アトリエ - みる会図書館


検索対象: パニック・裸の王様
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1. パニック・裸の王様

子供たちはみんなコンクールのことを知っていた。教室で先生からいわれたために、ばくの ところへ、どう描いたらよいかを聞きにくる子もあった。しかし、ばくは自分の生徒をコン すみえ クールに応募させる気持にはなれなかった。アトリエの隅で画の宿題をしている彼らの作品 はん をみると、恐れていた兆候がまざまざとあらわれていた。彼らは先生の話した童話を街に氾 らん 濫する像と色でとらえた。子供雑誌や童話本や絵本などにある挿画をまねて彼らは描きだし たのだ。、 とれほどすぐれていてもそれらの画はおとなの作品だ。彼らは教師にせかれるため に自分の努力をすてて安易な模倣の道を選んだのだ。アトリエに絵本をもってきておたがい すず 王に交換しあっては錫の兵隊やイーダちゃんを描いている子供をみてばくはみじめな気がした。 裸それは教師の熱意を語るというより学校施設の貧困を暗示するものであった。ばくの頭から クはどうしても大田氏の策略がぬぐいきれなかった。″ 教室賞 ~ がなければ多忙な教師は宿題 ニにまで画を描かすというような努力をけっして考えないだろう。 ぼくの仕事にも多くの危険がふくまれていた。ばくはアンデルセンの童話だからといって あらたまるようなことはせす、ごくふつうの日常の会話のなかにそれをとかそうと努めた。 そして、物語の筋書だけはアンデルセンで、人名や地名はなるべく日本、しかもできること ならそれも廃しようと考えた。エキゾチシズムをほのめかせば子供はたちまち大田氏の網に ひっかかり、出来合いの概念をさがしに絵本へ走るだろう。のみならす、おとなが考えるほ ど子供はアンデルセンをよろこばないのだ。なんの加工もなければ白鳥や人魚姫よりスー ーマンや密林の王者のほうが子供の生活とむすびついているのだ。子供がエビガニを描き、 184 さしえ

2. パニック・裸の王様

ようど電車がついたばかりのところだった。女給やダンサーをまじえた深夜の客を拾おうと してあちらこちらの辻や道からタクシーがけたたましいきしみをたてて広場にとんできた。 車や人をよけながらばくは改札口に入って時計をあわせた。空気は埃りとガソリンの匂いに みちていたが、 タクシーにのろうとする女のそばを通りかかると、花束のような香水と酒の 霧が鼻さきをかすめた。彼女は自動車にのりこむと、ぐったり額を窓によせて外をみた。顔 だれ は青ざめていたが、彼女の眼はぬれたようにはげしくキラめいていた。誰が送ってきたのだ きびす ろう。彼女の視線をたどったが、深夜の駅に人影はなかった。いそいで踵をかえした瞬間、 かんだか 王大田夫人をのせた車は甲高い苦痛のひびきをあげてばくのよこを疾過した。 ク 166 月原へいった日から太郎とぼくとのあいだには細い道がついた。彼はアトリエにやってく なが ると、ばくにびったり体をよせて、グワッシュを練るばくの手もとをじっと眺めた。ばくは 貧しいので子供に高価な画材を買ってやれない。市販のものと効果に大差のないことがわか ってから、毎日ばくはアラビア・ゴムと亜麻仁油と粉絵具を練りあわせてグワッシュをつく る。ときに高学年の生徒が希望すると、カンバスや油絵具までこしらえてやることもある。 ばくはアトリエの床に足をなげだしてすわり、まわりに子供を集めて、ヘラをうごかしなが こんちゅうばか ら話をしてやるのである。太郎はぼくのしゃべる動物や昆虫や馬鹿やひょうきん者の話に耳

3. パニック・裸の王様

「ダルマは隠退したの ? 「うん、ここんとこちょっと人気がないね。あれは階段から落ちて骨が折れたんだよ」 やっ 「惜しい奴なんだがね」 あいさっ さいづち頭がアトリエに出入りするとき、なんとなくばくはそんな挨拶を交わしあって完 全な了解を感じている。 旅券をくれてからまもなく、太郎はばくの話のあいだに、とっぜん 「先生、紙」 王といいだすようになった。それが度かさなって、ばくが 裸「おや、また便所 ? 」 クとからかうと えか 」「ヤだな、先生ったら。画を描くんだよ」 そんな軽口をきいて彼はばくから紙や筆や絵具皿をとっていくようになった。 その放射する力がスムーズに流れだすためには時間がか 太郎は新しい核を抱いたのだが、 かった。彼の内部にはばくにも彼自身にも正体のわからない、すっかり形のかわってしまっ たガラクタが海岸のようにうちあげられているはずであった。彼はぼくと話をしているうち に胎動をおばえて紙を要求したが、いざ絵筆をとってみると、どうしてよいのかわからなく なって立往生することがしばしばあった。母親に手をとってもらうか、手本をみるか、いっ かおばえた人形をくりかえすか。こんなことしかやったことのない彼は体内のイメージのカ 168

4. パニック・裸の王様

て彼はそっと仲間のなかに入っていき、めだたぬ隅に身をおいて、まわりでひしめく力や声 をおびえつつ吸収した。家庭や学校にまったく生活のないことが、この場合かえって彼をア トリエにひきつける大きな原因となったようだ。彼はひとつの画を描くと、一週間かかって はっこう それを醸酵し、つぎにアトリエへくると前の週のつづきを描いた。あるとき彼は家を描いて 点を画面にいつばい散らばしてばくに説明した。 「みんな遊んでるのを、ボク、二階からみてるんだよ」 彼はそういって点をさした。そのひとつずつが運動場の子供であり家は校舎であった。風 様 邪をひいて遊べなかったときのことをいっているのだ。つぎの日曜には家はなくなり、点の 王群れだけになって、彼は稚拙な子供の像をそれにそえていった。 の「ボク、走ってるんだよ」 「風邪がなおったんだね」 「うん。それに運動会がもうすぐあるからね。練習してるんだよ」 「子供がメダカみたいにいるね」 「運動場、せまいもの」 ばくは彼を仲間といっしょに公園へつれていき、競走をさせた。彼は栄養のゆきとどいた きんせい 均斉のとれた体をしていたが、あまり運動をしたことがないために、長い手足をアヒルのよ うにぶきっちょにふって走った。ひとしきり競走をしたあとで、べンチにひろげたビニール 布にもどると、さっそく彼は一枚の画を描きあげてばくのところへもってきた。 187

5. パニック・裸の王様

彼はそういって、まだ爪にのこっている川泥を鉛筆のさきでせせりだしてみせた。仲間は おもしろがって三人、五人と彼のまわりに集まり、ロぐちに自分の意見や経験をしゃべった。 アトリエの隅はだんだん黒山だかりに子供が集まり、騒ぎが大きくなった。 すると、それまでひとりばっちで絵筆をなぶっていた太郎がひょいとたちあがったのであ る。みていると彼はすたすた仲間のところへ近づき、人だかりのうしろから背のびしてェビ ガニの画をのぞきこんだ。しばらくそうやって彼は画をみていたが、やがて興味を失ったら しく、いつもの遠慮深げな足どりで自分の場所へもどっていった。ぼくのそばをとおりなが 王らなにげなく彼のつぶやくのが耳に人った。 裸「スルメで釣ればいいのに : ばくは小さな鍵を感じて、子供のために練っていたグワッシュの瓶をおいた。ばくは太郎 」のところへゆき、いっしょにあぐらをかいて床にすわった。 「ねえ。ェビガニはスルメで釣れるって、ほんとかい ? ぼくは単刀直入にきりこんだ。ふいに話しかけられたので太郎はおびえたように体を起し こ。ばくはタバコに火をつけて、一息吸った。 「ぼくはドバミミズで釣ったことがあるけれど、スルメでエビガニというのは聞きはじめだ ばくが笑うと太郎は安心したように肩をおとし、筆の穂で画用紙を軽くたたきながらしば らく考えこんでいたが、やがて顔をあげると、キッパリした口調で 142 かぎ

6. パニック・裸の王様

たいていそんな巧妙なとっさの智恵をはたらかせて逃げようとするが、こちらも負けては いられない。ばくは紙をとりあげて感嘆するのだ。 「なるほど、こいつはおもしろいや。だれもいないじゃないか。みんな行っちゃったんだ ね」 いそがしく頭をはたらかせてばくは彼が熱心な野球ファンであったことを思いだす。そし て膝をたたくのだ。 「わかったよ。みんな行っちゃったんだ。みんな球場へ見物に行っちゃったんだ。なるほど 王ね。早く行かなきや席がとれないぜ : 裸子供はうつかり口をすべらす。 「バカいってら。ばくは指定席だせ 、、。パパと行くときはネット裏にきまってるんだぜ」 ニ彼はロをとがらせて抗議し、身ぶり手ぶりを入れて球場の歓喜を説明しはじめる。ばくは ころあい 頃合をみてそっと彼のまえに新しい紙と絵具をおくのだ。彼の眼の内側に、やがて白球がと び交い、群衆が起きあがれば、耐えられなくなって彼は絵筆をとる。ほんのちょっとしたき つかけで、無人の電車は帰途の超満員電車にまで発展するのだ。いつもおなじ手口で成功す るとはかぎらないが 、彼らひとりひとりの生活と性癖をのみこんでいさえしたら、きっと突 破口は発見されるのだ。すくなくともばくはそう考えたい。 ところが、太郎は何日たっても画を描こうとしなかった。自分のイメージー、 こ追われて叫ん けんそう だり、笑ったりしている仲間の喧騒をよそに彼はひとりばつんとアトリエの床にすわり、も 138

7. パニック・裸の王様

遠足をしゃべり、母親の手を報告するようにアンデルセンを彼らの生活にとけこませてやら ねばならない。そのためには演出や話術が必要だ。もちろんぼくは自分が真空地帯のなかに 住んでいるのではないことを知っている。いくらふせごうとしても絵本は侵入するのだ。概 念は洪水を起している。街角と映画館には劇が散乱している。子供の下意識から紙芝居や雑 誌や銀幕の像を追いだすことはできない相談だ。しかし、すくなくともばくは彼らにそれを 手本として利用するようなことをさせてはならないのだ。白鳥や錫の兵隊を彼らのなかで熱 い像にして運動させてやらねばならないのだ。プランコやコイがまきおこすのとおなじ圧力 様 を彼らの体内につくることだ。 王ぼくは人形の王国の政権移動やお化けの行方を話しあうのとおなじ口調で、アンデルセン のを書きかえてしゃべった。ばくの部屋には童話本が山積しているが、一冊も子供にはみせな かった。ばくはディズニー映画のかわりに動物園へ行き、展覧会の名画鑑賞のかわりに川原 へ子供をつれて行った。いすれは彼らの画に解説をつけてデンマークへ送ってやるつもりで はあったが、 ばくはそのことを一言も口にしなかった。子供が画をもってくるとぼくはロを きわめて激賞して、みんな一律に三重マルをつけた。教室の習慣からぬけきれないために彼 あき らにはマルがどうしても必要だったのだが、 ぼくの博愛主義に呆れて彼らはしまいにマルを 期待しなくなった。 ばくには自信のないことがひとつある。それはぼくの力がどれだけ子供のなかで持続され るかということだ。彼らは一週間に一回か二回ばくのアトリエへくるきりだ。あとはばくの 185

8. パニック・裸の王様

排除しようとしたのだ。だから子供はお化けであり、お化けは死なねばならなかった。彼は ふつきゅう 画で復仇したのだ。この小伝説にはそんな仮説のための暗示があるようだ。おそらく根本的 な点でそこに誤りはないだろう。ただ、ばく自身はそういう軽快な合理化だけで満足できな いのだ。ぼくは赤に太郎の肉体を感じたのだ。環境に抵抗して、いつどの方向へどんな力で 走りだすかわからない肉体を、いよいよ彼も回復したのだ。ばく以外の人間にとってはしみ でしかない画用紙をまえにばくはばっかりとひらいた傷口を感じた。血は乾いて、壁土のよ うに、白い皮膚にこびりついていた。ぼくは夕方のアトリエで、子供たちののこしていった 王異臭をかぎつつ、さらに傷口を深める方法をあれこれと考えた。 裸ある日、ばくはあらかじめ電話で在宅をたしかめておいてから大田夫人を訪ねた。彼女に ク会って確認しておきたいことがばくにはいくつかあった。山口にはない特殊な立場があった わいけい 」ので、ばくは大田氏に面とむかって太郎の歪形を訴えることができたが、当分彼は信用でき そうになかった。彼は有能な商人かもしれないが父親としては資格皆無の男のようだ。彼は ぼくの仕事を邪魔するばかりである。 どんな眼があらわれるだろうかとぼくは軽い不安を抱いて待ったが、玄関にでてきた夫人 は健康で、清潔で、一見、酒や終電とはまったく関係のなさそうな家庭人であった。彼女は ぼくをみると両手をそろえてつつしみ深く頭をさげ 「お待ちしておりました。どうぞこちらへ : ぼくは、彼女について廊下を歩き、応接室に入った。太郎を川原へつれだした日にも人っ 172

9. パニック・裸の王様

が生まれるのだ。子供たちはいままでよりも自由でなくなり、束縛を感じ、画のことを考え はじめるにちがいない。彼らにとって画はあくまでその場その場の克服手段にすぎず、一枚 描きあげるとたちまち忘れてつぎへ前進するものなのだ。彼らは画そのものに執着しないの だ。デンマークということを聞いて緊張するのは両親たちである。きっと彼らはだまってい られなくなって子供に干渉しはじめるにちがいない。彼らは訓練主義教育で育てられた自分 の肉眼の趣味にあわせて子供に年齢を無視した整形やぬりわけを強制するだろう。その結果 子供の内側では微妙な窒息が起るのだ。個性のつよい子ならばくと両親の両方に気に入られ 様 るよう、二様の画を描いてきりぬけるかもしれないが、薄弱な子は板ばさみになって混乱す しままでどおり、両親はすくなくとも画につ 王るばかりである。ばくがだまってさえいれば、 ) のいてだけは子供に干渉することはないだろう。彼らの大部分は中産家庭の流行として子供を 画塾にかよわせているにすぎないのだ。 キャルにそそのかされてばくは事をはじめたのだったが、そのうちにこの話は思いがけぬ 方向に発展しだした。ヘルガ嬢の第二便から一週間ほどして、ぼくはとっぜん大田氏の秘書 から、社長がぜひ会いたいと申しておりますから、という電話を受けたのである。その日の 夕方、アトリエで待っていると、迎えの自動車がやってきた。運転手にいわれるままのると、 ホテルのまえでおろされた。大田氏が別室で待っているはずだから帳場で聞いてくれという。 帳場ではすぐ連絡がついて、ボーイが案内してくれた。大田氏は食卓を用意させて、ひとり でばくを待っていた。食事はマルチニからはじまってコニャックにおわる豪華なコースであ 153

10. パニック・裸の王様

るが、ずっと遠い暗がりには草と水があったのだ。ここから掘り起していこうとばくは思っ た。ただ、いままで伏せられていたこの事実にはどこか秘密の匂いがあった。いまの大田夫 人が田舎にいたとはちょっと考えられないことだった。ばくは床にあぐらを組みなおすと、 もつばら話題をェビガニに集中して太郎といろいろ話しあった。 その翌日、ばくははじめて差別待遇をした。月曜日は太郎は家庭教師もピアノ練習もない 日だったので、ばくは彼をつれて川原へでかけたのだ。ほかの生徒には用事があるといって アトリエを閉じると、ばくは正午すぎに大田邸を訪ねた。すでにぼくは太郎が母親といっし 様 王 ょに九州にいたことがあるのを彼の口から知っていたが、 夫人にはなにもいわなかった。太 裸郎はエビガニについては熱心だったが、話のなかで母親にはスルメを自分にくれる役をあた クえただけで、当時のことについてそれ以上はあまりふれたがらない様子だったので、ぼくは 」夫人に太郎の昔をたずねることをはばかったのだ。彼女はばくから太郎を写生に借りたいと 聞かされて、たいへんよろこんだ。 「なにしろ一人っ子なもんでございますからひっこみ思案で困りますの。おまけにお友達に いい方がいらっしやらなくて、おとなりの娘さんとばかり遊んでおります」 夫人はそんなことをいいながら太郎のために絵具箱やスケッチ・ブックを用意した。いす れも大田氏の製品で、専門家用の豪奢なものだった。その日は夫人は明るいレモン色のカー とびら ディガンを着ていた。 芝生の庭に面した応接室の広いガラス扉からさす春の日光を浴びて、 彼女の体は歩きまわるたびに軽い毛糸のしたで明滅する若い線を惜しむことなくばくにみせ 144 ごうしゃ