていま す」と答えている。 この問題をめぐる雑談はさらに続く。木村は、来原事件のあと久邇宮邸内の空気は以前 より悪くなったと言う。倉富が「武田はすてに辞めたのに、誰があれこれ言っているの か」とたずねると、木村は自分自身が悪者にされているのだと打ち明けた。 〈木村「今日にては武田の免官を遺憾とし居る様なり。此事に付、自分 ( 木村 ) が今 少し取成せば免官にならずとも済みたることなり、来原には金さへ遣はせば何事もな かりしことなりとて、不平を云ひ居るなり」〉 大正十年一二月二十一日の『東京朝日新聞』は、武田健三の辞職を次のように報じてい る。来原間題はおろか久邇宮家の内情などまったく知らない記者が書いた記事は、武田を ヒーロー扱いにして、木村に辞職を迫る内容だった。倉富日記を読んて真相を知っている われわれにとってはまさに噴飯ものの記事てある。ただし、木村には気の毒ながら、当時 77 第一章宮中某重大事件

8. 枢密院議長の日記

はまずいのて、絶対に秘密にしておき、君が武田らの様子を探る際にも決して彼らに気づ かれないよう注意してほしい。警察に探らせれば十分判明するだろうが、今のところそう いうわけにもいかないのた」といって木村への指小を終えこ。 倉富は木村の話から、来原に金銭授受の約束をした久邇宮家の武田に内通している宮内 省職員がいないかを探り出そうとしている。来原問題に、武田以外の宮内省関係者が関与 していたとなれば、事は久邇宮家のためを思ってやった武田の個人プレイとして内々に済 ますことはてきなくなる。 倉富は最後にこう書きとめ、この日の日記をしめくくっている。 〈午後三時頃、栗田直八郎来訪の時、岡喜七郎、床次竹一一郎等が武田健三の名義にて 金を出す意見なることを話したるが、栗田に対しても此事は絶対に秘密にすべき旨を 注意し置けり。 かき 此日、午前十時頃より烈風吹き、正午頃より殊に甚しく、午前中書斎の前の牆を倒 したり〉 最後の一行に、慌しい一日と疑心暗鬼にかられた倉富の心境がにじみてている。 75 第一章宮中某重大事件

9. 枢密院議長の日記

書』 ) と述べている。 原敬が明確に大正天皇の病気を知ったのは、日記て見る限り、大正八年二月のことてあ る。宮内大臣詰所て石原健三宮内次官との会話て、「聖上御病気の御様子」をきいたとこ ろ、葉山て静養している大正天皇は、風呂にも入らす庭にも出ないのて、侍医が散歩を勧 めたという話を聞いている。続いて次のような記述がある 別に是と云ふ御病症あらざれども何分少々御熱などのある事もあり、御脳の方に何 きよ、つく か御病気あるにあらずやと云ふ事なりと。甚だ恐に耐へざる次第なり ( 『原敬日記』 大正八年一一月十五日 ) この後『原敬日記』には大正天皇の病状についての記事がしばしば現われるようにな る。特に原が間題としたのは、もちろん山県もそうてあるが、帝国議会開院式への大正天 皇の出席間題てある。天皇は議会の開院式において勅語を読むことになっているが、無事 それがてきるかてある。つまり国民の前て天皇としての儀礼的役割か果たせるのか疑間に なってきた。兀老の松方正義は「誠に遺感の次第ながら数日来御練習になっているが、何 分にも御朗読は困難なようだ。開院式御出席は難しいてあろう」と原に報告している 0 0 4 16

10. 枢密院議長の日記

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