二年後の三十五年から五銭に。当時の米が一升十三銭ぐらいというから、一通話で三合八 機先を制するためとはいえ、 勺買える。いまの十円の公衆電話料じゃ六勺の米も買えない。 代助は大へんな出費をしたことになる。友人の女房を奪う世間の常識を踏み越えようとす るかれの悲壮感が、その出費から当時の読者にはよく理解されたのであろう。 ところで、ど、つでも ) しいことであるが、わたくしは電話が大嫌いである。掛けるのも掛 おっくう けられるのも億劫である。漱石先生も嬉しいことに大嫌いであったようで、こっちの都合 もかまわずにかけてくる理不尽な電話が多いことに、カンカンに怒った。 「自分が用のある時にかけるために電話をひいたのだ」 と、家人に命じて受話器をはずしっ放しにしておいた。おかけで電話局から夏目家はき ついお叱りをうけた。このとき、漱石は天を仰いでうそぶいた、という。 主「とかく人の世は住み難いものよ」と。同感、この上もない。 の マ なお施設の当初、ほとんど効用が認められなかったということで、愉快なはなしがある。 当時、業界に君臨していた時計の天賞堂さえ、電話なんか無用の長物、と見向きもしなか ホった。知人の伊藤某が商売に有用なことを説いて「とにかく電話をひいて成績をみようじ 話 ゃないか。一年分くらいの料金はオレがもっ」と威勢のいいことをいった。主人は「面白 第 。もし一年間で電話のおかけで注文がふえたとわかったら、利益の一一割を進ぜよう」と、 145
会 覧 博 ・なぜ江戸ッ子なのか 『草枕』五章に登場する髪結床の親方は江戸ッ子である。やたらに気ッ風のよさを示そう 汽としているが、「髪剃を揮うに当って、毫も文明の法則を解しておらん」腕前であるし、 髪を洗ってくれるのは「垢の溜った十本の爪」でかきむしる、そればかりでなくどうやら 第 「酔っ払っている」。この親方の怪気炎がかなりはじめのほうにでてきて、ヒロイン那美 ニ - ロ 其方儀鉄道汽車ニ乗リ連転中小用致ス科鉄道犯罪罰例ニ依リ贖金十円申付ル」 ( 明治 六年四月十五日、東京日日新聞 ) 当時の十円といえばびつくりする金額である。要は厳罰方針をもってのぞんだわけか。 なおトイレができた明治一一十二年に、東海道本線は神戸までやっとのことで延びたこと も記しておこう。当初の所要時間一一十二時間。料金三円 ( 普通 ) 。それでも、 「今年桜の好時節には朝に墨堤の花を見て、タに杖を嵐山に曳くの雅客も多きことなるべ し。開業当日より向ふ六十日間は通常連賃の半額下等一円五十銭なりと」 ( 三月十七日・朝 野新聞 ) と『草枕』の批評的言辞と異なり、文明の有難味を絶讃している。 237
着して間もなくの、明治三十三年十一一月一一十六日づけの鏡子夫人あての手紙が、そのこと を如実に物語っている。 「当地にては金のないのと病気になるのが一番心細く候。病気は帰朝までは謝絶するつも りなれど金のなきには閉ロいたし候。日本の五十銭は当地にて殆んど十銭か二十銭位の資 けむり 格に候。十円位の金は二、三回まばたきをすると烟になり申候 いわゆる円安である。それが当時の日本の国力であった。それは三十四年になっても 変らない。 「僕の下宿などと来たら風が通る暖炉が少し破損している憐れ憫然なもの だね。こういう所に辛防しないと本などは一冊も買えないからなー。せんだって文部省へ 申報書を出した時、最後の要件という箇条の下に、学資軽少にして修学に便ならずと書い てやった」 ( 藤代禎輔あて、二月五日 ) 「色々計画あれど時と金なき為め何れもはかばかしからず、西洋人と交際などは時と金に よる事に候」 ( 立花銑三郎あて、十一月十九日 ) 漱石の留学費は一年に千八百円であった。当時の公務員の初任給六百円、国会議員の報 酬二千円 ( いずれも年額 ) 、それほど極端に低額というわけでもないであろうが、研究費・ 図書費に多額の金を必要としたから、かなり苦しかったに相違ない。 このため、芥川がさらに編集者に語ったように「ときには町で買ってきたビスケットを
よび徴兵忌避と関連して考え、つまりは外的な原因により漱石の内にうまれた「迷ひと不 安のあけくの逃亡」とみるべきではないかと、丸谷説は推断するのである。 まことに刺激的な指摘で、兄直矩の妻登世との不倫説やら、大塚楠緒子さんとの秘めた る恋説やら、これまでの ) しくつかの松山行き解明の諸説が、かなり根一兀グラグラというか、 色あせてくるの感がある。 ところで、丸谷説にそそのかされて調べてみたら、漱石の徴兵忌避は、確固たる思想的 な立場に立っての行為ではなかったようである。明治一一十二年一月に徴兵令が突然に改正 されて、「中等学校以上の在学者に徴兵猶予を認め、同時にその最大限を二十六歳まで」 と限定されることになった。帝国大学在学の漱石は当時一一十六歳、期限切れを目前にして いる。そのことに気づいた兄の直矩の配慮で、三井物産の御用商人の浅岡仁三郎に依頼、 漱石の意思とかかわりなく北海道へ送籍されたもののようなのである。 北海道は人口がきわめて希薄であったため、明治六年の徴兵令制定いらし ) 、北海道の住 民は徴兵令の埒外におかれていた。明治二十一一年の改正でも変更なし。三十三条に「本令 北海道ニ於テ函館江差福山ヲ除クノ外及沖縄県並東京府下小笠原島ニハ当分之ヲ施行セ ズとある。 このほか、丸谷さんも書いていたが、徴兵忌避の方法は全部で八つあった。そのなかに 158
は」と唸った。今まで知らなかったとは迂闊千万な話であるが、この『坊っちゃん』はそ んじよそこらにある代物ではない。全体百九十六頁の三分の二以上の余白に書き入れがあ る。それも頁によっては上下左右とも処狭しとばかりギッシリ書き込まれている。 たとえばマドンナが登場する、「あまり別嬪さんちやけれ、学校の先生方はみんなマド ンナマドンナと言ふといでるぞなもし。まだお聞きんのかなもし」「うん、マドンナです か。僕あ芸者の名かと思った」 ( 七章 ) とある原文の上には、 「遠田ト云フ歩兵大尉ガ居リ、お豊サンお捨サント云フ二人ノ娘ガアリ、二人共評判ノ美 人デアリ、教員間ニ往々噺ニ出タ。 : マドンナハお捨サンノ事ナラン ( 横 ) とあり、それにつづけて、 「当時 " 松山市色男美女番付。ト云フ一枚刷ヲ無代配布シタ篤志家ガアッタガ、遠田嬢ハ 確カ西方 ( 美女 ) ノ大関力関脇デアッタト思フ。今一人ハ判事ノ令嬢、他ハ多ク町家ノ評 え判娘デアッタ ( 弘 ) 」 ( 原文のまま、以下同じ ) め ん と書き込みが並んでいる。首をひねるまでもなく ( 横 ) とあるのが、漱石の松山中学で の同僚で、しかも大学の先輩の理学士、のちに教頭となったばかりに「赤シャツに擬せ られた横地石太郎先生とわかる。 ( 弘 ) が当の「坊っちゃん」のモデルらしい弘中又一先 第 生。 ( 書き込みは大正十一一年ごろのもの )
・その他一品料理 : : : 何軒かある ( 名不詳 ) ついでに明治三十八年に発表の『吾輩は猫である』ものぞいてみる。日露戦争前後の、 めざましい経済発展にともなう市民生活はどんなものであったか。 きび 苦沙弥邸では訪れる客に、ときに空也餅、ときに吉備団子、ときに塩せんべい、ときに ふじむ、りようかん 藤村の羊羹をだしている。藤村とは本郷にある和菓子店で、羊羹がいまも名物である。 また、となりの車屋のお神さんの大声が四隣の寂寞を破る。「ちょいと西川さん、おい 西川さんてば、用があるんだよこの人あ。牛肉を一斤すぐ持って来るんだよ 分ったかい、牛肉の堅くないところを一斤だよ」 ( 一一章 ) 。西川とは当時小石川区表町にあ った大きな牛豚肉店で、本郷東片町に支店があり、注文とり・出前をやっていたものとみ える。肉を当時は斤で数えている。 西洋料理店にいった話もある。鴨のロースか仔牛のチャップ ( 肋骨つきの肉、チョップ ) ( しカカ、とボーイにいわれて、迷亭がトチメンポーか、し 、と妙ちくりんな注文をして、 大いにポーイを困らせる。メンチボー (mince ball) ならあるが、トチメンポーの材料が払 底で、亀屋にいっても横浜の十五番にいっても買えないからと、ポーイが四苦八苦する場 面である。 ( 一一章 ) 亀屋とは、京橋区竹川町にあった西洋食料品や洋酒や煙草の直輸入卸小売店、十五番は かみ 180
とたんに凡俗な発想ながら″猫にト」 / 韵。という言葉が浮かんだのは、われながら情無い わが手にあるのは間違いなく、世界にただ一冊の『坊っちゃん』であり、大きくいえば、 漱石の想像力・創作力を知る鍵ともなり、虚構と事実の間を論ずるに好個の題材であり、 しかも当時の文化史の側面を雄弁に語る珍重すべきもの。と思えるのだが、わたくしはお よそ漱石論や漱石文学論とは縁なき衆生。せいぜい無駄ばなしを得意とするシロウト探偵 で、この一書をタネに大段平をふるうわけにはいかぬのが無念である。 しかし、本文を読み、欄外を拾いながら、酷暑の中で一陣の涼風と、大いに楽しんだ。 書中で、当時の松山中学の両先生が存分に健筆をふるっている。詮索あり、究明あり、想 い出あり、考証あり。『坊っちゃん』全篇の各エピソード。 か、何等かのタネに立脚しない ものはないの観あり、すこぶる愉快であった。バッタ事件から職員会議の事実譚、送別会 での剣舞や詩吟を、横地・弘中両先生は情熱をこめて微に入り細に入って、書きに書き人 れている。 夏目金之助先生は一一人の眼にどう映ったか。弘中坊っちゃんは述懐する。 「漱石ハ非常ニ感ジノ善イ男デアッタ。本文ニハ無イガ、子規ガ漱石ノ下宿ニ来テ煩ッテ 居タトキナド、親切ニ看護シテ友情掬ス可キ者ガアッタ。松山ニ居タ頃ハ文学博士ニナル 野心ガ勃々トシテ居タ。朝日新聞ニ入ッタ時ハ、文士ノ盛リ短キヲ思ヒ諫止スペク訪問シ
・一高の教室で イギリス留学をおえ帰国してから、明治四十年に朝日新聞に入社するまで、漱石は東大 と第一高等学校で英文学を講じていた。『我輩は猫である』『坊っちゃん』『草枕』などの 作家として、文名が大いにあがっていたときで、当時の一高生たちはわが校に漱石先生を 有することを非常な誇りとしていたようである。 生徒のびとり鶴見祐輔氏の回想によれば、漱石の英語はまことに歯ぎれのよい、江戸前 の英語であったという。その初の授業の日、スティーヴンソンの「ゼ・アイランド・ナイ 一ページほどをすらすらと読んで、突如として ト・エンターテーンメント」を教科圭日に、 やめて、作家先生は、 「どこか解らないところがあるかい」 と聞いた。生徒たちがシーンと黙っていると、 212
第 11 話生涯に三度のバンザイ さらにム四計している 「当局の権を恐れ、野次馬の高声を恐れて、当然の営業を休むとせば、表向きは如何にも 皇室に対して礼篤く情深きに似たれども、其実は皇室を恨んで不平を内に蓄うるに異なら す。 何事につけ平常心であれ、という漱石のこの言葉は、当時しつかと胸に響いた。このあ り方は、天皇および皇族にたいするあくまでも人間的な漱石の感じ方とよく似合っている。 これより少し前の、明治四十五年六月十日の日記で、漱石は書いていた 「皇室は神の集合にあらず。近づき易く親しみ易くして我等の同情に訴えて敬愛の念を得 それ らるべし。夫が一番堅固なる方法也。夫が一番長持のする方法也」 熟達した文明批評家としての漱石の、これが唯一ともいえる。 " 皇室論。である。 0 309
・八十人のなかの十五人 二十年も前、ある雑誌の編集をしていたとき、「私がもっとも影響を受けた小説」とい うアンケートを、当時の第一線作家に出したことがある。回答を寄せられた八十氏のうち、 なんらかの条件づきも含めて、漱石の作品をあけた作家が十五人。日本の近代文学史上に、 漱石文学の与えた影響の大きかったことは、この十五人がダントツであったことからも察 せられた。 その十五人の作家のうちで、小島信夫、福永武彦、阿部知一一、野上弥生子、柏原兵三、 武者小路実篤、椎名麟三氏が故人になっている。平凡な感想ながら、逝って還らざる人の 世の無常迅速を想わないわけにはいかない。 この十五氏の回答は、嗽石作品をとおして、それぞれの作風を偲ばせるものばかりであ ったが、なかでも司馬遼太郎氏の短い一文が忘れ難く 、いい機会であるからとまこと不躾 288