きロ 亡 流 269 あお とを朝になって発見して蒼ざめた。彼らは砂の足跡を追って捜索にでかけたが、いつも私た ちの視界の範囲内だけを調べてもどってきた。たとえ姿は見えなくても匈奴の戦士は荒地の どんな岩かげにひそんでいるかわからないのだ。深追いした兵士は単騎であろうと、小隊で あろうと、きっと重傷を負うか全滅するかした。私たちは城壁を築くとき、かならず間隔を おいて望楼をつくり、その望楼に守備兵の一隊をのこしてからつぎの工事にさしかかるのだ が、匈奴はしばしばこの後衛隊をみなごろしにして城壁をのりこえた。匈奴の居住地帯もま こ・つ・く た広として限界を知らないのだ。私たちは城壁を中心にする視界から彼らの家畜群を追い だすことに一応は成功したかも知れないが、戦士はあいかわらす昼となく夜となく私たちを 監視している。ときに彼らは示威のために城壁の内側の、私たちの領土の荒野を白昼ゅうゆ うと、しかも黄土地帯へむかって馬を走らせてゆく姿を見せつけたりするし、またときには 後部地区からの牛馬の輸送隊を私たちの視野のなかで襲撃することもある。 これらのことから推しても私たちの結論はたったひとっしかでてこないのだ。万里の長城 は完全な徒労である。それはあきらかに私の故郷の町の城壁とおなじように防禦物としての 機能を完全に欠いている。風にむかって塀をたてて風が消えたと信じたがっているのだ。し かも、田舎町の城壁にたったひとつの意味をあたえていた、あの、すべての価値に先行して 私たちを夜のなかに発散拡張させる共同作業の感覚が、この北方の長城にはまったく失われ ぼうだい ているのだ。ここでは人びとは厖大な拡大力のなかでの点であり、あくまでも点にとどまり、 ついに結合して円をつくることのない、ただの肉片にすぎないのだ。私たちは砂漠と黄土と
った、女の腹部のような土地に住んでいるのだ。土は肥えて、深く、多毛多産で、毎年疲れ ることを知らずに穀物や家畜を生むが、骨はどこにあるのか、まったく感することができな 町の第一の建造物は、もちろん、城壁である。なんといっても、壁なしで暮らすことはで きない これこそはあらゆる価値に先行するものだ。他人の穀物倉や畑や乾肉などについて は私たちはさまざまな意見をもっているが、城壁については誰も異論をはさむことができな ここ数十年、戦争のたえまがないのである。さまざまな主張をもった将軍とその軍隊が ほろ 王平野をよこぎった。亡んだ町の記録はかぞえきれない。殺された住民の話はかならず壁の崩 裸壊からはじめられた。私たちの国では、町といわず村といわず、およそ人の住むところには クかならずまわりに壁がある。町を壁でかこみ、自分の家を壁でかこみ、壁を体のまわりに感 一 ) うばく ←一じないでは一日もやっていけないのだ。山も海も見えないくらい広漠とした国に住んでいな がら壁なしにすごせないとは奇妙なことだが、 事実である。 城壁は町の共同財産だ。私たちの町は耕作に依存するばかりで、絹や玉や機械などという ような特殊な技術はなにももたないから、城壁ぐらいしか自慢できるものはないのだが、こ れもほかの町のとくらべてとくにこれといった特徴をあげることはできない。それは石材を そうそふ 一本も使わずにつくられた。黄土は水でねると固くなる。曾祖父たちは平野のまんなかにた きわく っと、風を嗅ぎ、土をなめてから、道具をとって足もとを掘った。土を水でねると、木枠に れんが はめて陽に乾かし、固まるところを待って枠をはずすと煉瓦ができた。その土のかたまりを 214
流亡記 215 何百箇、何千箇と、一箇ずったんねんにつみあげて彼らは町の外壁をつくったのだ。この壁 と、各人の家と、どちらの建造がさきであったかは正確なことをおぼえている人間がいまで はみんな死んでしまったから、わからないことではあるが、おそらく城壁のほうがさきだっ たにちがいない、と私たちは信じている。伝説は賢人の大きな時代をつたえているが、私た ちの町はそれよりはるか以後に生まれたのだ。壁の心配のいらない日はかって訪れたことが ないのだ。人びとは壁の中で生まれ、壁のために生きた。どこの家でも、壁のためにはたら かずに死んでいったものはひとりもないのだ。高粱畑のなかからとっぜんあらわれる兵士た ちはいつも新しい武器をもっていた。祖父の頃、刀は肉を切るだけだったが、父の時代にな やり ると骨を切られた死体が散乱した。槍の貫徹力は増大し、矢の飛行距離はのびるばかりであ る。毎年、壁のうける傷は、深く、大きくなった。兵器だけではない。それはたえまない風 のヤスリにもゆだねられているのだ。道はひっきりなしに私たちの家をむしばみ、平野は町 を犯す。風のなかで城壁は眼に見えずにじりじりと沈み、低くなってゆくのである。 城壁の改修作業は季節を問わずにおこなわれた。少数の役人と、富商と、豪農をのぞく町 ろうば の住民は子供から老婆におよぶまでみんなはたらいた。その日は、畑仕事、商取引、家事、 午睡など、すべてが禁じられた。城外の畑へ黄土をとりにゆく牛車のきしみと、長い苦しい 午後。少年時代から青年時代にかけて出会った数知れぬ労働日を私は忘れることができない。 学校は休みになり、私たちは歓声をあげて城壁のうえを走りまわり、父の怒張する背の筋肉 の地図に見とれたり、炊きだしをする母の着物にしみる火の匂いをおばえたりした。腕に筋 ころ
町は小さくて古かった。旅行者たちは、黄土の平野のなかのひとつの点、または地平線上 なが のかすかな土の芽としてそれを眺めた。あたりのゆるやかな丘の頂点にたっと指を輪にまる めたなかへすつばり入ってしまうほど、それは小さかった。町を中心にいくつもの緑の輪が 王かさなりあいつつ平野のなかにひろがっていた。その輪は中心部にちかいほど色が濃く、周 裸辺へいくにしたがって淡くなり、しまいには黄土のなかににじんで消えていた。消えるのは ク地平線よりはるかこちらだが、その幾条もの同心円の緑線をつらぬいて街道が走っている。 。」街道は町から発して地平線のかなたまで細ぼそとながらもとぎれずにつづいていた。この緑 の輪状帯はすべて畑であって、中心から遠ざかるほど淡くなるのは肥料がそこまで運べない コーリャン からだ。この野菜畑と高粱畑のなかを街道にそって歩いてゆくと、町にちかづくにつれて さまざまなものが行手にあらわれる。城壁、望楼、門、旗、家畜の列、百姓たちの荷車、と どら いったようなものである。ときには歌声や銅鑼のひびきが壁のなかからにぎやかに聞こえて くることもあるが、それは市のたつ日のことである。いつもは、町はたいていひっそりと静 ちり まって、日光と微風と黄いろい塵のなかにねむっている。 城壁にかこまれてはいるが、町は、それ自身、ひとつの黄土の隆起にすぎなかった。どれ 212
流亡記 263 ぎやくさっ やみよ 村に夜襲をかけて闇夜に利く猫のような眼を駆使して虐殺をほしいままにした。長城の規模 がいかに長大なものであったかを説明するためには、そのようなゲリラによって潰滅した駐 屯部隊の情報が事件発生後一一年たってからようやく派出所、それも中央企画部よりはるかに びよう 遠い、まったく渺たる点にひとしい派出所に到達したという一事をあげるだけでたくさんだ ろう。蒙恬将軍は全防衛軍と労働部隊を管理する。彼はこの事業の最高責任者である。おそ らく長城の像を描くことにおいて彼をしのぐものはひとりもいないだろう。私たちの質問に 応じて彼は数字と地名のおびただしい列挙のうえに長城を築いてみせるだろう。その事業が 人類のかって企ておよばなかった地平線の創造であることを私たちは理解する。長城はまさ に隆起せる地平線なのだ。しかし、同時に私たちは確信して疑わないのだ。その蒙恬将軍す らも、長城の意味の理解においてはなお夫役人の私たちとまったくかわることがないはずで ある。 長城の建築技術を説明すれば首をかしげられるにちがいない。なぜなら、これほどの有史 以来の企図が、あの私の故郷の町の城壁とまったくおなじシステムによって運営されていた からである。そのシステムは私たちより数代あるいは十数代まえに発明されたもので、それ をそのまま岩砂漠のなかに適用しようというのである。時代は武器の効率の増大に知力をか たむけはしたが、 建築技術についてはほとんど停滞状態がつづいていたといってもよいのだ。 ただしこれは城壁建造についてのみいえることである。別種の技術はその結晶をあなたは阿 長城に 房宮に見いだされるだろう。が、いまは長城について語ることにとどめておきたい。 ねこ
道をさまよううちに強盗におそわれたりしていたので、兵士たちがめばしい品にありつくこ とはめったになかった。彼らはあさるものがないとわかると、失望して、気まぐれに避難民 を殴ったり、殺したりして、ひきあげた。私たちは城壁のうえから兵士たちの暴行をつぶさ すす に眺め、煤と土埃りにまみれた人びとが刀に切られて背にパックリと穴をあけながらなおも たちあがろうとして車輪にしがみついてはくずれおちるありさまを見守った。避難民たちの しかし、彼らを私たちの町に収容 骨の砕ける音や叫声を聞かなかった人はひとりもいない。 して宿泊させようといいだす者もいなかった。兵士たちを養うためにあらゆる物資が徴発さ 王れて、商店は戸をしめ、穀物倉はからつばになり、人びとは栄養失調からくる慢性の貧血症 裸のためにやつれきっていたのだ。とても避難民を養うことなど、できなかった。のみならず、 あお 兵士たちは町が寡婦のように蒼ざめて薄暗いまなざしですわりこんでいるのを見て、このう 」」え食糧が不足することを恐れ、私たちに難民の救済をきびしく禁じたから、いよいよ彼らは しめだされることとなった。彼らは城門のそとに牛車をとめ、何日も野宿して壁がひらくの を待ったが、かんぬきがぬかれたことはついに一度もなかった。城壁がなければ私たちは彼 らの刃のような不幸や苦痛にさらされてとうてい身をよけることができなかっただろう。難 民たちはばろ布をぶちまけたように城外の畑や街道に野宿し、たったり、すわったり、藁を くわえたり、横腹をかいたりして何日もすごしたあげく、とぼとばとどこかへ消えていった。 こんちゅう ひんし 彼らの去ったあとにはしばしば瀕死の重傷者や病人や赤ン坊が、足を折られた昆虫のように うみあか のこされていた。私たちはむっと鼻をつく膿や垢や乳の生温かい匂いのなかを歩きまわって 222 なが にお
ちの行方は砂にしむ水のようにわからない。 私たちの知恵はたったひとっしかないのである。戦乱は十数年にわたって、果知れぬ攻防 戦がくりかえされ、侵略があり、敗北があり、諸侯たちの興亡はかぞえきれなかった。が、 行商人が宮殿や天幕の奥に走る暗殺者の叫声を話しおわるたびに、私たちは眼を城壁にそそ いだ。すでにそれは雨と風によってまるめられ、煉瓦はとけあって形を失うまでになり、一 箇一箇を見わけることができなくなっている。人家とおなじように大地ととけあって、建築 物というよりはほとんど自然物である。それが町にとって希望であったというたしかな経験 ばうぎよぶつ 王を私たちはあまりもっていない。防禦物として見ればそれは不完全きわまるものだし、戦術 裸的に可能なかぎり利用できるほどの知識や勇気も私たちはもちあわせなかった。それはちょ はれもの クうど大地の腫物のような私たちにとってのかさぶたにすぎないといってもよい。価値は無に 。」ひとしいのである。しかし、あらゆる検討の末に私はなおすてきれぬものをそこに感するの ぜいじゃく だ。これは町に住む人びとすべての感覚である。力や筋肉の殺到にたいしてそれほど脆弱な 存在のないことがわかりきっていながら、なぜあなたは腹より背に信頼をおいて体をまげる ま 6 く・う のだろうか。私たちにとって壁はそのようなものなのだ。夜おそく枕に頭をおとすとき、私 たちはおしあいへしあいかさなりあった何十軒もの家の何十枚もの壁や塀のむこうに、った え聞く海のような平野の肉薄にたちむかう重く、厚いものの気配をかならず感ずる。城壁は 私たちの背だ。ちょっとでも崩れると私たちはたちまちかけ集ってこのたわいもない土の隆 起にとびかかり、うろうろ歩きまわり、眼にしむ汗をぬぐいながらはたらいて倦むことを知 220
亡 流 旨ロ 221 らなかった。城壁の意味はおそらくその共同作業の感覚それ自体のなかにもとめるよりほか にないのではないかと私は思う。兵士たちの嘲笑もそこからきているのである。彼らは絶望 しようそう きようばう を感ずるのだ。流れただよう、孤独で兇暴な点にすぎぬ彼らは壁を見て焦躁をさそいだされ るのだ。蟻のようにせっせと煉瓦をはこぶ仕事場の私たちに彼らがニンニク臭く生温かい痰 を吐きかければ吐きかけるほど私たちはそのことを確認した。私たちは苦痛を土に流しこむ かじゃ さかつば ために夢中になってはたらいた。家畜を盗まれた百姓、ふいごをこわされた鍛冶屋、酒壺を 割られた居酒屋、男、女、老人、子供、すべてばうふらのような町の住民たちがただ黙々と はたらいた。壁は私たちの恥や汚辱や無気力を水でこねて、ねって、つくられたものである。 そのほかに私たちはどんな抵抗の方法も思いつくことができなかった。妻や娘たちの傷、や ぶられた穀物倉、裂けた畑、それらのものについては、にがにがしいが説得力に富んだ時間 の愛撫と、黄土の受胎力を期待するよりほかにしかたがなかった。 コーリャン そのころはしじゅう避難民の姿が見られた。街道や高粱畑を人びとは牛車をひき、袋や 傘をもってさまよい歩いた。私たちの町を占領した兵士たちは城壁から避難民の列を発見す ると、ときどきでかけていって彼らを殺した。たいていの避難民は武器をとって抵抗したた めに町を破壊されて追いだされた人びとであったが、すでに疲労しきっていて、兵士たちに 追われてもろくに逃走することもできず、むざむざ槍に刺しつらぬかれた。兵士たちは彼ら のこわれかかった牛車におそいかかって、酒や食物や貴金属品などを奪った。しかし、大部 分の人びとはすでに町をでるときに無一物同様になり、あちらこちらの町にしめだされて街 かさ たん
流亡 265 ほっぎうじか 方鹿や野生馬の大群が、ときどき、この薄 っ金属の崖のように日光を浴びて輝いていた。北 暗い空のしたを走ってゆくのが見えた。彼らは丘のかげに見えっかくれつ、あたかも砂漠そ ていおん のものの移動のような蹄音をたてて何日にもわたって疾走していった。 王の遺跡の城壁が土に沈んだ地点から私たちの仕事ははじめられた。着工式にあたって、 私たちは捕虜の匈奴を二人っれてくると、深い穴を定礎点に掘り、彼らの首を切りおとして かなえ ひざまず から穴の底に跪かせ、首のかわりに青銅製の鼎を両手で捧げもたせて土をかぶせた。遊牧民 はこうしてついに理由を知ることなく長壁の全重量を永久に支えることとなったのである。 私たちの受持区域は黄土地帯からへだたっているので、土や日乾し煉瓦をはこぶために牛車 さんたん の隊が現場とはるか遠方の辺境の町を往復した。私たちは苦心惨憺して粘土を掘り、岩をつ きわく らぬいて井戸をつくると、牛車のもってくる黄土をおろして水でねり、木枠にはめて陽に乾 かし、できた煉瓦を一箇ずつつみあげた。長城がのろのろと荒野を這って丘につきあたると、 煉瓦は馬や牛の背で丘のうえにはこびあげられ、崖があればそのまま崖を壁に利用した。私 たちの目的はとぎれとぎれになっている遺跡をつなぎあわせることであって、遺跡の城壁そ のものの改修は後続部隊がやってくれることになっていた。しかし、荒野は東西南北見晴ら すかぎりただ岩と砂ばかりで、進路の目標になるものはなにもなかった。そこで現場監督は 作業を指揮するかたわらしじゅう太陽と星に進路の指示を仰いだ。私たちはこの単純きわま る作業を無数の小部分に分解した。黄土をおろすものは黄土をおろし、水を汲むものは水を 汲み、煉瓦をはこぶものはひたすら煉瓦をはこんで、いっさいそれからさき自分の力がどう がけ
みあげる衝動をおさえるために、あわててウイスキー瓶に手をのばした。とうとう大田氏は 自分から不用意にも嘘を告白したのだ。城壁には穴があいたのだ。彼はぼくの顔にもれた笑 いをみて幸福そうにソーフアへもたれると葉巻をとりだし、たんねんに匂いをかいでから火 をつけた。彼の偽装にぼくはふたたび迷わされなかった。すでに彼はひとりの中老のロ達者 な絵具商にすぎなかった。なるほど彼は強大だ。デンマーク大使をそそのかし、文部大臣を ろうらく 籠絡し、日本全国の子供と教師を動員する。しかし息子の太郎はクレ。ハス一本うごかせない であえいでいるではないか。児童画の生理など、大田氏にはなにもわかっていないのだ。そ 様 れは彼にとって器用不器用の問題でしかない。学校教育の実情が人間形成を考えないといっ 王て攻撃するのはまったくお題目にすぎなかったのだ。彼は息子を大学に追いやることしか考 のえていないのだ。 邸の静寂がふたたびばくにもどってきた。この家は考えると太郎そのものであった。美し くて、整理され、しみも埃りもないが空虚であった。部屋は死んだ細胞だ。みんなそのなか に隔離されて暮らしている。声や息や波が壁をふるわせることなく、主人は自室で下宿人の ように暮らしているのだ。 「たいへんたちいったことをおたずねしますが : 大田氏はぼくの声で顔をあげ、葉巻をくわえたままうなずいた。 「奥さんは太郎君の友達を御自分で選ぶというようなことをなさいませんか ? 「やるかもしれませんな。あれはしつけがやかましいから」 163