枢密院議長 - みる会図書館


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1. 枢密院議長の日記

た憲法の条文には容易ならざる歴史がある。山県有朋、大山巌両閣下からも種々の意見が しんりよ あり、そもそも明治天皇の深い宸慮を労し賜いたるものにて : : : 」 剛直な性格て知られ、ライオン宰相といわれたさすがの浜口も、山県有朋、大山巌から 明治天皇まて総動員されれば、ワシントン軍縮条約の先例を出して逃げを打つほかはなか この大時代な応酬に見られるように、枢密院は世間からはすてに時代遅れの存在と見ら れていた。 条約支持論を展開する新聞は、枢密院を前世紀の遺物扱いして攻撃し、浜口と もうろく 同じ民政党に所属する代議士の永井柳太郎は、枢密顧問官は耄碌爺の集団と悪態をつい 倉富はこうした世論の動向に歯ぎしりしたが、枢密院の無力化は明らかだった。枢密院 は立憲君主制の草創期こそ、議会制度と天皇制の調整弁として重要な役割を担ったが、こ の時代になると曲がりなりにも議会制度が成熟しつつあり、枢密院の存在意義は失われか けていた。それを覆い隠していたのが、三度にわたって議長をつとめた山県有朋の存在て ある。山県の最後の在任期間は十三年近くに及び、元老としての絶大な権力をバックに政 党政治に対抗しつづけたが、前述したように、山県死後の議長は清浦奎吾、浜尾新、穂積 陳重と軽量化の一途をたどるようになる。 377 第七章ロンドン海軍条約

2. 枢密院議長の日記

と海軍軍令部て兵力量決定のルール作りをするための軍事参議官会議を開いた。 れもうまくいかず加藤寛治軍令部長は、別件の上奏中に突然辞表を提出、内閣弾劾をはじ めた。加藤が退出すると天皇は直ちに財部彪海軍大臣を呼び、「話の筋が違う。加藤の進 退は大臣に一任する」と上奏書を下げ渡した。加藤は犬死したわけてある。 しかし加藤のこの行動は、かえって海軍大臣の横暴を許すなという声になり、陸海軍軍 事参議官会議が開かれることになった。そこて合意されたのは「海軍兵力に関しては海軍 大臣海軍軍令部長間に意見一致しあるべきこと」てあり、これは天皇の裁可を受けた。こ れは軍部大臣を拘束するとともに、軍令部長が兵力量決定の主導権を握る可能性を秘めて こうした軍部の動きに対して枢密院はどのような態度をとっていたのてあろうか。倉富 を始めとする枢密院議長団 ( 倉富議長・平沼副議長・二上書記官長 ) らは、回訓の根拠が不当 てあると考えていた。冒頭に挙げた三原則は軍事参議官会議の議を経たものてあり、回訓 いかにも枢密院ら は正しい手続きを踏んていないから法的に無効てあるというのてある。 しい言い方てある。もちろん倉富らにも言い分がある。軍事に関係のない枢密院として は、軍事参議院に頼らざるを得ないのてある。したがって条約批准の最終決定をする枢密 院にとって軍事参議院、ひいては軍部の判断は決定的影響力を持っていた。「乞骸始末」 419 解説「倉富勇三郎日記」によせて

3. 枢密院議長の日記

一九〇三年 ( 明治 ) 大阪控訴院検事長訂歳 ) 一九〇四年 ( 明治芝東京控訴院検事長 ( 歳 ) 一九〇七年 ( 明治韓国法部次官、統監府参与官 ( 浦歳 ) 一九〇九年 ( 明治肥 ) 韓国統監府司法庁長官を兼ねる ( 歳 ) 一九一〇年 ( 明治昭 ) 朝鮮総督府司法部長官龕歳 ) 一九一三年 ( 大正 2 ) 法制局長官 ( 礙歳 ) 一九一四年 ( 大正 3 ) 貴族院勅選議員歳 ) 一九一六年 ( 大正 5 ) 帝室会計審査局長官 ( 歳 ) 一九二〇年 ( 大正 9 ) 宗秩寮御用掛、李王世子顧問 枢密顧間官兼任、宗秩寮総裁代理 ( 歳 ) 一九二一年 ( 大正川 ) 宗秩寮総裁事務取扱歳 ) 一九二二年 ( 大正Ⅱ ) 宮内省御用掛 ( 間歳 ) 一九二三年 ( 大正リ枢密顧問官兼帝室会計審査局長官行歳 ) 一九二五年 ( 大正枢密院副議長歳 ) 一九二六年 ( 大正 ) 枢密院議長に就任、男爵を授けられる行歳 ) 一九二八年 ( 昭和 3 ) 王公族審議会総裁元歳 ) 一九三四年 ( 昭和 9 ) 枢密院議長を辞任、郷里へ帰る ( 歳 ) 一九三六年 ( 昭和リ家督を長男・鈞に譲る ( 制歳 ) 一九四五年 ( 昭和 ) 内子死去歳 ) 一九四八年 ( 昭和 ) 1 月 % 日、死去 ( 享年 ) 一九〇四日露戦争始まる 一〇韓国併合 一一一明治天皇崩御 一四第一次世界大戦始まる リ講和会議 一一一皇太子裕仁、摂政となる 二三関東大震災・虎ノ門事件 二六大正天皇崩御 三〇ロンドン海軍軍縮会議 三一満州事変 三二五・一五事件 二・一一六事件 四一太平洋戦争始まる 四五終戦 425 倉富勇三郎年譜

4. 枢密院議長の日記

こうして午後七時半頃、枢密院議長の倉富邸に、枢密院副議長の平沼、枢密院書記官長 の二上という′ / 枢密院トリオみが集結することになった。枢密院書記官の堀江季雄も呼び 出され、護衛官の潤愛彦も駆けつけた。 枢密院トリオの結論 倉富は堀江にこれからすぐ警視庁と憲兵司令部に行って、情報収集してくるよう命じ 堀江が出て行ったあと、〃枢密院トリオ〃て話した内容が、この日の日記に記されて 「今回のことは単なる殺人行為てはない。 暴動の兆しがある。継続するようなら、直ちに 戒厳令を布告しなければならない。 そのためには枢密院会議を開かねばならないが、宮中 りんぎよ にて開会して臨御を奏請するのも恐れ多い。枢密院事務所にて開会してよろしかろう」 これが〃枢密院トリオみが出したとりあえずの結論だった。九時半頃、堀江が帰ってき その報告によれば、犬養毅は重傷、牧野伸顕は無事、犯人は海軍士官若干名、陸軍士官 候補生十名ばかりて、すてに全員憲兵隊に自首しているのて安心せよ、とのことだった。 この報告を聞いて平沼は「このまま放任すれば今後暴動続発の恐れがある。適当な処置 0 356

5. 枢密院議長の日記

た存在へと送り込みはじめていた。 これは、元号が昭和と変わる八カ月前の大正十五年四月に、倉富が枢密院議長というポ ストに祭りあげられたことと無縁てはない。 枢密院の歴代議長は首相経験者を中心とする実力者が務め、特に山県有朋は三期十八年 近くにわたって議長に君臨している。 あらた のぶしげ 山県の死後議長となった清浦奎吾が首相に転じると、その後は浜尾新、穂積陳重といっ た政治色の薄い人物が議長に選ばれるようになった。当然ながら枢密院の影響力の低下は 否めなかった。そこに登場したのが、われらが倉富勇一二郎てある。 枢密院を構成する顧問官には伊東巳代治や金子堅太郎、山川健次郎など明治以来の大物 が名を連ねていたものの、世間的にはうるさ型の老人集団と見られるようになっていた。 宮内省を離れ、それてなくとも不得手な政治向きの間題を付託された倉富のもとには、 宮中某重大事件や柳原白蓮騒動の当時のような「鮮度のいい情報」が入りにくくなり、残 念ながら日記の内容も、われわれが飛びつきたくなるようなネタは乏しくなった。 たとえば満州事変が勃発した昭和六年九月十八日当日の日記には、事変についての記述 翌日の日記にも、「支那は遂に衝突を起したるが、此後は如何なることにて局を 352

6. 枢密院議長の日記

旧枢密院を訪ねる 大正十五 ( 一九二六 ) 年四月十二日、倉富は枢密院の第十五代議長に任命された。七十 四歳のときだった。ちなみに枢密院の初代議長は、伊藤博文てある。 枢密院は、設置当初は大日本帝国憲法の草案を審議し、以後は天皇の諮詢により憲法間 題、対外条約、緊急勅令、戒厳令布告などにつき審査するという 重要な役割を担ってき 明治二十一 ( 一八八八 ) 年に設置された枢密院は、戦後の昭和二十二 ( 一九四七 ) 年五月 三日、日本国憲法の施行によって廃止された。同じ時期に同じ理由て廃止された戦前の議 会組織に貴族院がある。 貴族院は議員の選出方法が一般選挙によらす、皇族や華族を中心とし、勅選議員や多額 納税議員からなる閉鎖的な組織だったが、その役割は議員が一般選挙て選ばれる衆議院と 同じ立法機関だった。ちなみに倉富も大正三 ( 一九一四 ) 年三月から大正五年十月まて、 貴族院の勅選議員をつとめている。 その立法機関の貴族院に対し、枢密院はあくまて天皇の諮詢に応じて重要国務を審議す 102

7. 枢密院議長の日記

密院が対立するようになると一段と激しくなる。たとえば昭和二 ( 一九二七 ) 年の台湾銀 行救済問題ては、枢密院の反対によって第一次若槻内閣が総辞職するという事態になっ た。その後もこうした内閣と枢密院の対立が起こるたびに、「枢密院間題」は政治間題の 一つの焦点として論議を引き起こしたのてある。 こうした文脈の中て「倉富勇三郎日記」を見るとその重要性が理解されるだろう。今ま て『枢密院会議筆記』てしか分からなかった枢密院内部の審議過程が、枢密顧間官の日記 によってより詳しく分かるようになるたろうという期待が、はじめて日記を見たときの衝 撃てあった。 一つは公的記録てあって、枢密院本 従来、いわゆる枢密院に関する史料は二つあった。 会議の議事録てある『枢密院会議筆記』てあり、委員会録や枢密顧間官の履歴などぞあ る。これらは現在国立公文書館に所蔵され公開されている。もう一つは個人文書てあっ でん こわし て、伊藤博文、山県有朋、伊東巳代治、井上毅、原敬、田健治郎、深井英五といった枢密 院に関係し、政治の中枢にいて枢密院と交渉を持った人々の日記や書簡、書類といった断 片的史料てある。枢密院研究はこれらの史料に頼らざるを得なかった。とはいえこうした 個人文書は会議録に現われない内部の情報を伝えるものてあるにしても、断片的てあるこ ところが「倉富勇三郎日記」の登場によって大きく情勢は変わった とはい , フまてもない。 410

8. 枢密院議長の日記

〈然るに同年五月三日、願に依り予の本官を免ぜられ、之と同時に一木喜徳郎を枢密 院議長に任ぜられたり。 政府に阿ねる政客及新聞紙等は一木の任命を以て斎藤内閣近 来の善事なりと称揚せり〉 当時の苦衷忘るること能わず 一木は牧野伸顕の後任として大正十四年から八年間宮内大臣をつとめたが、持論の天皇 機関説を唱えたため世論の批判を浴び、宮内大臣を辞職した過去をもっていた。 倉富は一木には秘密に属する非難もあり、宮内大臣を退官してから日もまだく、一木 を天皇の最高顧間たる枢密院の議長に推薦したのは驚天動地の出来事だったと、 怒りをあ らわにしている。 〈斎藤は予と議長後任を謀りたるときより既に平沼を議長と為すことを欲せざりし か。若し之を欲せす、予に対して同意の旨を告げたるならば、斎藤は自ら欺き、又予 を欺きたるものなり。若し又予と語りたるときは平沼を可としたるも、其の後に至 平沼を排し一木を薦むる権力者あり、斎藤は之に屈従したるものなるか。守る所 なきものと謂はざるべからず。 予と斎藤との談は固より一の私談 ( こして、斎藤は其の職務上之を守る責任なきは言 おも 386

9. 枢密院議長の日記

る大日本帝国憲法下の最高諮間機関だった。 枢密院の議長、副議長以下の構成員は、議員 社てはなく顧間官と呼ばれた。 新枢密院の建物は、いまも皇居内に残ってい 毎 る。桔梗門を渡ってすぐ左手に見える石造り 撮の建物が、旧枢密院てある。玄関正面の太い 円柱には、エンタシスのふくらみがほどこさ たれ、どこかギリシャの神殿を思わせる て国会議事堂と同じ矢橋賢吉が設計したこの 務白亜の建物は、戦後、皇宮警察本部庁舎とし 長て使用されていた。だが、老写化が激しく、 長い間廃墟同然となっていた。二〇〇七年夏 から本格的な修繕作業に入り、完成後、皇宮 倉警察音楽隊の練習場として再活用することが 院決まったのは、つい先頃てある。 枢事情を話して内部を見学させてもらった。 103 第二章懊悩また懊悩

10. 枢密院議長の日記

する者、堵の如し / 宮中序列第四位 / 第十五代枢密院議長 / 五・一五事件勃発 / 枢密 院トリオの結論 / 一世一代の独演会 / 西園寺公望のしたたかさ / その後の安 / 恩賜の 鳩杖 / 「乞骸始末」 / 悲憤慷慨の漢詩一一首 / 軍縮条約批准への不信 / 浜口くんは憲法を 知らない / 伊東巳代治の変節 / 憤怒する倉富 / 斎藤実の背信 / 当時の苦衷忘るること 能わず 終章倉富、故郷に帰る 二・二六事件をラジオて知る / 岡田啓介の死せざるを聞く / 内子夫人の死 / 絶筆 ~ のし J 力、さ 主要参考文献 解説・「倉富勇三郎日記」によせて広瀬順晧 倉富家略系図・倉富勇三郎年譜 人名索引Ⅷ 423 391