西園寺 - みる会図書館


検索対象: 枢密院議長の日記
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1. 枢密院議長の日記

高齢の上、政治センスは皆無に等しかった。東郷さんが平時にロ出しするとろくなことが 起きない。 これが、海軍良識派の共通の認識だった。 しかし、西園寺は倉富が推挙した人物をあげつらうほど思かてはなかったし、倉富の提 さだなる 案に乗るほど単純てもなかった。西園寺はし , : : オナカに、「先年、 ( 伏見宮 ) 貞愛親王殿下が 内大臣府にご勤務なされたこともあった」というあたりさわりのない話題を持ち出して、 倉富の熱弁を巧みにきりあげさせている。 この日の日記を読むと、この答えにすっかり気をよくした倉富の様子がよくわかる。倉 富が西園寺邸を辞去する場面は、「長時間妨げたり。 何か聞くべきことはなきや」とい - フ 倉富の御下間に対し、西園寺が「大いに参考となりたり」と、どちらが元老かわからない やりとりて終わっている。 西園寺は倉富より五歳年上ながら、辞を低くして倉富を体よく追い払ったのてある。 西園寺公望の側近だった原田熊雄がまとめた『西園寺公と政局』のなかに、五・一五事 件後、駿河台の西園寺邸を訪問した政官界の実力者の名前が載っている。 、」れきょ 五月一一十日の来訪者には、確かに、高橋是清臨時総理、牧野伸顕内大臣と並んて倉富勇 三郎枢密院議長の名前があがっている。しかし、その記述は、その後西園寺を訪ねてきた 若槻礼次郎兀総理などとのやりとりに 比べ、実にそっけよい。 362

2. 枢密院議長の日記

倉富は西園寺の秩父宮批判に同感し、「近ごろ新聞などがしきりに平民主義とか何とか 書き立てるのて、殿下方もいくぶん影響されている嫌いがある。私は同じ皇族ぞも秩父宮 殿下などは決して一技一能に達せらるる必要はなく、人に上たる徳望さえお備えになれば それてよいと思う」と答えている それに比べて、と倉富は続けた。 「王世子は実に立派な人だ。軍隊て年少の尉官の中にありながら、その悪習にも染まって いないのは賞賛すべきことてはないか」 西園寺は「その通りてす。世子は謙遜しながらも威を失わない態度がおありてす」と応 じ、倉富が「宮内大臣が最初に世子に感心したのは、英国皇太子殿下が来日されたとき、 東京駅て大変な混雑の中て人ごみをかきわけ、大臣に 丁重な挨拶をなされたことだったそうだ」と世子のエ ピソードを披露すると、西園寺はふたたび秩父宮批判 をむし返した。 〈西園寺「秩父宮殿下は県庁の警察長か知事が わざわざ 態々電車に来りても、来なくてもよきものと云ふ 様なる体度を現はさるる故甚だ宜しからす。其点 秩父宮雍仁 189 第四章柳原白蓮騒動

3. 枢密院議長の日記

五月二十日もにしい一日だった。早朝の六時前に、近所に住む長男の嫁の藤子が飛び込 んてきた。 今日は次男の英郎の学習院 ( 初等科 ) の遠足会があり、同級生に電話連絡しなければな りません。ところが、家の電話はお隣の毛利さんの家の電話と共用になっているため、使 えないて困っています。すみませんが、電話を貸していただけませんか、という緊急の頼 みごしごっこ。 この部分を読んて、さすが子どもを学習院に通わせている家は違うなと、妙なところに 感心させられた。昭和七年当時、学習院に子どもを通わせている家には全部電話が引か れ、同級生全員に電話連絡がとれたのてある。 倉富はそのあと、午前九時四十五分に駿河台の西園寺邸に西園寺公望を訪ねている。前 日に約束があったのて、すぐに応接室に通されると、すてに西園寺が座って待っていた 倉富が久闊を叙し、わざわざ時間をとってもらった礼を一一一口うと、西園寺は「私もぜひ面 会したいと思っていたところだ」と席を勧めた。 挨拶もそこそこに、「多にの折てもあるのて、さっそく私の意見を述べます」と前置き して倉富一世一代の独演会がはじまった。元老に対して国家の大計を述べようというのだ から、練りに練ってきた内容だったはずてある。 3 59 第七章ロンドン海軍条約

4. 枢密院議長の日記

〈西園寺「殿下は余程難物なり。殿下は何事も一と通に出来るが余程御高慢にて人を つつ 侮らるる風あり。彼の老人が何かと云ふ様なる御体度あり。殿下は能あるも之を韜み て人に知らしめざる様になされ、夫れが自然に発露する様になれば非常に貴き宣伝な てら るも、自ら衒はるる様にては決して宜しからず」〉 なかなか手厳しい批判てある。西園寺はまた、秩父宮の行動には野卑なことも少なくな いと述べ、その原因は、年下の軍人などと一緒に暮らしたりするから、自然にその感化を 受けているようだ、と分析してみせた。後年、二・一一六事件を起こした青年将校たちと秩 父宮の関係を想起せすにはいられない貴重な証言てある。西園寺の発言はさらに続く 〈「此ことは実に大なる問題なり。大臣が病気回復したらば、此事は是非とも協議せ ざるべからずと思ふ。殿下は才気はあるも十分に研究なさるる熱心はなし。是も殿下 の短所なり。殿下のことを人が誉むれば、夫れて自分〔殿下〕は真にえらきものと思 ひ居らるる様なり」〉 西園寺が「大臣が病気回復」云々と言っているのは、宮内大臣の牧野伸顕がこの頃、体 調を崩していたからてある。これより二日前の日記には、小原駘吉の談話として、牧野は 、まは床から起き上がってい 先日嘔吐したとき胆汁まて吐き、黄疸の症状を起こしたが、し るからそ , フ心配することはないだろ , フ、と記されている 188

5. 枢密院議長の日記

〈関屋「宮内大臣より東久邇宮殿下婦人関係にて健康宜しからざるに付、帰朝せらる る様取計ふ方宜しかるべき旨、附武官より陸軍大臣へ申来り、陸軍大臣より其旨を宮 内大臣に通知したる趣にて、松平慶民に対し殿下の状況及其処置に関する見込を通知 すべき旨申遣はすべき旨、申来りたり。松平は十分呑込み居ることに付、特に申遣は す必要なしとは思ひたれども、念の為昨日電信を以て松平に其ことを申遣はし置きた 予「婦人関係にて健康勝れずとは如何なることなるべきや」 さわ 関屋「夫れは分らず。花柳病位ならば何も掻ぐ程のこともなかるべし」〉 「婦人関係にて健康勝れずとは如何なることなるべきや」。こんな珍妙な台詞を、あの村 夫子然とした顔ておごそかに言ったかと考えるだけて、思わず微笑がわいてくる。 西園寺の秩父宮批判 あつのみや 西園寺八郎は、大正天皇の第二皇子の秩父宮雍仁 ( 幼名・淳宮 ) についても苦言を呈して いる。書かれているのは、大正十二年一月十日の日記てある。 西園寺は秩父宮のスキー旅行に随行し、数日前に尸ったばかりだった。西園寺は秩父宮 の性向をはじめて身近て見聞し、その性格の狷介さを痛感して閉ロしたという。 やすひと 187 第四章柳原白蓮騒動

6. 枢密院議長の日記

売の隆盛の礎を築いた 〈午後三時後、尾崎某の所行に付、更に取調を為さしむべきことを酒巻芳男に告ぐ かたがた 酒巻「松平慶民は未だ警視庁の正カ某に面会したることなき故、旁、松平が警視庁 に行き取調を依頼することとすべしと云ひ居れり」〉 ( 大正十一年二月六日 ) 大正十一年二月二十三日の日記には、牧野伸顕の談話として、「聞く所に依れば妻は一 人にては耐へ難き故、姉との関係を喜び居るとのことなり」という、およそ宮内大臣とは 思えない品のない発一言が記されている。 婦人関係にて健康勝れず い上にしかつめらしいふだんの 皇族、華族のゴシップを書くときの倉富の筆致は、 文章とは別人のように、心から楽しげてある。それが自然に流露しているところに、誰の 目も気にせずに書かれた倉富日記の無類の価値とおかしみがある 次にあげる大正十一年十一月十七日の西園寺八郎とのやりとりは、倉富日記のなかても 出色のユーモアシーンとなっている。西園寺八郎は元老・西園寺公望の娘婿てある。この しゅめのかみ とき宮内省の式部職次長て、後に主馬頭などを歴任した。 〈午前十時頃、西園寺八郎来り、「東久邇宮のことを聞きたりや」と云ふ。 0 184

7. 枢密院議長の日記

くれれば、それをいい機会にこれまての考えを改めてくれるかも知れない。 そう意見を述べる仁田原に対して、倉富は次のように答えている。 〈予「頼寧君のことは、昨年中予より、或は宮内省に入る機会あるやも計り難しと云 ひたることあり。其頃は幾分其望ありたるも、其後更に消息なし。予より西園寺八郎 にても話し見る分は妨なきが、唯、頼寧を採用し呉よと云ふのみにては理由乏し。実 は不利益の事ながら、今日の儘に放任し置きては、或は本人が進退を誤る恐ある故、 たし 之を拘束する為責任を有せしむることと為し度。右の意を以て話し見るより外なから ん。右の如き趣意にて話しても宜しかるべきや」 仁田原「夫れより外に話す工夫なかるべし。然らば機会を以て、其話を為し見呉 よ」〉 倉富は翌日、頼寧の宮内省入りを進めるため、さっそく西園寺八郎に会い、仁田原との 打ち合わせ通り、「今のままては頼寧が傷物になってしまう恐れがあるのて、何とか採用 する手はないものか」と申し出た。西園寺の答えは頼寧が置かれた状況を正確に語ってい る 〈西園寺「精しくは本人を知らざるも、御即位式の時有馬が典儀官と為り、其時より おいおい 相当の人と思ひ居り、是造も追々有馬の話も出てたるも、本人は社会事業に力を尽く 0 319 第六章有馬伯爵家の困った人びと

8. 枢密院議長の日記

内大臣は天皇を輔弼し、助言する宮中最高の重職てある。倉富のこの提言に対し、西園 寺の答えはさすがに老獪てある。 、、。、、・ごろ , フと田 5 ったこと↓もあ一る」、、。、 オカそ - フすると内閣 「実は自分も内大臣として東郷カ ( ( ナ いちいち一 = ロい訳しなければならないとい , フ 更迭のときなど、東郷に傷がっかないように 反対意見があったのだ」 如才なく相槌を打ってはいるが、慕末に生まれ、明治、大正、昭和という激動の時代を くくり抜け、最後の元老として、大正、昭和の二人の天皇を輔弼した西園寺は、内大臣候 補に閑院宮載仁親王と東郷平八郎の二人をあげた倉富の時代錯誤ぶりにあきれ返ったに違 閑院宮載仁親王の参謀総長は、いわばお飾りのポス トに過ぎなかった。昭和十一年の二・二六事件の発生 時には、最高責任者の一人ぞありながら療養中て、一一 十八日になって上京したが何の役にも立たず、事件後 は秩父宮から辞職を迫られた人物てある。 望 公 日露戦争の日本海海戦てロシアのバルチック艦隊を 寺 西撃滅して軍神となった東郷平八郎は、八十六歳と ほひっ 361 第七章ロンドン海軍条約

9. 枢密院議長の日記

おきっ 〈かねて倉富氏からは、 ( 私邸のある ) 興津の方へ「ぜひお目にか、りたい」との伝一言 があったが、いろ /. 、の都合て延び / ( 、になって遂に今日に及んだわけだった〉 倉富に関する記述は、たったこれだけてある。 せつかく倉富が長広舌の熱弁をふるったのに、西園寺側の受けとめ方は、この程度だっ たのてある。 その後の安 この日の日記の筆致が高揚しているのは、久しぶりに新聞記者に囲まれたせいもあった かも知れない。倉富が西園寺邸に入るときも、去るときも、二十人ほどの新聞記者に囲ま ・ナ、なかなか倉富を車に乗せてくれない。倉富は れている。記者たちは写真を撮りつつ。 「まだ撮るのか」と微苦笑し、その瞬間を撮った写真が新聞に掲載された。数日後、「国家 の重大なる時期に笑ひたるは如何なる考なりや」という非難の手紙が枢密院に送られてき たという。この記述から、少なくとも五月一一十日の長大な日記は、倉富が後日まとめて書 いたものてあることかわかる 西園寺邸から自宅に戻った午後、倉富は久しぶりに有馬家家令の有馬秀雄の訪問を受け た。ここて珍しく安の話題が出てくる。倉富が書生がわりに使っていた甥の安が一時帰郷 363 第七章ロンドン海軍条約

10. 枢密院議長の日記

の倉富日記を丹念に読み返してみたが、そこにもこの噂は一行も書かれていなかった。 倉富は宮中に置かれたテープレコーダーのような男てある。もしこの噂が宮内省内部て 囁かれていれば、微に入り細をうがって必ず書きとめたはずてある。倉富は不敬にあたる 情報だからといって日記に書きとめないような不公平な男てはなかった。 この噂に興味を持つ者のなかには、大助を異常者扱いするため為政者側があえて流した のてはないかとのうがった見方もあるようだが、われわれが倉富日記を読んだ限りていえ ば、為政者側がこの噂を故意に流布した気配はない。 これ以外の範囲てこの導に言及している可能性もなくはないのて断定はてきないが、こ の不敬のルーマーは、やはり皇室に反感を持っ無責任な野次馬が面白おかしく流した根も 葉もないデマにすぎなかったように田 5 われる。 必ず神罰あるべし 昭和天皇に関する記述て真実驚かされるのは、昭和三年十月一一十日の日記ぞある。 この日の九時三十分過ぎ、倉富は元老の西園寺公望を訪間した。目的は特になく強いて いえば、当時、体調のすぐれなかった西園寺を訪ねて「久闊を叙す」ためだった。 倉富は西園寺の体調について尋ねたあと、例によってとりとめのない会話を始める。 342