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検索対象: 野心のすすめ
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1. 野心のすすめ

た。その具体的な第一目標はやはり直木賞を取ること。実際に、直木賞候補になってか ら、「才能なんてこれっぽっちもない女」という悪口は少しずつ消えていったんです。 幸運にも二作目から四回連続で直木賞の候補となり、この頃には完全に、私の野心と努 力は上手く回るようになっていました。とはいえ、『ルンルン』の松川さんもそうです が、やはり編集者がついてくれたことは大きかった。編集者と〆切の存在なくしては、私 みたいな怠け者は無理。「すごい才能 ! 」とか「いずれ直木賞を取れますよ」と言ってく れたのも、物書きの孤独な作業にはたいへん励みになりましたし。だから、新人賞の応募 で、編集者もいないのに長編一千枚くらい書く人って、たいしたものだと感心します。 デビュー後しばらくして、当時は角川書店の編集者だった見城徹さん ( 現・幻冬舎代表 取締役社長 ) とも出会いました。最初、「ケンジョウさんって読むんですよね ? 」と訊い たら、「この野郎、業界で超有名なこの俺を知らないのか」って怒られた後で、こう言わ れたんです。 「三つ、君と約束しよう。ひとつめはまず、うちで連載を書こう。ふたつめは直木賞を取 ろう。それから : : : 」 三つめの約束は、「オレに偬れないでくれ」でした。 112

2. 野心のすすめ

最初に「あなたの今までの道のりを小説仕立てにしてみませんか」と言ってくれたのは講 談社の編集者です。べテランの編集者は「エッセイの一人称を三人称にして書いてみなさ い」とアドバイスしてくれました。当時は出版社もいちばん良い時代で、フグを食べに連 れて行ってもらったり、銀座のクラブで遊ばせてもらったり。ちやほやされて、ついその 気になってしまったというのが始まりでした。 『ルンルン』の時とは違って、今度は出版社のお金でホテルに缶詰になりました。ずっと 女性編集者が横にいてくれて、書かざるをえなかった。でも当初、執筆は難航しました。 当時の私は人気工ッセイストにはなっていましたが、反面で「ブスを売り物にして」と いった批判の声も大いに浴びていました。私を嫌う人々へのネタを、結局は自らのエッセ イで提供してきていることは、昔から現在に至るまで自覚しています。そうした状況にほ いやけ とほと嫌気がさしていた私は、自伝的な小説の中で、自分とはまったく違う過去を持っ が、無理な話でした。会 女、モテてモテて困る、恋多き女の遍歴を書こうとしました 話から何からすべてが空々しくなってしまうのです。 以下は、私の最初の小説『星に願いを』 ( 一九八四年 ) の主人公・キリコの独白です。 108

3. 野心のすすめ

ってきたので、私は近くの雀荘に編集者たちと避難して、麻雀をしながら発表を待ってい ました。 すると、役マン級のものすごい上がりが続くのです。その前にも十年近く麻雀をしてい ましたが、そんな見事な上がり方をしたことは一度もありません。出る手、出る手がすべ て、連続して役マン級の上がり。あまりのことに、私は恐ろしくなってきました。 何か不思議な、自分の力が及ばない大きな力が働いているのをはっきりと感じたので す。 果たして、その夜、四度目のノミネートで直木賞をいただいたわけですが、あの日、一 ジャンたく 緒に雀卓を囲んだ編集者たちも、その時の体験をとても怖かったと言います。 自分にはいま運が回ってきているなあという実感は、『ルンルン』の出版が決まった頃 からありました。そこそこ知られている程度のコピーライタ 1 が本なんて普通なら出せな かったはずなのに、糸井さんのおかげでコ。ヒーライタ 1 ブームがあり、たまたま主婦の友 社の編集者と知り合って、という、自分にとってラッキーなことが続いていました。 そもそも、最初に出した『ルンルン』が ( 単行本と文庫を合わせると ) ミリオンセラー になることだって、普通はありえません。あの頃、第二、第三の林真理子っていう人が雨 ジャンそう 65 第二章野心のモチベーション

4. 野心のすすめ

【。第第気物 たけのこ 後の筍のようにいつばい出てきましたが、 演 ・ : 自分で言うのも 共テ誰も残りませんでした。 でカ嫌らしいですが。 てマなんだか自分はついてるなあと思っている とろと、幸運とはどんどん続くもので、フジテレ ーレ タもビのキャンペーンガールに抜擢されたのも、 ラたまたま講談社の編集者の結婚披露宴に招ば キピれたことがきっかけでした。その編集者の大 一チ学時代の先輩で、当時、フジテレビの広報部 メ イヤ長だった方が私のス。ヒーチを面白がってくれ ビとて、キャンペーンガールをやってくれないか ジ年という話になったのです。 フ 、もその後も、「紅白の審査員になる」と言っ 秋と 年たら誰も本気にしなかったのに、その年の年 四末に審査員をやらせていただいたり、ふわふ

5. 野心のすすめ

誌プンプンしますね。 の O O ( 東京コピーライターズクラ ーブ ) の賞をいただいたこともありました 4 アタマは第好第〃 夢星ハイウェイー 9 料ー っ が ( 註 " 一九八一年、西友の「つくりな 期がら、つくろいながら、くつろいでい る」で新人賞受賞 ) 、当時からコピーラ 円 9 イターとしての才能は自分には無いと気 定づき始めていました。糸井さんからも 「短くパッと言うより、グジグジ一言うの がうまい」と指摘されていましたし、秋山さんも「コピーより長い文章を書いたほうがい い」とアドバイスしてくれていました。 そうして一九八一年に私は独立するわけですが、秋山さんの事務所に出入りしていて知 り合いだった主婦の友社の編集者・松川邦生さん ( 本書の冒頭に出てくる編集者です ) が、一冊も本を書いたことがない私の書籍企画を通してくださったわけです。 朝第物第 , 物物銀ま朝を MAKIYAMA 0 け 0 日 3 一 0

6. 野心のすすめ

くらい経ってしまっているそう。だから、マスコミの女性って、年を取るのがあっという 間。「この麻薬さえあれば、もう何にも要らないわー」と突っ走り続けているうちに、ふ と気がつくと五十代になっていて自分でもビックリ、ということも多いようです。 そうして、私よりちょっと上の年齢で、ついに結婚しないまま定年退職を迎えた女性っ ていつばいいるんですけど、老後がなんとなく寂しそう : : : 結婚して、家族がいる人はそ うでもないんですけど。楽しくて仕方がない世界から、一気に火が消えてしまうような感 じがします。 定年間近の知り合いの編集者に「定年後は何するの ? 」って訊いたら「何も考えてな い」と言っていましたし、テレビで昔は大活躍した女性プロデュ 1 サーとパーティーで会 ったら、「いまはすることなくて」と寂しそうでした。どこかの大学に講師として潜り込 んだり、財団なんかに入れればまた違うのでしようが。 だから、いい年になっても独身のままの女性編集者なんかには、私はいつも口を酸つば くして「結婚しなさい」と言っています。「結婚はしたいんですけど、ここ数年は仕事が 山場でちょっと : ・ : 」なんて返されると「そんなんじゃ駄目 ! 仕事同様、結婚相手も必 死で探しなさい ! 」と鬼のようにせつついてしまいます。時にはお見合いのセッティング 156

7. 野心のすすめ

たので、私だけは「こんにちはー」「こんばんはー」と挨拶していました。自分の居場所 はここではないなあという気持ちがどんどん強くなっていきました。 また我々には、テレビに出ている人に対しては平気で呼び捨てにしたり、何を言っても いいと思ってしまう傾向がありますよね。私もすごく舐められていたし、意地悪をされま した。当時は、出版社の人からさえも、だまし討ちをされたことがあります。 女の子相手の人気雑誌から、有名人がメイクをするべージに出てくれませんか、と依頼 された時のことです。私もお化粧を習いたいからいいですよ、とメイクされて写真を撮っ てもらったのですが、発売された雑誌を見てみると、私だけ別枠で「ブスの人のメイクは こうします」と書いてあったという酷い話 : : : 。頭に来て文句を言ったら、編集者とライ ターが「これは私たちの独断でやったことです。どうか編集長には言わないでください」 と小さな花束を持って謝りに来ました。もう面倒くさくなって「はいはい」と流しました が、こちらが好意的に取材を受けたのに、そういうしつべ返しに遭ったり、人間不信にな りそうな日々が続きました。 知名度を再浮上させるには べつわく

8. 野心のすすめ

忘れられない光景があります。 初めての単行本『ルンルンを買っておうちに帰ろう』 ( 一九八二年 ) が出版される少し前 のことです。 当時の私は、業界内ではまあまあ知られている程度のコピ 1 ライター。世間一般ではま だ無名の自分を抜擢してくれた編集者の依頼で、『ルンルン』の原稿を書き始めていまし た。どうせなら一流作家のようにホテルで″缶詰〃になって処女作を書きたいと、自腹で 山の上ホテルに滞在していたのです。 そんな初夏のある日、気分転換のために神田界隈を散歩していると、通りの木槿の木が 綺麗な白い花をたくさんつけていました。 咲き誇る花々に見とれながら私は確信したんです。 この花の美しさを、きっと一生覚えているに違いない。なぜなら、『ルンルン』が はじめに むくげ 3 はじめに

9. 野心のすすめ

友人同士の「タイタニック」格差 将来の自分の姿を想像することもなく、与えられた時間を意識することができない人が 増え、野心が希薄な時代となってきたことを述べてきました。 私はそこに「飢え死にはせずになんとか暮らして行ける社会」に我々が暮らしていると いう大前提があると思っています。ュニクロもあるし、コンビニで三百円のお弁当だって 売っている。最低限の暮らしであれば、どうにかこうにか手に入りそうな社会です。 さらに私は、そうした物質的なことだけではなく、いまの親の教育にも原因があるので はないかと考えています。 仕事柄、たくさんの編集者との付き合いがありますが、彼らの子育ての成否は、大きく 二分されているようです。一流大学を出た子どもが自分と同じ仕事がしたいと出版社に入 ったと嬉しそうに話す人もいる一方で、三十前後の無職の子どもを自宅に抱えている人も いたりします。 もともと優秀な人が多い彼らですから、子育ての勝者となる人もいつばいいますが、編 集者は多忙きわまりない仕事です。子どもにかまってあげられないことに負い目を感じ

10. 野心のすすめ

これには呆然として「私は面食いなので、それはありません」と否定したところ、「み んなそう言うんだけど、やつばりオレに惚れちゃうんだよなア : : 」ですって。 実際に、見城さんは当時からものすごい握力を持っている編集者で、しばらくすると、 ほとんど毎日一緒にいるようになっていました。食べたり呑んだり、次はこれを書こうと 話したり。会わない日は必ず電話していましたし、とにかくいつも一緒で、肉体関係のな い愛人のようでした : : : お互い本当に面食いなので、そういう関係にはなりえなかったん ですけど。 見城さんとはあることで大喧嘩して二十年近く仲違いしていましたが、最近また会うよ うになりました。偉くなっても、面白いところは変わらないですね。 それにしても、あの頃は本当に楽しかった。直木賞は目前でしたし。「ベストセラー出 そうね ! 直木賞ぜったい取ろうね ! 」と前へ前へと進む日々でした。 スランプーーー霧の中の十年 そして一九八六年、四度目の候補となっていた『最終便に間に合えば / 京都まで』で、 ついに直木賞を受賞することができました。 113 第三章野心の履歴書