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検索対象: 枢密院議長の日記
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1. 枢密院議長の日記

と海軍軍令部て兵力量決定のルール作りをするための軍事参議官会議を開いた。 れもうまくいかず加藤寛治軍令部長は、別件の上奏中に突然辞表を提出、内閣弾劾をはじ めた。加藤が退出すると天皇は直ちに財部彪海軍大臣を呼び、「話の筋が違う。加藤の進 退は大臣に一任する」と上奏書を下げ渡した。加藤は犬死したわけてある。 しかし加藤のこの行動は、かえって海軍大臣の横暴を許すなという声になり、陸海軍軍 事参議官会議が開かれることになった。そこて合意されたのは「海軍兵力に関しては海軍 大臣海軍軍令部長間に意見一致しあるべきこと」てあり、これは天皇の裁可を受けた。こ れは軍部大臣を拘束するとともに、軍令部長が兵力量決定の主導権を握る可能性を秘めて こうした軍部の動きに対して枢密院はどのような態度をとっていたのてあろうか。倉富 を始めとする枢密院議長団 ( 倉富議長・平沼副議長・二上書記官長 ) らは、回訓の根拠が不当 てあると考えていた。冒頭に挙げた三原則は軍事参議官会議の議を経たものてあり、回訓 いかにも枢密院ら は正しい手続きを踏んていないから法的に無効てあるというのてある。 しい言い方てある。もちろん倉富らにも言い分がある。軍事に関係のない枢密院として は、軍事参議院に頼らざるを得ないのてある。したがって条約批准の最終決定をする枢密 院にとって軍事参議院、ひいては軍部の判断は決定的影響力を持っていた。「乞骸始末」 419 解説「倉富勇三郎日記」によせて

2. 枢密院議長の日記

る 水艦は現有量を大きく減じられるなど、日本にと いくものてはなかった。 って必すしも満足 右 だが、半年前に成立したばかりの浜口内閣は軍 郎 次 縮会議の決裂を避けるため、この線て妥協するこ 槻 とを決めた。後に首相となる海軍の岡田啓介 る らもこれに同意した。 ひろはる 社 一方、海軍軍令部長の加藤寛治は、政府が兵力 調 の決定に関与するのは統帥権の干犯にあたるおそ 条毎 れありとして、妥協案に反対する一派の急先鋒と 海彪 なり、日本海軍の象徴的存在の東郷平八郎もこれ に同調した。 ロの 加藤はこの年の四月一日、浜口が条約妥結の上 奏をする前に、絶対反対の上奏をしようと願い出て、侍従長だった鈴木貫太郎に制止され ている。翌二日、加藤は折れて、政府の意見どおり穏便な意見を上奏したが、これが上奏 阻止事件として大間題となった。加藤はその後、ふたたび条約に反対の意見を表明、海軍 省と軍令部が割れての統帥権干犯騒動となった。 370

3. 枢密院議長の日記

なわち ( 一 ) 交渉に際して現有量は昭和六年段階の時点を標準とし、総括的に対米七割を 確保する、 ( 一 l) 大型巡洋艦は特に対米七割を保有する、 (lll) 潜水艦も同時点の現有量を 確保する、ということて合意していた しかし会議においてこうした要求が受け入れられるかどうかは危ぶまれていた。 実際に 会議が始まると日本の要求実現は無理てあることが分かった。全権団は昭和五年三月、総 括七割の線て妥協する以外にないと判断、本国政府に請訓電報を送った。この請訓にど 対応するのか、海軍部内の強硬派と穏健派とて意見が対立した。政府は穏健派に協力を求 め、天皇の裁可を得て、請訓通りという回訓を全権団に送った。四月一日のことてある。 加藤寛治海軍軍令部長は翌四月二日、内心の反対を押し隠して内閣の意思に蓊った上奏を 行い、四月二十二日条約は調印された。 この事件を機にロンドン軍縮問題は政治問題化する。それは、浜口内閣が統帥権の輔翼 機関てある軍令部長の合意を得ないまま回訓を発したのは統帥権干犯てはないか、という 海軍強硬派を中心とする攻撃てあった。四月一一十一日に始まった第五十八回帝国議会は与 党の民政党が絶対多数を占めており、内閣は統帥権干犯間題に高姿勢て臨んだ。 一方、海軍強硬派は、対抗上奏に頼らず軍縮条約を阻止する手段を模索し始めた。はじ め彼らは統帥大権の範囲を確定せよという要求を出したが、これは失敗に終わり、海軍省 418

4. 枢密院議長の日記

る後、殆んど二年を経て始めて副議長より議長に進むことを得たり〉 ・一一六事件ぞ岡田同様危うく難を逃れた最後の元老の西園寺は、ロンドン軍縮条約間 題ては、老獪に根回しを謀って条約批准に導いた陰の黒幕だった。また二・二六事件当時 侍従長だった海軍出身の鈴木貫太郎は、ロンドン条約批准反対の直訴をするため昭和天皇 への上奏を企てた海軍軍令部長の加藤寛治の動きを事前に察知し、侍従長としてこれを事 実上阻止して条約締結に大きく道を開いた最大の功労者だった。 ロンドン条約批准を裏て画策した要人たちへの倉富の怨みはすさまじく、岡田も西園寺 も鈴木も二・二六事件て残念ながら死をまぬがれたといわんばかりてある。 倉富の故郷久留米ての田園生活は、表面的には俗界を離れて仙境に入ったかにみえる。 だが、その心中は晩節を汚してしまった自分への呵責と、自分の憂国の赤心を抹殺した男 たちへの怨念が、激しく渦巻いていた 389 第七章ロンドン海軍条約

5. 枢密院議長の日記

令部長 ( 加藤寛治 ) の意見は一致しているのか、と痛いところを突、 したこれに対して浜 ロは次のように答えた。 「若槻 ( 礼次郎 ) 全権委員より請訓があったとき、加藤軍令部長に会って意見を聴取した かつのしん ところ、それには同意しがたいという意見だった。その後、岡田啓介氏、山梨勝之進氏、 加藤軍令部長の三人を呼び、事態の推移を説明して、基本的には批准案て行くつもりだと 一一一口うと、岡田氏は内閣がそう決したなら仕方がないと答えた。加藤軍令部長もその場に同 席して異論を差し挟まなかったのだから、協義したのも同様て十分同意したものと思う」 ここに登場する山梨勝之進は、海軍省人事局長、海軍次官などを歴任し、予備役編入後 は昭和天皇の信頼が厚かったため、皇太子明仁 ( 現・天皇 ) の教育係を任された。 政府の軍縮案を一貫して批判してきた河合元参謀総長が、この浜口の説明に噛みつい 「いまの説明ては岡田参議官を呼んだと言うが、なぜ呼んだのか」 浜口も負けず、「岡田氏は海軍の先輩て条約問題についても熱心に取り組んてきた。こ の間題に関連して統帥権干犯云々という向きもあるようだが、誠に遺感てある」とやり返 した。これに大日本帝国憲法の起草に関わった金子堅太郎が異議を申し立てた。 「失礼ながら、浜口くんは憲法の基本精神の何たるかを知らない。統帥権について規定し 376

6. 枢密院議長の日記

巳代治 ( 伯爵 ) が選出された。委員には、やはり大日本帝国憲法の起草に関わった金子堅 太郎 ( 子爵 ) 、白虎隊の隊士から東大総長になった山川健次郎 ( 男爵 ) 、元文部大臣の久保田 みさお 譲 ( 同 ) 、元参謀総長の河合操、倉富の長男鈞の岳父てある荒井賢太郎ら八人が選ばれた 浜口くんは憲法を知らない 第一回の審査委員会が開かれたのは、八月十八日だった。審査委員以外てこの会議に出 席したのは、枢密院議長の倉富、同副議長の平沼騏一郎、同書記官長の一一上兵治、同書記 ーてあって、委員会 オオこの五人はいわばオプサー 官の堀江季雄、武藤盛雄の五人ごっこ。 の審議には加わらない。 枢密院議長てある倉富も伊東巳代治からの質問がない限り発言す ることはなかった。 この日の会議て議題にのばったのは、奉答書の提出間題だった。委員長の伊東は、さし たたか一兀 あたり奉答書問題にはふれずに審査を進めたいと、現実派らしい意見を述べ ' と旧軍人らしい正論を述べ 陸軍参謀総長の河合が奉答書問題を避けるわけにはいかない、 て食い下がったため、伊東もこれを認めざるを得なかった。 九月一日の第五回目の会議ては、面白い場面が見られた。荒井賢太郎は、第二回の委員 会から出席している総理大臣の浜口雄幸に向い、海軍大臣を事務管理する首相と、海軍軍 375 第七章ロンドン海軍条約

7. 枢密院議長の日記

第七章ロンドン海軍条約ー・枢密院議長の栄光と無念

8. 枢密院議長の日記

小原が来訪する連絡だと思い、平沼と小原の訪問が同時刻になるだろうと勝手に田 5 い込ん ところが、電話をとった女中が取り次いて一一一口うには、小原が狭心症て今日の午後四時三 十分頃死んだという。 驚いた倉富が電話をかわったが、女中の話に間違いはなかった。本 来ならすぐ弔間に駆けつけなければならないところだが、平沼との約束があるのて、この 日の弔間は見合わせることにした。すると、今度は平沼騏一郎から電話がかかってきた。 〈平沼「今日の出来事は聞きたりや」 予「何も聞かず」 平沼「然るか。今日、海軍軍人と陸軍軍人とは聨合して犬養毅を襲撃、犬養は重傷 を負ひ、血を咯き、牧野伸顕も襲撃せられ、是も重傷を負ひ、其外警視庁にも爆弾を 投げ込み、新聞記者が即死し、日本銀行も襲撃したりとのことなり。此事は自分の処 には警察署より報告し、其外若干人より報告し来り、詳細は分らざるも大体間違ひな き様なり」 予「然るか。夫れは大変なり。今タは君は来るとのことなりしが、矢張り来るや」 平沼「往訪すべし。一一上〔兵治〕にも自分が議長の処に行く故、一一上も往く様告げ 置きたり」〉 355 第七章ロンドン海軍条約

9. 枢密院議長の日記

ふたがみひょうじ 結ぶべきか」という倉富に対し、倉富を訪ねてきた枢密院書記官長の二上兵治が、「伊藤 ( 博文 ) 、山県 ( 有朋 ) 等が在るときは整然たるものにて : : : 」と答える、古老の回顧談めい たやりとりか言されているくらいのものて、緊張感はまったくない。 あきひと こ一丁、さ帳 昭和八年十二月二十三日の皇太子明仁 ( 現・天皇 ) 誕生に際しても、「大宮御所 ( 彳 簿に署名して親王殿下御降誕を奉賀」という、 一般参賀客の記帳並みの祝辞が見えるだけ てある。 翌日の日記に書かれているのも、皇室にやっと生まれた男児を慶祝する記述てはない。 こくぶさんがい この日、倉富を訪ねてきたのは宮中顧間官の国分三亥てある。 その国分三亥と、森鵰外に目をかけられて昭和の元号の起草に関わり、皇太子明仁の名 前を命名した宮内省図書寮の吉田増蔵に関する、人事がらみの他愛もない噂話が、この日 の倉富日記の大半を占めている。 そんな中て異彩を放つのが昭和五年の日記てある。ギネス級の長さを誇る倉富日記のな かて、単年度の分量てはこの年が最長記録となっている。 この年はロンドン海軍条約 ( 以下ロンドン条約 ) の調印があり、その可否が枢密院に諮詢 おさち された。倉富は枢密院議長として時の浜口雄幸内閣と鋭く対立し、一敗地にまみれてい 主に手続き論をめぐる争いたったところ る。残念ながら世論も倉富には味方しなかった。 353 第七章ロンドン海軍条約

10. 枢密院議長の日記

「内子の袿袴は今日も著附方宜しからず」と倉富が書いているのは、内子夫人の着付けが 悪いと言っているのてはない。二日前の日記に「 ( 宿舎に ) 京都理髪組合員一一人来りて内子 ったな の髪を理しかっ試に袿袴を著けしむ。技甚だ拙し」とあるように、宮内省御用達の理髪着 付け職人の手際の悪さを言っている。 のぼ 〈午後二時十分、掛員の誘導に因り紫宸殿に升る。 みちょうだい たかみくら 一一時三十分頃、両陛下出御。天皇陛下は高御座、皇后陛下は御帳台に上御。天皇陛 下より勅語を賜はり、内閣総理大臣田中義一寿詞を奏し、終りて万歳。帳の前に立ち て万歳を三唱し、諸員之に和す。両陛下入御、諸員次て退出す。田中の寿詞未だ終ら しき ざる頃より、内子、脳貧血を起し、起立に堪へざるものの如し。冷汗頻りに出づ。然 たお れども之を如何ともすること能はす。幸に仆るるに至らずして式を終はることを得た たす 。内子の隣に立ちたる井上良馨は足痺れて仆れんとす。宮内職員二人来りて之を扶 。式終りたる後、復た休所に入る。内子 尚ほ支へて終に之を扶けて去らしめたり は歩すること頗る困難なりしも、漸く休所に達することを得たり〉 弘化二 ( 一八四五 ) 年生まれの元帥海軍大将の井上良馨は、このとき八十四歳になって おり、翌年鬼籍に入った。慶応三 ( 一八六七 ) 年生まれの内子夫人は、六十二歳だった。 病弱の身の内子夫人にとって長旅の疲れと慣れない儀式への参加は、目に見えない大き 349 第七章ロンドン海軍条約