皇后陛下 - みる会図書館


検索対象: 枢密院議長の日記
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1. 枢密院議長の日記

皇居侵入事件 『原敬日記』の大正十年一月二十二日の項に、次のような記述がある。 〈皇城内に侵入したる少年の処分に付、検事の見込は長期刑を課して改悛せしむるを 可と云ふ由にて其上申書を大木法相余に示して意見を求むるに付、余は長期は不可な なるべく 可成は教戒する様ありたし、但皇后陛下有がたき御内意もありと大森大夫内話せ し由に聞けば、一応は同大夫に相談する方然るべしと云ひ置けり〉 原敬は一月二十六日の日記てもこの事件についてふれ、皇城内に侵入した少年の名を松 山吉五郎と明かした上、司法当局に改めて寛大な処分を求めている。 また、一月三十一日の日記ても、皇后陛下直々からも有難き思し召しがあったのて、不 起訴処分にすべし、という意見を述べている。 宮中に少年が侵入して一時は大騒動になりかかったが、皇后のありがたい温情て寛大な 処分になった。『原敬日記』 は、そこに力点を置いてこの事件を記している。 だが、大方の読者が知りたいのは、事件そのものについての詳しい情報てある。松山吉 五郎とはいかなる少年てあり、どんな目的て皇居に侵入したのか。たが、『原敬日記』を 、くら読んても、その点についてはわからない。 168

2. 枢密院議長の日記

小僧となっていた。何とかして学校に行きたいと思っていたが、社主はそれほど親切てな 。吉五郎は、皇后陛下は慈愛深く、病院て貧しい子どもに衣類を賜ったという新聞記事 を読み、陛下の仁慈によって修学しようと思って皇居に侵入した。 南部の長い報告はここから佳境に入る。これが一日の日記のほんの一部てあることを思 い出していたたきたい。 まるて速記録のような詳細な記録ぶりに、あらためて感動を覚え ちかづ 〈南部「初め代官町の塀を越へて構内に入り、其後も塀を越へて御寝所に近き、内塀 ほうせい を越へて飛下りたるとき大なる音響ありたる為め驚きたるが、是は正午の声なりし とムひたる由なり。既に殿内に入り居りたる処、女官に使はれ居る子供が之を見て大 に驚き、自室に駈込み其話を為したる処、女官某は其子供を叱り、男子の入るべから ざる処に男子が居りたらば何故に掛りの人へ之を告げざりしやと云ひ居りたる処、苴 室の障子を開きて伺ひたる者あり。是が即ち吉五郎にて、女官も大に驚き、小供と韭 さわ に大声を発し、子供は啼き出す如き噪ぎにて、皇后陛下其声を聞きて何事なりやとの 御尋あり。事状を言上したる処、陛下より掛の者に告げよとの御指図に依り、皇后宮 ばか 職の者に是を報じ、三十歳計りの者が之を捕へたるに、捕に就くや否、御願ひがあり とムふ故、之を間ひたる処、空腹に堪へざる故、食物を下され度と云ひたる由にて、 る 0 おおい 172

3. 枢密院議長の日記

倉富に対して仙石は秘密めかして語っている。 貴官は関係があるのてお話ししますが、去年、両陛下が葉山てご避寒中、良子女王に皇 后陛下のご機嫌伺いをさせようとしたことがあります。皇后宮大夫を通じてご都合をお伺 いしたところ、しばらく見合わせたいとのこと。私からも伺ったのてすが同様の答えてし た。さらに間い合わせたところ、大夫から「時機をみてお知らせするのて、しばらくお待 ちいたたきたい」とのことだったのて、久邇宮ては大いに安心されていますが、間題はま ご戈っているよ - フに田 5 います : これに対して倉富も「先ごろ物議をかもした原因 ( 色盲間題 ) 以外にも、皇后陛下には お考えがあるのてはないかと思うことがある」と語り、宮内大臣の中村雄次郎から聞いた 話を披露する。 倉富が「皇后陛下の御思し召しは ? 」とたずねたところ、中村は「何も聞いていない が、 ( 良子女王を ) 格別お好みにはあらせられないように拝察している」と答え、続けて皇 后が「気難しい姑ては ( 良子女王が ) 困るてしようね」というような口ぶりだったと中村は 漏らしたという。ここて貞明皇后が語った「気難しい姑 ( 原文は舅 ) 」とは、前後の文脈か らみて貞明皇后自身のことだと考えて、まず間違いない。貞明皇后と良子女王の間にはま た御成婚前だというのに、すてに穏やかならざる空気が漂っていたことがわかる。この知

4. 枢密院議長の日記

下と良子女王殿下とは円満には行かざるべく、依て女王殿下は外国の事情にも精通せ られ、之を以て陛下に対抗せらるる必要あり、其為に洋行せらるる必要あり、と云ふ 人もある由。此の如き考より洋行を主張するは誤りたることなり」 小原「夫れは宜しからず」 予「良子女王殿下は体質余り強健ならず、体重も少き由なり」 小原「先頃、女王参内のとき、皇后陛下より体重の御尋あり。女王殿下は十一一貫目 には足らす、との答をなされたる、とのことなり。実は十一貫目前後なるも、十二貫 目には足らずとの答にて済したりとのことなり」〉 良子女王の体重に関する小原談話は「良子女王はウソつきだ」と言っているのに等し 。時に貞明皇后三十九歳、良子女王一一十歳。いささか若い嫁姑が早くも火花を散らし、 第一ラウンドは良子女王がとっさの機転て切り抜けたことがわかる。 倉富日記には、事件発生前、良子女王と皇后の間に良好な関係があったことを伺わせる 記述も出てくる。以下に引用するのは、大正十一年九月十七日の記述てある。 この日は日曜日だったのて、倉富は終日在宅した。正午過ぎに、栗田の後任として久邇 こくぶさんがい 宮家の宮務監督となった国分三亥が訪ねてきた。国分が言うには、良子女王はこれまて皇

5. 枢密院議長の日記

宮中序列第四位 一行は翌七日の午後一一時すぎに京都駅に到着した。 新天皇が京都御所・皇霊殿に奉告の儀を行った十一月十日の日記からは、この国家あげ ての最大の行事に英雄・東郷平八郎に次ぐ席を占めた倉富の感慨がにじみ出ている。唯一 そ、つこ、つ 気になるのは、隣に座る糟糠の妻、内子夫人の体調と、そうてなくとも病弱な内子夫人を 苦しめた着付け問題だった。 〈午前五時頃より起床し、内子、六時頃より髪を理し、袿袴を著く。内子は朝飯を喫 せず。予と内子と共に御所の乾門を入り、第一朝集所、第一休所に入り、第一席は東 郷平八郎にて第二席は田中義一なるも田中は他の公務あり、休所に入らざるを以て予 よしか は東郷の次席に就き、内子之に次ぎ、井上良馨以下之に次ぎて著床す。九時五分より あくしゃ 掛員の誘導に依り賢所前の右方幄舎に入り、順に従ひて著床す。九時四十五分、天皇 たいア 陛下、皇后陛下出御。御拝の儀あり。十一時後、式終り、一同退下して復た休所に入 る。十二時頃、休所にて弁当を給せらる。内子は之を喫せず。内子の袿袴は今日も著 附方宜しからす〉 348

6. 枢密院議長の日記

后陛下に六回拝謁したという 〈国分「良子女王は ( 以前 ) 王殿下 ( 久邇宮 ) 又は妃殿下と共に皇后陛下に謁せられた ることもあり、一人にて謁せられたることもありたるが、一人にて謁せられたるとき すみのみや は最も陛下の御機嫌宜しく、澄宮殿下が傍にあらせられたるに対し、『是は〔アナ タ〕の姉さんなり』と云はれ、腕輪を取り出し、『是は昭憲皇太后より賜はりたるも のなるが、之を贈る』と云ひて、賜はりたる程なりし由」 予「其時は勿論、問題の起らざりしときなる故、事情が異なるべし」 わだか 国分「今日にても、尚ほ多少蟠まりがあるには非ざるべきや。是は懸念のことな 澄宮はのちの三笠宮てある。倉富が「間題の起らざりしとき」というからには大正九年 夏前と思われるのて、母親に「この人があなたのお姉さんになるのよ」と言われたこのと き、證宮はまだ満五歳にもなっていない 宮内省の横暴不逞 宮中某重大事件て私が最も興味をひかれるのは、久邇宮家とその支援勢力が婚約を押し 進めるためにとっこ、 露骨な策動てある。 59 第一章宮中某重大事件

7. 枢密院議長の日記

る。この日、倉富の井戸端会議の相手をつとめているのは、宮内省参事官の南部光臣てあ る 良子女王に関する話題は、南部がこんな話をするところから始まる。 〈南部「摂政殿下に近侍する人々が無闇に殿下に新しくすることのみを勧め、威厳を 損ずる様に為し居る様なり。東洋の君主らしく御輔導申し上ぐることを考へ居る人は なき様なり」〉 倉富がこれに得たりやおうとばかりに答え、南部も遠慮のない意見を披瀝した。 〈予「其事は予も同感なり。此頃にては大分軽々しく御成りなされたる様に田 5 はる。 是は他のことなるが、先日、良子女王殿下の将来の御教育方針に付協議したるが、結 など 局、御世辞 ( 事 ) の稽古をなさるること第一の目的となりたり。 皇太子殿下抔はどち らと云へば御気が附かれず、大様にあらせらるる方が宜しと思ふ」 南部「良子女王殿下と云へば、今日は最早彼此云ふべき時に非ざれども、色盲の懸 念の外、御体質も十分ならざる様なり。今の皇后陛下選定のとき、伏見宮の女王に決 し居りたらば、今日の如く四人の皇子の御繁昌は見ること出来ざりしならん。良子女 王の御体格にてはむ細し。久邇宮妃の体格が悪しきなり」 やや 予「良子女王の体重は十一貫目前後にて、動もすれば十一貫目以下になるとのこと

8. 枢密院議長の日記

て、南部情報の「実業之日本社の小僧」は誤りと思われる。ただし、皇居内ての吉五郎に ついての新聞の記述は曖昧な伝聞に頼っており、南部情報の生々しさには到底及ばない。 「怪少年宮城に闖入」という見出しに合わせた『東京朝日新聞』の講談調の怪しげな記事 を引用しておこう。 〈一説に依れば吉五郎は食パン一週間分を携へ、某工事に従事中の土工に紛れ込んて 宮中に忍び込み、昼は御苑内の樹木の闇に身を潜め、或は樹々の枝に上って発見され ぬゃう努め居たが、女官に発見され終に逮捕されたものてあるが、吉五郎は逮捕され た時、前記の食パンを容れた風呂敷包を後に背負って居たとも伝へられて居る〉 朝日の記事には、後述する華族スキャンダルに関連して倉富日記に登場する警視庁刑事 課長の正カ松太郎が事件の取り調べにあたった、皇居に侵入したのは無邪気な美少年だっ たとも書かれていて思わす目がとまった。 だが、それ以上に興味をそそられたのは、皇居侵入少年は一週間分の食パンを背負い 昼は木の下陰に身をひそめていたという記述てある。少年を夜陰に乗じて皇居の小暗い ましら ぬえ 木々の間を飛び回る怪しい猿か、宮中に厄災をもたらす不吉な鵺扱いしたこの報じ方は、 明らかに読者の俗情に阿って、立川文庫さながらてある。 皇后陛下の仁慈にすがって奨学金の恩賜にあずかろうとした出版社の小僧を内務省管轄 おもね 174

9. 枢密院議長の日記

ここには、後に頻出することになる〃倉富イディオムみか早くも見受けられる 倉富が漢文調ぞ書いている後段の内容を少し噛み砕いて解説しておけば、宮城の西溜の 間て内務大臣の床次竹一一郎から、朝鮮総督府に勤務する水野正之丞という男が内地勤務を 望んている、内地に帰ってきたら司法省次官の鈴木喜三郎に預けるつもりなのて、君が知 っている水野という男の性格や実力を鈴木に話しておいてもらい ' : 、 と頼まれた、と、 くらのかみ だいぜんのかみ う意味てある。なお山崎四男六は内蔵頭、上野李三郎は大膳頭て、ともに宮内省の幹部て ある。 これに続く、「予、之を諾す」というおごそかな語法は、床次のその話を自分は了承し たと言っているに過ぎない。 適するものなし、空しく帰る 翌々日の一月三日の日記は、宮中の行事と倉富の細々した日常生活が、混在して書かれ ている。これも、倉富日記の大きな特徴てある。 かしこどころ げんしさい 〈午前九時より賢所前参集所に到り、元始祭に参列す。天皇陛下親祭したまはず。 ただち たん 皇后陛下親祭したまふ。十一時、拝し終はる。直に皇子御殿に至り、高松宮殿下の誕 辰を奉賀す。殿下引見したまひ、又祝酒を賜ふ。午後一時後、家に帰る。 しん 27 第一章宮中某重大事件

10. 枢密院議長の日記

あたる柳原愛子 ( 二位局 ) の苦衷を察してほしい、二位局を生母にもっ ( 大正 ) 天皇も、ま た皇后陛下も、一一位局に遠慮なきよう格別の御沙汰をなさっているのだから、よくよく進 退間題を考えていただきたい、 と諄々と諭しながら、義光に貴族院議員の辞任を暗に迫っ ている。 牧野は義光の来訪を受けた大正十一年一月十二日の日記のなかて、「義光伯に辞任を直 接迫れなかったのは、宮内大臣としてそれを一一一口うときは懲戒の意味を帯びるからだ」と述 べたあと、自分の心中を占めていたのは、要するに次の二点だったと続けている。 かるがるしく 〈第一、今日は人心の動揺甚だしく徳義観念衰退顕著、此の際帝室の事も軽々敷新聞 紙上及世人の論議するところとなる ( 殿下御外遊、御結婚問題等の事を例証す ) 、其 都度皇室の威厳を損ずるは我々適切に感得するところにして、帝室、国家の為め実に かくのごとき 慨歎極まる次第なり。自分の職責としては如此問題の発生を防止し、其原因となる さだめ べき事故を除くにありと信ず。此れは定て貴下 ( 義光 ) も御同感の事と信ず。 第二は二位の局の事なり。本件に付ては深く御焦心の御様子にて為めに一時は参内 も御遠慮の事ありしも、奧より御注意もあり後には参内ありしと云ふも、今後の成行 さしひか 如何によりては更に顧みらるところありて差扣へらる、事となるべく、兼て皇后宮に しかる は御間柄を深く慮ばからせ、特に目を掛けて厚く御侍遇あり。然に今後の成行により 222