られた。しかしそんな急造投手が一年後に、しかもビッチャーでドラフト一位に指名され、 今でもメジャーリーグで投げているのだから、当時の東北福祉大学には何か見えないすご い空気のようなものが存在したのだろうかとさえ思えてくるほどだ。 当時の誰もが今の彼らを想像できなかったと思う。私も去年までの二〇年もの長い間。フ ロで活躍できると思っていなかったというのが素直な気持ちだ。今、思えば、仙台という 一地方の大学に、後に。フロで有名になる選手たちが何人も集まっていた不思議さはたしか わざ にあるが、これもすべて伊藤監督の人徳のなせる業だったのだろう。 また選手同士も「アンチ東京」というキーワードのもとに固まっていて、チームワーク もしつかりあった。今でももちろんみんなのつきあいはあって、同級生だけでなく、上級 生とも下級生ともすごく仲が良い
小学校の入学式で、当時は病弱だった母と一緒に 六年後、小学校の卒業式で、母と一緒に
3 章フ。ロ野球という大きな壁 どで活躍した抑えのエース、大魔神・佐々木主浩さん ( 現野球解説者 ) や、連続フルイニン グ出場の世界記録をつくった鉄人・金本や今もメジャーリーグで活躍する斎藤隆などと私 は一緒に。フレーしている。そしてそれそれがまだその頃は大スターでもなんでもなかった。 「なぜ無名に近かった当時の東北福祉大学から後に世界にも名をはせるような選手が出て きたのでしよう」 私自身何度もその手の質問を受けた。たしかに思いかえせば不思議といえなくもない。 佐々木さんが投げ、私や金本が守る。そのとき、それそれがおそらく将来こうなることな どまったく想像さえしていなかったのではないだろうか。少なくとも私自身はそうだった。 というよりも。フロ野球に人ることさえ夢のまた夢ととらえていた。 当時の東北福祉大には反骨精神がメラメラしていた。 「東京のチームには絶対に負けられへん 伊藤監督はそういつも怒鳴っていた。監督が常にロにしていたその言葉はメンバ んなに伝染していた。 「おれらは、中央には絶対負けられへん」 ーのみ
実際に指名のあいさつ、「今回のドラフトで君を指名するよ」という言葉をいただいた のは、読売ジャイアンツと阪神タイガースだった。当時のドラフトは今と同様に入札制で、 逆指名や自由獲得枠などなく、各球団が指名順位ごとに希望選手を指名し、重複するとク ジを引くやり方だった。私の年のドラフト会議では亜細亜大の小池秀郎 ( 元近鉄ほか ) に 指名が殺到し、八球団の一位指名を受けている。 私の場合、もちろんそんな選手でないことは自分自身がよく知っているし、。フロになれ るんだったらどこでもという気持ちだった。 あいさつに来ていただいた二球団のどちらかに入団できれば、もう十分すぎるほど十分 だった。というよりも、それを機会に各球団の戦力を自分なりに分析し、どこにいけば前 述した「。フロに行って活躍できるか」を考えた場合、両球団でも芽があると思えてきた。 自分の実力を考えた場合に、強力なライバル、それも特に年齢の近い選手がいるチーム には行きたくない。い や行っても活躍の場さえないだろう。その点、当時の巨人は村田真 一さん ( 現読売コーチ ) がいらっしやったが、すでに私の五年上で、もし私が巨人に人団 しても何年か控えで頑張っていれば、そのうちに追いっき、先発でも出られるようになる 106
小学校の給食のパンも食べきれず残すのだが、持って帰ればまた怒られるだろうと思い 持って帰れない。また心の中に捨てちゃいけない、 もったいないという気持ちがあるので、 机の中にどんどん溜め込んでいった。しばらくするとカビが生えてくるが、それでも捨て るといけないという倫理観から捨てられす、隣の子の机に人れたりしていた。机にパンを 入れられた子は災難だったと思う。 当時母にキッくいわれたのは「食べられないなら、もう野球に行かんでいし レ」い、つ 言葉だ。食が細く、あまりご飯を食べられなかった私は、夏場になり少年野球の練習がキ ッくなると、ほとんど食事が喉を通らなかった。 こんな小食な私のからだの心配をした母は先の言葉を私に投げ、練習の度に必す全部食 べるようにとおにぎりを二個持たせてくれた。結局、私は疲れが激しくいつも食べられす に家に持って帰ることになった。 母とは毎回「野球をやめなさい、「いやや」の押し問答を繰り返したが、最終的に少年 野球をやめさせられることはなかった。それも逆に野球を続ける励みになった。 いすれにしても三人きようだいのかなり歳の離れた末っ子ということが、。フロ野球選手 としての自分の資質を決定づけることになるとは、もちろん当時の自分は知る由もない。
野球を始めたのは小学校の二年、八歳のときだった。当時、遊びといえば、原つばで、 ポールとバットを持って野球をやるというのが、子どもたちの定番だった。もちろん私も そんな中の一人で、野球を始めるそと気負ってというよりもむしろ自然発生的に始めてい たといったほうがいし しかし一方で、その後、わりと本格的に野球に取り組み始めることになったのは、兄の 影響が大きかった。兄は、私より五歳も歳が離れていた。私が小学二年のとき兄はすでに 中学一年生。兄の。フレーする後ろ姿を見て「格好いいな。おれもあんなふうになりたいな あ」とあこがれたのだ。 それから三〇年以上経つ。 挫折を救ってくれた兄の存在
結婚して一五年。名古屋を離れる二年前のことだが、当時はまだレギ = ラーに定着して いなかった。それから今にいたるまで妻とは一度もケンカしたことがない。相性がすごく 良いのだろう。もちろん生活している中で些細なことで口調がきつくなったりすることは あるが、声を荒らげていい争いをしたり、ロをきかなくなるとかは一切ない。 妻が私のことを本当に好きでいてくれる。もちろん私も妻のことが大好きだ。 「ほんま、おれは今も、知り合った頃の気持ちと変わらへんわ」 日本人の男性は照れてあまり口に出さないが、私の家では照れすにそういっている。単 なるのろけに聞こえるだろうが、一五年経ってもそんな会話をしている。 結婚記念日はほとんど何もしないが、 , 彼女の誕生日だけはお祝いをする。 7 2 愛する妻への約束 196
「ひょっとしたら。フロに行けるかもしれない」 全日本を経験したことで私の意識は大きく変わってきた。そしてそれが確実に現実のも のになろうとしていた。大学四年になってから。フロ野球のスカウトの人があいさつに来て タイエー ( 当時 ) やロッテのスカウトの方に声をかけられ、監督も交え くださったのだ。。 大て食事に誘われた。 だが、「。フロに行けるかもしれない」というのと「。フロに行って活躍できるかもしれな 球 野 い」という思いはまた別物だ。私も、そこまで自信がついたわけではなかった。ただ、今 。フ 。しいか見当もっかなかった。フロ野球が、今、 までははるか遠くにあって、どうやって行け。よ、 章 目の前にやってきて、そこに上って行ける階段を見つけられた、というところまでは来て 5 思いもかけない球団からの ドラフト指名 105
野球を始めてからしばらくして、ほしくて仕方がないものができた。、 グロ ] プだ。それ まですっと兄のおさがりを使っていたが、成長してきた小学四年の私の手には、サイズの 小さな靴を履いたときのように、 かなり窮屈になっていた。 しかし当時のわが家は世間一般の例にもれす、衣服、おもちゃ、その他、身の回りのた いていのものが兄のおさがりで、子ども心に「またおさがりか」と内心思ったほどだ。幼 稚園の頃、母親からタイツをはかされていた。それは今から思えば兄からではなく、あろ うことか六歳上の姉のおさがりだったように思う。 そんな中、新しい格好いいグロープがほしいなといえる状況ではないと自分自身よくわ かっていた。「ねえ、グローブ買うて」とは一度も口にしなかった。 2 父がくれたあこがれのグロー、フ
二年生も三年生も大勢いた。しかも、私は中学のときにすごい成績を残したとか、人部 してすぐにすごく活躍したといったわけでもない。可愛がってもらうには、中学のときに お会いした一回だけで、機会があまりに少なすぎた。そういったことを客観的に見ても、 そんな大事なものをなぜ私にくださったのかわからない。 一年生になってすぐに練習に参加させてもらえたのも、ユニフォームをちょうだいした のも、伊藤監督が入学前から私に期待してくれていたのではないかと、人づてに聞いたこ とがある。わざわざ中学生のもとに出向いたことを聞いた監督の親しい方たちは「矢野に 期待してるな」と思ったそうだ。 ただ結局、真意は一度も監督の口から聞けすしまいだった。 その伊藤監督は、私が一年生のときに桜宮高校を去られ、当時はまださほど有名ではな かった東北は仙台市にある東北福祉大学の野球部の監督に就任された。