桜宮 - みる会図書館


検索対象: 阪神の女房
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1. 阪神の女房

普通に考えれば、受験先のランクを落として、確実な公立高校を狙うべきなのだが、私 はどうしても桜宮を諦めきれなかった。 家の経済的な事情を考えると迷惑もかけられないので、私の頭には私立に行くという考 えはなかった。そうなると桜宮に受からなかったら浪人しかない。先生たちは必す合格で きそうなところを受験しろと、必死に止めるが、私は先生たちの忠告に耳を貸さなかった。 し合いになってしまっ 家に帰ると私の受験に関して、父は何もいわなかったが、母とはい、 「先生のいう通り桜宮はやめとき」 母としては息子のことが心配だからと猛反対する。 「おれは誰がなんちゅうても桜宮を受ける 私も決して譲らない。何日もいい争いが続いたが、私が強情で一度いい出したらきかな いのを母も知っている。 「しゃあないわ、もうあんたの勝手にやり 最後は私の説得に負けたというよりも諦めた感しだった。その後、何度も挫折を経験し ていくが、高校受験ですべり止めに落ちるという経験はかなりショックなものだった。

2. 阪神の女房

2 章挫折が心を強くしてくれた いと思う。一年生は一年生で集めてやらせてみて、うまければ練習に参加させる、という ことはあっても、。フレーを見たことがない一年生を直感で引き上げることはない。 後でそれが伊藤監督だったんだろうという記憶であまり詳しく覚えてはいないのだが、 伊藤監督とは桜宮高校に入学する前に短時間だけれどお会いしたことがあった。 中学三年生になり部活も引退した頃、少し時間に余裕があったので、シニアチームの朝 練習に参加させてもらったことがあった。どういうつながりかはっきりとわからないのだ が、練習後の食事場所に伊藤監督が来られて、私の中間や期末試験の成績を聞かれたのだ。 「たぶん、それやったら桜宮に行けると思うから勉強頑張れよ」 伊藤監督はそれだけいって去って行かれた。 一般入試を受けて入るしか道がな 桜宮は公立高校なのでスポーツ推薦での入学はない 、。おそらく私は不安な気持ちで相談したのだと思う。 ただ、そのことを監督が覚えておられて、実際の。フレーを見たこともないはすの私を練 習に参加させ、試合に連れて行ってくださったのかどうかは定かではない。 伊藤監督にいきなり連れて行かれた練習試合では代打で出してもらった。すごくよく覚 えているのは、監督がいった通りの球が来て、アドバイスを受けたように打っと、狙い通

3. 阪神の女房

中学三年になり、どこの高校に進むか進路を決める時期がやってきた。前述したように ( スケットボール部の顧問をされていた吉田先生へのあこがれもあり、将来は体育教師に なりたいなと思っていた。また野球部に入って甲子園を目指したいという夢もあったが、 いわゆる私学の野球強豪校からの誘いが来るほどの実力もない私は、志望校をどこにしょ うかと迷っていた。 そんなとき親友が「一緒に桜宮行かへんか」と誘ってきた。 , 彼とは幼稚園からすっと一 緒の幼なしみでもあったが、その彼から聞いて、初めて大阪市立桜宮高校という存在を知 った。桜宮高校は府内で唯一「体育科」を設置していて、また野球部は、公立高校として は強豪で、私が入学する二年前の一九八二年には春の甲子園に初出場していた。 8 まさかの高校受験失敗

4. 阪神の女房

9 運命を変えた伊藤監督との出会い 希望通り私は桜宮高校体育科に進学することになった。ただあこがれの桜宮高校に入学 はしたものの、私は野球部に入るか、バスケットボール部に入るかで悩んでいた。 一緒に合格した親友は二〇〇メートルで大阪府二位の実力を持っていたので陸上部から しつこく誘われていたが、野球をやりたくて桜宮を受けたのだからとぶれることなく早々 と野球部に人部を決めていた。一方、私のほうはといえば決めかねていた。 高校に入学して最初の体育の授業が偶然バスケットボールだった。同しクラスにいた、ハ スケットボール部員が、私の。フレー振りを見て強く誘ってきた。 ハイを目指してくれよ」 「矢野、ぜひバスケ部に来て、おれらと一緒にインター 話を聞くと、バスケ部には四人ほどうまい選手がいて、もう一人私が入ればインター

5. 阪神の女房

2 章挫折が心を強くしてくれた イに行ける可能性が高くなるという。 「野球部は人数が多いし、おまえではレギュラーにはなられへんで」 ハスケットボール部の顧問からもそう説得された。たしかに親友に聞くと、野球部はそ のときすでに新入部員が七〇人を超えていた。 どうしよう。なかなか判断がっかなかったが、最後は、自分は野球をやりたくて桜宮に 来たのだからやはり野球をやろうと決めた。そして他の部員より遅れて、四月半ばになっ ての野球部入部となった。 私はここで運命的な出会いをする。中学のときの吉田先生と同しで、この人がいなかっ 、いほどの存在だった。 たら間違いなく今の私はなかったといってもし 桜宮高校野球部の伊藤義博監督である。ただ、中学のときの吉田先生がひたすらいい思 い出、私の一方的なあこがれだったのと違い、伊藤監督とは必ずしもいい思い出ばかりで はない。しかし、その運命の糸が最終的には私を。フロ野球にまで連れて行ってくれるのだ から、人生は不思議なものだと思う。 野球を続けていて、不思議な運というか、本当に幸運に恵まれていると思うことが私に

6. 阪神の女房

2 章挫折が心を強くしてくれた 「おつ、ここなら体育教師の夢と甲子園出場の夢の両方が叶えられるんしゃないか」 私はそう思った。 「よしつ。ここを受験しよう」 しかし、そうと決めたもののひとっ壁があった。 その頃は指定校制度があったからだ。学区の他の決められた高校以外を受けるという人 間はいなかったので、先生やまわりのみんなは大反対だった。 しかし一度、決めたらそれを押し通す性格だった私は桜宮高校の志望は変えなかった。 とりあえす受験勉強を始めた。実力テストはあまりよくなかったが、吉田先生に認めら れようとコッコッ頑張っていたこともあり、中間や期末のテストはそこそこはよかったか ら内申書もまあいいはすだ。だからおそらく大丈夫だろうと高をくくっていた。 しかし、ここでまた予想外のことが起きてしまった。 すべり止めのつもりで受けた併願の私立高校の入学試験に落ちてしまったのだ。 まあなんとかなると思う性質の私にもかなりショックなできごとだった。私が落ちた私 学の高校よりも何ランクも上の成績でないと桜宮は入れない。それほど人試ランクでは違 いがあった。

7. 阪神の女房

りの打球が打てた。魔法にかけられたようだった。 初打席で初ヒットを打ったということもあり、その後も練習試合に連れて行ってもらう ようになった。ただ自分としてはべンチ入りメンバ ーにこれで入れるという感覚はなかっ たが、入部以来の一連の流れの中で桜宮のレベルの高い野球についていけるという手応え だけは感した。 中学三年間、毎日、必す素振りをしていて、それを一日も欠かさすやったことからくる 自信もあった。自分に課したノルマを絶対にやると決め、それをやりきった自分が他の人 に比べて決してひけをとるものではないと実感できたのだ。 伊藤監督との思い出で、ひとっ忘れられないものがある。桜宮高校一年の夏のある日、 その夏の甲子園予選を最後に退任することが決まった監督に私は呼ばれた。監督室に人る と、目の前には監督ご自身のユニフォームが置かれてあった。それを見て、「ああ、監督 は桜宮高校をやめはるんやな。残念やな」と思っていると、突然、監督がそのユニフォー ムを持ち、「これ、おまえにやるから持って行け」と手渡されたのだ。 一瞬驚いてどうしようかと思ったが、すぐに頭を下げ叫んだ。

8. 阪神の女房

一年生になったばかりの春の大会で桜宮は >-a と対戦したが、私はスタンドで他の部員 と「かっとばせ ! 」とか声を出して応援するのみで、グラウンドには立てなかった。 清原和博さん、桑田真澄さんが一年上で、中学生のときからにあこがれていたが、 いや私だけでなく全国の中学生のあこがれだったが、結局、三年間一度も試合をすること はなかった。日生球場でのユニフォームを見たときには、思わすつぶやいた。 「格好ええなあ」 ーを巻き あと高校時代では、甲西高校という夏の甲子園でベスト 8 になり甲西フィー 起こした高校との練習試合が心に残っている。 対戦を受けてもらえることになり、滋賀県にある甲西高校のグラウンドに行って試合を れ したのだが、やはり甲子園でベスト 8 に残っただけあって強かった。だが、そのチームを し相手に私は、とてつもなく大きいホームランを打った。外野の後ろにある体育館の屋根ま 強 でいくようなすごい打球だった。高校時代、通算三本しかホームランを打てなかった自分 を の中でもっとも記憶に残っている打席だ。 折 挫 甲子園には最後まで届かなかったが、ライバル校にすごい選手がいたのかといわれると、 章 それもあまりいなかった。、 ドラフト的にも私の学年は不作の年といわれ、。フロに人った選

9. 阪神の女房

矢野燿大 ( やのあきひろ ) プロ野球解説者 ( スポーツニッポン新聞社、朝日放 送 ) ・元阪神タイガース。 1968 年大阪府生まれ。大阪桜 宮高校から東北福祉大学を経て 91 年ドラフト 2 位で中日 ドラゴンズ入団。中日時代は控え捕手ながら、打撃力を 買われて外野手でも出場。 97 年オフにトレードで阪神に 移籍。強打堅守の捕手としてレギュラーの座を勝ち取り、 2003 、 05 年のリーグ優勝に貢献するなど球界を代表する キャッチャーとなる。ベストナイン 3 回 ( 03 、 05 、 06 年 ) 、ゴールデングラブ賞 2 回 ( 03 、 05 年 ) 。通算成績は、 1669 試合出場、打率 274 、 112 本塁打、 570 打点、 1347 安 打。 2010 年限りで現役を引退。現在は、プロ野球解説者 ー 3 ー 2 2011 年 6 月 30 日第 1 刷発行 阪神の女房 はんしんにようばう としてテレビ、ラジオなどで活躍中。 著者 発行者 発行所 印刷製本 矢野燿大 市川裕一 朝日新聞出版 〒 104 ー 8011 東京都中央区築地 5 電話 03 ー 5541 ー 8832 ( 編集 ) 03 ー 5540 ー 7793 ( 販売 ) 中央精版印刷株式会社 やのあきひろ ⑥ 20 Ⅱ Akihiro Yano, PubIished in J 叩 an by Asahi Shimbun PubIications lnc. ISBN978 ー 4 ー 02 ー 250855-3 定価はカバーに表示してあります 落丁・乱丁の場合は弊社業務部 ( 電話 03 ー 5540 ー 7800 ) へご連絡ください。 送料弊社負担にてお取り替えいたします。

10. 阪神の女房

、、こっこ。 じつは私は佐々木さんのポールをあまり受けていない。佐々木さんが登板するときは、 同学年の控えキャッチャーがスタメンで出ていて、私はサードに回っていたからだ。 伊藤監督は学生のことをいろんな面で考えてくださる方だった。。 フロには無理、社会人 野球にも行けるかどうかという選手には、就職先や将来を真っ先に考えてくださった。神 宮でアピールすれば社会人野球に進むのに有利になるだろうと、控え選手をあえて先発で 使ったりする。私の場合は、全日本メンバ ーに選ばれる可能性が高くなるだろうと、サー ドのポジションで試合に出してくださった。そんなときは副キャ。フテンを務めてくれた選 手が佐々木さんとバッテリーを組んだ。 そんな事情もあって、試合で佐々木さんの球をあまり受けなかった私がいうのも気が引 けるが、大魔神といわれ、メジャーリーグまで行かれるとは当時では想像もできなかった。 東北福祉大投手陣の中でももちろん目立っておられたが、腰を痛めてらしたので三年生 までほとんど野球ができす、故障から回復されてマウンドに上がられてからも、真っすぐ は本当に速いが、。フロで見せていたあのすごいフォークはまだなく、直球投手のイメージ で、メジャーリーガーを牛耳る大魔神のイメージは学生時代にはなかった。