此の如き傾向を生じたるは困りたることなり」との話を為せり〉 辞めてやるから金をくれ 大正十一年三月四日の日記は、期せずして柳原議員辞任間題のまとめの様相を呈してい る。主にこの間題の調停役を買って出た和田豊治から聞いた内容を、関屋が語るという形 をとっている。わかりにく いのて要約しておこう。 柳原辞任の最終局面て、和田が柳原を説得した殺し文句は次のようなものだった。 「内田良平の子分らはなかなか強硬て、貴族院議員を辞するくらいては満足せず、何とし ても隠居させよと言っている。そんなわけて、間こ ( 立った宮内当局も非常に苦心してお り、強引にあなた ( 義光 ) を圧迫しているなどというのは大きな間違いだ」 二位局も柳原の話を聞き、それがあまりに不条理なのて、入江を呼び寄せて柳原の不心 0 昇を説いことい - フ 和田と入江の説得によって柳原もようやく自分の非を唐り、改めて和田に調停を依頼し た。そして貴族院議員を辞することは両三日熟考した上、必ず和田に返答すると約束し た。ところが、柳原から何日経っても返答がない。 その理由を関屋はこう推測している。 おも 〈関屋「意ふに柳原は自分に対し、貴族院議員を辞するに付、多額の賜金を要求する 233 第四章柳原白蓮騒動
白蓮スキャンダルの激震 皇太子妃内定に変更なしとの宮内省発表て宮中某重大事件がひとまず一件落着し、秋に は皇太子が摂政に就任して皇室最大の危機がとりあえず回避された大正十年、宮中を揺る びやくれん がすもう一つの大事件が起きた。柳原白蓮事件てある。 さきみつ あき、」 柳原白蓮 ( 本名・燁子 ) は、明治十八 ( 一八八五 ) 年、公家出身の伯爵・柳原前光と柳橋芸 者のおりようの間に生まれた。 なるこ にいのつぼね 明治天皇に仕え、大正天皇の生母となった柳原愛子 ( 二位局 ) は、白蓮の父柳原前光の 妺てある。つまり大正天皇と白蓮はいとこの関係になる。 燁子は十六歳て柳原の分家の北小路家に嫁するが、間もなく離婚、二十七歳のとき筑豊 の炭鉱王の伊藤伝右衛門にみそめられて再婚した。 しかし、佐佐木信綱に師事して「情熱の歌人」ともてはやされた燁子と、一一十五歳も年 上の炭鉱王との結婚生活はやはり長くは続かなかった。 とうてん 燁子は大正十年十月、孫文とも交流があった革命家・宮崎滔天の息子て、当時、東大の 社会主義グループ「新人会」に所属していた宮崎龍介と出奔するスキャンダル事件を引き 起こした。白蓮は女ざかりの三十七歳、不倫相手の宮崎龍介は白蓮より八つ年下の二十九 217 第四章柳原白蓮騒動
二月十日の日記には、黒龍会問題について協議する牧野と倉富の会話が出てくる。倉富 は黒龍会が出した怪文書について牧野に説明し、岡喜七郎が「燁子の件ぞ内田の子分らが 騒いているが、世間ては相手にしていない。結局、先日決議をしたくらいのことて収まる 模様だ。宮内省てもこの件について苦慮するには及ばない」と言っていたことを伝えた。 牧野は「床次や岡が、『壮士らが騒ぎ立てたら警察カて取り鎮めるから安心せよ』とい うようなことを柳原に言ったおかげて柳原がその気になった ( 貴族院議員に留まること ) のは 事実だ、とのことた」と答えている。 少し位脅かさるる方が宜しかるべし それから五日後の二月十五日の日記に、黒龍会の運動が金目当てだったことをほのめか す記述がある。昼ごろ倉富が審査局にいると、関屋と松平慶民がやってきた。 〈関屋「自分は是より和田豊治に面会する為、外出する所なり。昨日〔午後三時頃〕 柳原燁子事件に付、内田良平等の子分三人が来りたる故、宮内省にて之に面会したる 彼等は柳原義光が貴族院議員を辞すれば夫れにて十分満足する模様なり。自分よ 実行し難き事に付、彼此云ふは害ありて益なき旨を講釈したるに、案外大人しく そ・ほう 何等麁暴の行動なくして去りたり。柳原も此事に付、大分費用を要したる模様に付、 231 第四章柳原白蓮騒動
こうき ロ気を漏らしたる故、自分は『宮内大臣も考あるべきに付、余り露骨に云はず、任せ 置く方宜しかるべし』と云ひ、又入江にも其旨を話したることありたるが、入江も 『柳原の体度には困る』と云ひ居りたり」〉 往生際の悪さだけても近代日本史上類を見ないのに、最後の最後になってもまだ、「辞 めてやるから金をくれ」と脅し文句を吐く。倉富日記に登場する人物のなかて、柳原義光 は周囲を手こすらせたという点て、余人の追随をまったく許さない。 事件の結末 燁子の出奔から数えて半年近く宮中を揺るがした白蓮間題が一応の解決を見たのは、大 正十一年の三月二日だった。 この日、これまてゴネにゴネていたさすがの柳原義光も、警視総監から右翼の大物、財 界の大立者、さらには宮内省幹部らの包囲網に四面楚歌となり、貴族院議員をついに引責 辞任せざるを得なかった。 同日付の『東京朝日新聞』は、「懊悩の柳原伯遂に貴族院を辞すーーー燁子間題の責を 負うて」の見出して白蓮間題の決着を報じている。 記事は「例の燁子間題に就て久しく世の非難を浴び懊悩してゐた柳原義光伯は、茲に 234
森鷁外 ( 林太郎 ) ・ や 柳田国男・ 柳田直平・・ 柳原前光・ 柳原愛子 ( 二位局 ) ・ ・・ 79 , 237 , 238 , 3j3 ・・ 21 乙 221 , ・・ 217 ・・ 239 , 267 水町袈裟六 三宅雪嶺・ 宮崎滔天・ 宮崎龍介・ 宮田光雄・ 武者小路実篤・ 武藤盛雄・ ・・ 19 , 238 ~ 240 , 267 ・・ 293 ・・ 333 ・・ 217 , 219 , 23 ) , 236 ・・ 217 ・・ 198 , 299 ・・ 380 明治天皇・・・・・ 31 , 1 め , 217 , 223 , 343 , 377 121 , 124 ~ 127 , 130 , 131 , 138 , 139 , 141 144 , 1 ) 0 , 1 ) 2 , 1 ) 4 , 1 ) ) , 162 ~ 166 , 189 李墹・ 李載克・ 李晋 ・・ 163 , 164 ・・ 139 ・・ 117 , 144 , 146 , 1 ) 2 , 1 ) ) ~ 161 李方子 ( 梨本宮 ) ・ ・・ 11 , 46 , 116 , 117 , 120 , 122 , 12 ) , 127 , 13 ) , 137 ~ 139 , 144 ~ 146 , 1 ) 0 , 1 ) 2 , 1 ) 4 , 1 ) ) , 1 ) 7 160 , 164 , 166 わ 若槻礼次郎・ 分部資吉 和田豊治・ 渡辺錠太郎・ 222 , 224 , 233 柳原白蓮 ( 燁子 ) ・ ~ 236 柳原義光・ 矢橋賢吉・ 山県有朋・ 217 ~ 220 , 22 ) ~ 227 , 229 ~ 231 , 234 ・・ 76 , 19 , 32 ~ 34 , ・・ 103 ・・ 177 , 218 ~ 236 246 , 2 ち , 3 ) 2 , 3 ) 3 , 3 ) 8 , 36 ) , 377 , 38 ) 37 , 43 , 48 , 60 , 61 , 180 , 240 , 243 , 24 ) , 山川健次郎・ 山崎四男六 山階宮佐紀子・ 山階宮武彦・ 山階芳麿・ 山梨勝之進・ 山梨半造・ 山本権兵衛・ 湯浅倉平・ 横山健堂・ 吉田茂・ 吉田増蔵・ ら 李完用 李垠 ( 李王世子 ) ・ ・・ 3 ) 2 , 37 ) , 380 , 381 ・・ 26 , 27 , 212 ・・ 336 ・・ 336 ・・ 324 , 32 ) ・・ 376 ・・ 332 ・・ 339 , 3 ) 0 , 36 ) ・・ 394 ・・ 110 ・・ 163 ・・ 10 , 11 , 46 , 116 ~ ・・ 26 ) , 362 , 369 , 3 76 ・・ ) 1 , 61 , 62 , 72 ~ 74 , 82 ・・ 223 ~ 22 ) , 231 ~ 233 (v) 426 ・・ 3 88
富日記にそうした気配はまったくない。例えば、原敬の死についてふれた箇所を見てみよ 〈午後九時頃、鈴木重孝 ( 会計監査局審査官 ) 電話し、原敬の遭難を報ず。 九時後、酒巻芳男より電話にて、大谷正男より原敬が暗殺せられたる旨を報じ、之 に付ては授爵等の議あるべきことを談ず。 予、予が聞く所にては死したるには非ざる趣なることを告ぐ〉 十時前になって原敬の死亡が確認されると、すてに夜も更けていたにもかかわらず、宮 内省はただちに叙位の手続きに入る。 〈午後十一時頃、宮内省より電話し、大谷より「只今原敬を正二位に叙することを発 表せらる」と云ふ。 予「夫れは政府より上奏したるものなりや」 大谷「然り」 ( 中略 ) 午後十一時後、白根松介電話し、「原敬の叙位 は外務大臣より上奏したるものにて、是は先例も ある趣なり。夫れにて宜しきや」と云ふ。予、異 存なき旨を答ふ〉 241 第四章柳原白蓮騒動
んど何の関心もなかった。その意味て倉富は規律を重んじる実務官僚てしかなかった。 こ、つきょ 後の話になるが、大正十五年十一一月二十五日、病弱な天皇が葉山御用邸て薨去した。四 十八歳という若さだった。この日の日記にも感想らしきものは書きとめられていない。 の記述は事務手続きに終始して実にそっけない。 〈十二月二十五日土曜晴午前一時後に至り御容体愈重らせたまふ。御用邸に控へ よしか 居りたる東郷平八郎、西園寺公望、井上良馨、上原勇作及平沼等、皆附属邸に来る。 いちききとくろう 一時二十五分に至り、侍医十余人の報告に基き、一木喜徳郎より崩御の旨を報告す。 けんじとぎよ 次て伊藤博邦より剣璽渡御の式に参列すべき者は尚ほ此処に留まるべき旨を告ぐ。三 時二十分頃に至り、剣璽渡御の式を行はせらる。予は枢密院議長として其の儀に参 ま 予は復た御用邸に行き、元号建定に関する枢密院会 ず。儀は六七分間にて終りたり。 議のことを協議す〉 一木喜徳郎は牧野伸顕の次の宮内大臣てある。伊藤博邦は井上馨の甥ぞ伊藤博文の養子 井上良馨、上原勇作は共に幕末に生ま となり、当時は宮内省の式部長官を務めていた。 れ、井上は海軍、上原は陸軍て元帥にまて登りつめた明治期の軍人てある。 倉富が天皇の危篤を知らされて葉山に駆けつけたのは、薨去九日前の十二月十六日てあ る。倉富はその間、無政府主義者の大杉栄が愛人の神近市子に刺傷されたことて有名な日 かみちかいちこ いよいよ 213 第四章柳原白蓮騒動
ては事実上親子の御間柄に影響する様の事ありては実に恐縮する次第なり ( 御対顔等 困難になり ) 〉 しかし、牧野の情理を尽くした懸命な説得も、義光にはあまり効果がなかった。牧野は 義光に辞任を迫る二点の理由をあげたことに続けて、「伯は談話中事体を弁まへざるロ気 にて兎角責任忌避の弁を事とせらる」と述べている。 先帝に畑を提供 義光は牧野の説得の前も後もふてくされた態度をとったり、数々の放言をして周囲の顰 しゆく 蹙を買い続けた。 倉富は大正十一年一月十一日の日記に、牧野が「柳原 ( 義光 ) は他に対し、先帝に畑を 提供したるが云々と云ひたりとのことなり。全く徳義心なき様に田 5 はるる」とまて口にし たと書いている。義光も「先帝 ( 明治天皇 ) に畑を提供」とは言いも言ったりてある。こ れては右翼団体がいきり立つのも当然てある。 宮内次官の関屋貞三郎の憤懣やるかたない口吻がそのまま記されているのは、同年一二月 四日の日記てある。 とよじ 〈関屋「柳原は実に分らざる人にて気違ひなり。先日柳原より和田豊治と入江為守と ひん 223 第四章柳原白蓮騒動
伯爵も大臣も引責せよ その翌日 ( 二月六日 ) の『東京日日新聞』 ~ よ、「伯爵も大臣も引責せよ」と見出しをつ 白蓮間題て柳原義光に引責を迫る黒龍会の不穏な動きを報じた。 〈白蓮間題に付内田良平、林重俊氏等は、こは単なる市井の一風教間題てなく、 一国 倫常の根源を危うする大事だとの見解から、牧野宮相、松方内大臣等に上申する処あ ったが、五日従来の交渉顛末を発表し、一先づ手を引くことになった。 黒龍会青年部 ぞは更に同日左の決議を為し、徹底的解決を付ける決心て、実行方法としては貴戚の かど 体面を冒漬した廉て柳原伯の引責自決を促す外、宮内、内務、文部、司法各大臣に 夫々引責を迫ることを決した。 とくそう 柳原燁子漬操事件は、皇民の性情を一にせる倫常を破壊し、徳教の基礎を危くする こうじようふせ ものなるを以って、吾人は同憂の士と共に徹底的の解決を遂げ、綱常を扶施せんこと を期す〉 記事には内田良平の談話も載っている。「燁子を柳原家から離籍することは、狂婦を野 に放つようなもの」という内田の発言に、新しき女を見る国家主義者の苛立ちが見て取れ 230
前にも少しふれたが、大正十年代は皇室最大の危機の時期にあたっており、倉富は宮中 詳しくは後て述べるが、この頃倉富は毎日の 改革の仕事に忙殺される日々を送っていた ; 0 ように摂政制度導入や宮中改革に関する秘密会に出席している そんな重大な密命を帯びていたにもかかわらず、倉富日記に皇族や華族にまつわるスキ ャンダルやゴシップの噂話が満載される結果となったのは、ひとえに倉富の旺盛な好奇心 ゆえてある。 大正十年十二月八日の日記から見ていこう。この日、倉富は柳原燁子 ( 白蓮 ) の異母兄 の柳原義光 ( 伯爵て貴族院議員 ) の責任問題について宮内大臣の牧野伸顕と話し合いをもっ ていた この頃、宮中は後述する柳原白蓮のスキャンダル事件て大揺れに揺れていた よしひさ その途中、徳川慶久の話題が出た。徳川慶久は第十五代将軍徳川慶喜の七男てある。 〈牧野「徳川の家庭に関することを聞き居るや」 予「何も聞く所なし。但、徳川より庶子出生届を出したるは妙なことなりと思ひ居 るのみ」 牧野「徳川が赤十字社の用務を帯び、洋行して帰りたる頃よりのことなりとか云ふ ことなり。夫婦の間調和を欠き、慶久は其の為極度の神経衰弱を病み居るとのことな 徳川の不在中夫人が待合に入りたることあり、又芝居観に行きたることありとか 0 あきこ 177 第四章柳原臼蓮騒動