日記に生啀を捧げた男 「ミラノの人、書いオ 恋した、生きた」 スタンダールの墓碑銘には、そう記されている。 これになぞらえて言えば、ゴッホが誕生し、ペ リーが浦賀に来航した嘉永六 ( 一八五一一 I) 年、久留米藩の漢学者の家に生まれ、明治、大正、昭和の時代を生きて、戦後の昭和一一十 三 ( 一九四八 ) 年に数えて九十六年の生涯を閉じた倉富勇三郎の墓碑銘は、さしずめこう なる。 、書い 、書いオ 「久留米の人、書い 倉富は東大法学部の前身の司法省法学校速成科を卒業後、東京控訴院検事長、朝鮮総督 そうちつりよう りおうせいし 府司法部長官、貴族院勅選議員、帝室会計審査局長官、宗秩寮総裁事務取扱、李王世子顧 間、枢密院議長などの要職を歴任した。 帝室会計審査局は宮内省の会計監査を司る外局、宗秩寮は皇族・華族に関する事務を担 当する宮内省の内局てある。また、李王世子顧問とは皇族や華族の事務全般を司る日本の ぎん 宮内省にあてはめれば、李氏朝鮮最後の皇太子の垠殿下を補佐する東宮大夫的立場に相当 する。 0 0
ず。牧野の家よりは宮内省総務課 ( こ電話する」とに酒巻が約し居りたる趣にて、酒巻 は総務課に行き、牧野の家より電話来りたる否を問ふ。既にして返り来り、「電話 ま 未だ来らず」と云ふ。予、今一度牧野の家に一話すべきことを酒巻に命す。酒巻復た 総務課 ( , こ行き、電話の来りたるや否を問ひ、一話来らざることを確め、復た牧野の家 に電話す。牧野の家人、「出先に電話したれ、、も牧野は未だ行かざる趣に付、牧野が 先方に達したらば早速問合せて返答すべし」云ひたる由を伝へ、且、牧野の出先は すなわ 新喜楽に相違なき趣なることを報す。予、乃酒巻をして新喜楽に電話し、牧野が往 き居るや否を間はしむ。酒巻、新喜楽に電話しこるも、牧野は未だ来り居らずと云ひ、 且、今タの来会時刻は午後六時三十分なりと一ひたる由を報す。時に六時頃なり。 予乃ち酒巻に「予は是より家に帰るべし。君、牧野が新喜楽に行きたる後、予が明 朝八時頃、牧野の私宅を訪ふべきに付、差支なきや否を問ひ、其返事を予が家に電話 し呉よ」と云ひ、宮内省の自動車に乗りて家に帰る〉 そう言い置いて、倉富は赤坂の家にひとます帰ると、七時に酒巻から電話がかかってき 酒巻が一一一一口うには、「新喜楽に電話したところ大臣の秘書が出て、明朝大臣の家に行かれ てもよいか、今夜こちらに来られるほうが便利てはないかと言っています。どうされます 67 第一章宮中某重大事件
今日五六十年前の事を話したらば、大概な人は之れを一笑に付し去るべき事のみて あらうと思ふ。然しながら貴社は私のやうな老人に対して、其話しを求めらる、以上 は、其辺の事は勿論承知せられて居ることてあらう。又他の一方より考へれば、大多 数の人が一笑に付し去る如き事てある丈け、其極少数の人の為には、或は多少の参考 になる事もあらんかと田 5 はる。依って私は是れまて誰れにも話したることはなきも、 貴社の望みに任せ、少しばかり話して見ることに致さう〉 年寄り特有のまどろっこしい言い回しや、時代がかった物言いが随所に出てきて閉口さ せられるところが多々ある文章てある。それはそれて、倉富ならてはの一点一画たりとも ゆるかせにてきなしー 、吽格や、それ故にとばけた味わいを釀し出す薬味となっているといえ なくもない。 胤厚の鬱屈 自分の幼少期を語る前置きだけて、もうこれだけの紙幅を費やしている。こうなると、 しゆくあ 0 原理原則に忠実なのは、倉富の宿痾だと言わざるを得ない。リ 前置きはまだ続く 〈教訓の事を話すに就ては、私等の幼年時代に於ける私の宗家の状況に就き少し話さ ねばならぬ : だ 91 第二章懊悩また懊悩
正という時代には主家思いの気風がまだ色濃く残っていたからだろう。 大正十年二月二十四日の日記を見ると、有馬家相談会どんなことが話し合われていた かがよくわかる。この日、倉富は午後四時過ぎに帰宅した。有馬家家令の橋爪慎吾が相談 会の打ち合わせにやってきたのは七時半て、橋爪が帰ったのは九時。この一時間半の話の 内容をまとめた部分だけて、日記は四百字詰め原稿用紙にして十二枚にも及んている。以 下、箇条書きにしてみよう。 〇水天宮の大正十年度予算の件。有馬家職員が水天宮の手伝いをした場合の手当減額。そ の代わり、一昨年減額した水天宮から有馬家への地代を元に戻してはどうか。水天宮が 年に一度、新聞記者を饗応することになっているが、それを継続するかどうか 〇松村雄之進が死亡したが、有馬家からの香典をどうするか。松村は有馬家にとって利害 半ばする面がある。倉富が言うには、松村が大楽源太郎を殺したことなど、有馬家の利 益になっていない。 〇有馬家の家令を名誉職としてはどうか。そうすれば相当な人物を得ることがてきる。 や、名誉職にするのはかえってまずい。その理由。 〇青山にある頼寧の住まい増築の件。むしろ麭町あたりに土地を買って新築したらどう か。頼寧夫人が麭町は方位が悪いと言っている。増築が木造の場合と鉄筋の場合の見積 だいらく 295 第六章有馬伯爵家の困った人びと
〈和服ても、洋服ても、トンと構はない。 住居の如きも、赤坂丹後町の一番地に借家 住ゐをしてゐるが、これも高々、奏任官の住居と言った程度のものて、流行を趁は てら ず、新奇を衒はず、出づるも入るも常に腕車、持ち物とても碌なものはない。 衣食住 たしな のうちの食の一事にかけては、い ささか酒を嗜むが、これとて至って少量、老が愉快 さうになるには先づ二合程度てある〉 へんぶく 酒も嗜む程度て、辺幅も飾らぬとなれば、面白みというものがまった く感じられない 」い - フ が、倉富は必ずしも真面目一辺倒の堅物てはない、 〈酒にや、酔ふと、如何にも愉快な肌合を見せる。芸者買ひなどするやうな柄ては勿 しゃちほこ 言ないカ、さればとて芸者の前に出て堅く鯱鉾ばるといふほどてもない〉 記事はこれに続けて「気宇頗る濶達て、窮屈一方の人てもなく、又政治家といふが如き 権謀もない。如何にも道理心の勝った、正義一点張りと言った人てある」と述べている。 石の如く、草の如く これらの記事を読んてわかるのは、わかりやすすぎるほどわかりやすい倉富の人格てあ る。大賢は大愚に似たりというが、修身の教科書にても出てきそうな倉富の生活からは天 才のひらめきも、特異な才能を持つ者が発するアプノーマルな底光りもまった く感じられ 109 第二章懊悩また懊悩
武臣命を愛し又銭を愛す 倉富と切っても切れないのは漢文の素養てある。倉富の孫の英郎氏によれば、倉富は毎 日のように漢詩を作り、生鹿に作った漢詩は、一一千篇にあまるのてはないかという。 英郎氏はそう言いながら、東大法学部に在学中の昭和十八 ( 一九四一一 I) 年十二月、学徒 き′」、つ 動員により海軍に入隊したとき、祖父の倉富が揮毫した歓送の色紙を見せてくれた ( ロ絵 参照 ) 。そこには、倉富の肉筆て「孫英郎徴服兵役賦示」と題する漢詩が書かれていた。 その冒頭部分を紹介しよう。 まさ 〈汝方修学在大黌汝方に学を修め大黌に在り しし 孜々研精業将成孜々として研精し業将に成らんとす こう 国家会有米英寇国家米英の寇有るに会し なげうようやく 抛巻踊躍応官徴巻を抛ち踊躍して官徴に応ず〉 文字は、日記とは打ってかわったみごとな筆運びてある。このとき、倉富が九十一歳だ ったことを田 5 えば、それ自体が驚きだった。 英郎氏は倉富が生涯に作った漢詩は二千にあまるのてはないかと言ったが、その後の調 べて、倉富が生涯に作った漢詩は七千七百六十一篇にものばることがわかった。
何となれば君の氏が倉富と云ふを以てなり」 予、為めに倉富と称する所以を説日 月し、「予の富は此の如く憐むべきの富なり」と 云ふ。世子も之を聞きて笑ひ居れり。 韓又「先日貴家を訪ひたるに、質素なる家にて奧ゆかしく思ひたり」 たいかこうろう 予「大廈高楼を望めども能はざるなり」〉 着帯式の是非 この頃の倉富の公務上の関心はもつばら、方子妃の着帯式の服装問題と、将来生まれる 世子の子の敬称をどうするかにあった。 こんなことを聞いている ( 大正十年六月八日 ) 。 倉富は李王職次官の国分象太郎に 「着帯式の習農は朝鮮にはないのだから、内地の式を李王家に適用するのは穏当てない。 朝鮮人の一部には、内地人を妃にしたおかげて、世子が朝鮮人らしくなくなってしまった という声があがっている。着帯式のような些事のために彼らの感情を害するのは無益なの ぞ、着帯式のとき、李王 ( 純宗 ) より世子や妃にお祝いの品を贈られるかどうかは李王家 の意向に任せたほうがよいと、 たたいま高と話していたところだ。君の考えを聞きた 135 第三章朝鮮王族の事件簿
用人を選ばなければならないし、エ期の制限もあるのて、普通の建築より非常に高価にな ってしまうのてす。高輪御所にしても、廊下一坪八百円くらいの見積もりもあります。こ れについては大臣は賛成していないようてす」 皇族は経済観念ゼロ 次に同年四月七日の日記をあげる。この日の倉富と牧野の話題は伏見宮家の邸について だった。倉富の長広舌をますはかいつまんぞ紹介しておこう。 中村雄次郎の宮内大臣在任中、伏見宮の別当から博義王の住まいについて相談があっ 博義王は華項宮 ( 博義王の実弟、博忠王が華項宮を継いだ ) と同居されているが、華項宮も 成年に近くなられ、博義王の地位も高いのて同居てはすまないのて検討してほしいとのこ とだった。そう言われても博義王は独立の方てはない。 皇族一人ごとに邸を賜ることは到 底てきないと考え、大臣の意向を聞いたところ、大臣にも異議はなかった。伏見宮附事務 官に倉富から「邸は伏見宮のほうて何とかしてほし、。 し場合によっては幾分かの補助くら いなら検討てきるかも知れないが、何とも言えない」と伝えておいた その後、建築計画がふくらんていくことになりそうだという噂が倉富の耳に届いた。事 務官を通じて、なるべく小規模にして経費の節約を図ること、公式なことは本邸を使えば 209 第四章柳原白蓮騒動
牧野「然らば栗田も武田の事に関し居るとのことなりや」 予「然るにはあらず」〉 そう答える倉富もまだ栗田の関与を完全否定する気持ちになっていたわけてはない。 もあれ、怪文書問題は結局、五千円て決着したことがわかる。現在の貨幣価値に換算すれ ばざっと千五百万円てある。 大山鳴動して鼠一匹 これを裏付ける話が、四月八日と四月十一日の日記に出てくる。 四月八日の午後一一時過ぎ、倉富は伏見宮邸て開かれた余興会場て警視総監の岡喜七郎と ゞっこり出くわしご。 岡は倉富を呼びとめ、先日の件はうまく解決した、と言った。倉富がそれは武田と来原 のことかと聞くと、岡は「そうだ」と言った。倉富はそれを、武田から来原に金を渡した 意味だと受け取った。倉富はもう少し詳しい話を聞こうと田 5 ったが、岡が去ろうとしてい たのて、そのときはせつかくの機会を逸した。 それから三日後の四月十一日の午前十時過ぎ、倉富は宗秩寮に仙石政敬を訪ねた。仙石 が前日に警視総監の岡を訪ねたと聞いていたため、そのときの模様を聞こうとしたのてあ
かって巨大なシャンデリアが吊り下げられ ていたとい , フ 窓にはステンド 天井は高く、 グラスが嵌め込まれている。階段は広く 手摺りはゆったりとしたカーフかかかって フロックコートや燕尾服を着用した貴顕 聞重臣たちが審議するにふさわしい、豪華て っ′町 日シックなっくりてある。枢密院は「 ( 大日 1 毎 6 面本帝国 ) 憲法の番人」と言われたが、そう のことはある壮麗な室内てあ 盟た言われただけ 写定る 様最 のを倉富の通勤スタイル 会当時、倉富は赤坂の丹後坂に住んぞい 本新 オ。現在の住居表示て一一一口うと、赤坂四丁目 枢の界隈てある。一ッ木通りからの裏手 104