らされていなかったのだ。 俊介を待っ間にニュースを分析した農学者はその夜のネズミの行手に湖がひろがっている ことを地図で発見した。市から一〇キロほどはなれた、いつもはモーター・ポート・レース などのおこなわれる観光地である。いままでのあらゆる記録にしたがって仮説をたてた農学 者は衝動の発見された現場を観察したい好奇心をおし殺して湖へ先回ることにした。賭けで ある。 町を出ると農学者は自動車に全速力を命じた。自動車はいまにも解体しそうなきしみをあ げて田畑や林をかすめ、山道をのばり、高原を疾走した。むだなことはわかっていても、農 うわさ 学者は途中で山番の小屋や炭焼人の家を見つけるとかならず車をとめ、ネズミの噂をたしか ニめた。どこでも満足な答えは得られなかった。ネズミはどこからともなくあらわれてどこへ ともなく消え、音信を断ったのだ。湖に行きつくまでの間、俊介はひっきりなしに農学者の おくそく 発する仮説への疑問や臆測に置まされつづけた。農学者は割れそうな頭痛にうめく彼をつか まえて自説に強引な賛成を要求したかと思えばふいに自信を失って子供のようにしおれたり、 だまりこんだかと思うと急に元気づいて喋りだしたりして、まるで熊のようにめまぐるしく 仮説のまわりを往復するのだった。 くら 「もし見つからなかったら君のせいだ。君がただ酒食っている間に敵は逃げたのだ。ちっと やそっと安酒をおごってもらったくらいでは承知できないよ。覚悟するがいい クス先生」
舌打ちしたり、ののしったりしている相手のとりみだしように俊介はあっけにとられた。 かっこう 農学者は後部席に酔いたおれた俊介のだらしない恰好を見て吐きすてるような口調で説明し 「移動だよ、ネズミが移動をはじめたんだ。早く行かなきや間に合わない。おれは生まれて はじめて見るんだ」 おだてられるような日本酒特有の酔いにしびれていた俊介は農学者の言葉でショックを感 じ、ふらふらしながら体を起した。 一匹がさいしょに衝動を感じて走りだしたのかわからないが、ネズミの軍団 王どの林にいこ しようちゅう 裸の一部がその夜移動したのである。一人の木こりがそれを目撃した。焼酎を飲んで村からの ク帰り道にその木こりはおびただしい数のネズミが雑木林や草むらからあふれて路上を横ぎる 」ところを発見したのだ。彼はそのまま自転車をもどして村の駐在所にかけこんだ。若い巡査 は博物学者ではなかったので説明しようのない異常をそのまま電話で県庁へ報告するよりほ かに方法を知らなかった。ニュースがまわりまわって農学者の家へとどいたときはすでに一 ちょうちん 〇時をすぎていた。その間にも村人たちは懐中電燈や提灯で道を照らし、総出でネズミをた 勝負はつかなかった。暗がりのためにくわしいことはわからな たき殺し、踏みつぶしたが、 いか、殺された数とは比較にならないほどのネズミの大群が道を横ぎって夜の高原に消えて いった。この知らせがふたたび電話で県庁にったえられたとき、農学者は市内の屋台店や安 酒場をシラミつぶしに歩いて俊介をさがしまわっていた。彼はイ介から秘密会議のことを知
失敗したって、とくにばくの地位がどうのこうのということはないと思うんですよ」 農学者は彼の話に耳を傾け、廩重にひとつひとつの言葉を考えているようだった。その様 はだ 子を見て俊介は上申書の件以来この男をただ世間知らずの学究肌の人間としてしか考えなか った自分の浅さを悔いたいような気持になった。おそらく彼のあやふやな説明で相手は納得 しないだろう。次に切りこまれたらどう受けようかと彼は逃げ道をあれこれ考えた。はじめ から彼は恐荒をカの象徴と考えて来たのだ。災厄は偶発事件ではない。 この島国の風土を無 はんらん 視した生命の氾濫現象は一二〇年前から着々と地下に準備され、起るべくして起ったもので 王ある。はじめて農学者からササの実とネズミの関係を知らされたとき、彼はそのイメージの 裸正確さに感動し、緊張した。その後山歩きのたびに彼は数式の因数がつぎつぎと出現して項 クがピタリピタリと満たされてゆく快感をつぶさに味わったのだ。連日連夜、東奔西走してネ ヒズミの大群と格闘する。その欲望を支えているものがじつは戦争ごっこのスリル、一種の知 的遊戯に近いものであるといったらこの男は満足するだろうか。それよりも、むだと知りな がらも組織を通じて蚤物と闘って自分の力をじかに味わいたいのだという方が親切だろうか。 「どうしてほんとうのことをいってもらえなかったのかな」 農学者はあきらめたように顔をあげ、おだやかに微笑して不平をつぶやいた。 「ばくだって君が純粋に社会的良心からやってるんじゃなかろうってことぐらいは認めるよ。 たいくっしのぎもある。出世欲もあるだろう。しかし : 農学者はそこで言葉をきると嘆息した。
臭を熱い酒がかきたてたのだろう。全身から生温かい匂いを発散していた。 「知事がね、いってるそうだよ」 課長はするどい眼にいつもの傲慢な薄笑いの表情を浮かべ、うまそうにこのわたを吸った。 「君は東京の本庁へ栄転だってさ。一週間の特休もっくそうだし、たいした出世ぶりじゃな くよう いか。ネズミ供養しなくっちゃいけないね」 ( けむたがられたな : : : ) 俊介はしらじらしさのあまり点をつける気にもなれなかった。はげしくわびしい屈折を感 ッじて彼は腐った肉体に頭をさげた。 ニ「負けましたよ、課長。みごとに一本とられました : はじしらずに泥酔して帰った俊介を待っていたのは農学者だった。彼は古タクシーをやと エンジンをかけつばなしにして、体じゅうに悪魔じみた精力をみなぎらせて俊介の家の みぞ 前にがんばっていた。彼は酒の溝に寝ていたのかと怪しみたくなるばかりに酔いしびれた俊 介をものもいわすに自動車へおしこみ、運転手に全速力を命じた。自動車は深夜の町をきち がいじみた速度で走った。駅前や商店街や辻でほかの自動車とぶつかりそうになって徐行す るたびに農学者は床を踏み鳴らしてくやしがった。 「どうしたんです ? こうまん
ク ッ の新解釈だね」 農学者はそこで一息つくと腰をすえて食いさがって来た。 「しかし、君。君はどうやら方針をまちがったらしいね。なぜなら、ミニ・マックス戦術と さいやく いうのなら、どうしてネズミがわいても知らん顔をしていなかったのだ。今度の災厄は君が どうジタバタしたってかないっこないんだよ。最大のエネルギーを使って最大の損失になる んだ。これほどむだなことはない。おまけに、上層の奴らはこの事件に手を焼いて責任を全 部君にかぶせてくるかもしれないんだ。そこを、君、どう計算しているの ? 」 「たいくっしのぎですよ」 俊介の答えに農学者はあっけにとられたらしくボカンと口をあけた。厚い眼鏡の奥でまじ みは まじと眼を瞠っている相手の様子に俊介は後悔した。彼は相手の言葉に好意を感じたし、自 分をするどく追いつめたその思考の速度に敬意を抱きもしたので、こんなはぐらかし方をす ることはいかにもやましい気がした。彼はいそいで言葉をつけたした。 「たいくっしのぎなんです。もちろんぼくは役人ですから自分の地位を高めるためなら他人 をだしぬいてでも点数稼ぎをやりたいと思います。ミニ・マックス戦術ということも考えま けんたい す。しかし、今度のネズミ騒ぎは、それよりなにより倦怠から逃げたくて買って出たことな んです。良心からとは思えないんですよ。それに、おっしやるとおりこの災厄はばく一人の 手ではどうにもならぬことくらい誰にもハッキリわかっていることなんですから、たとえ かせ
た薄明の沖からはつぎつぎと消えてゆく小動物の悲鳴が聞えてきた。その声から彼の受けた ものは巨大で新鮮な無力感だった。 一万町歩の植栽林を全滅させ、六億円にのばる被害をの こし、子供を食い殺し、屋根を剥いだ力、ひとびとに中世の恐怖をよみがえらせ、貧困で腐 敗した政治への不満をめざめさせ、指導者には偽善にみちた必死のトリックを考えさせた、 らんび その力がここではまったく不可解に濫費されているのだ。 えり 俊介は服の襟をたてると寒さしのぎに砂のうえをせかせかと歩きまわった。暁の湖岸の微 風はナイフのようにするどかった。新聞にはこの光景が劇的に書きたてられるだろう。風の 向きでどちらの岸になるかわからないが、いずれネズミの死体は岸へ打ちあげられて山積み ツになるのだ。局長はだまってダンヒルをくゆらせ、地下組織壊滅の知らせをトスカニーニと ニともに聞くだろう。ひとびとは細菌と革命を忘れ、地主たちは植栽補助金争奪戦にのりだし、 課長は新しい汚職を考え、そして田舎町はふたたび円周をめぐるような平安な生活にもどる のだ。このパニックの原動力が水中に消えるとともに政治と心理のパニックもまたひとびと の意識の底ふかくもぐってしまうのではないだろうか。深夜の町の若い声はひとびとの夢の なかへ入っていけるだろうか : 俊介は足もとを必死になって走ってゆく灰色の群集を眺めて、うしろの農学者に声をかけ 農学者はよれよれのレインコートの襟をたて、うそ寒そうな表情で肩をすくめていた。 「これからどうなるんでしよう ? 「もう終ったよ。あちらこちらで残りの奴がおなじように逃げだすかも知れないが、事実は やっ
終ったも同然さ」 「町にはドプネズミがいますよ」 「たかが知れてる。あいつらは下水管に陸封されたようなもんだからね。一匹すっシラ ミつぶしにやつつけていけばいいのさ」 しばらく考えてから俊介は顔をあげ、薄明の霧のひかった湖をはるばる見わたした。 「名前をちょっと思いだせないんですが、スコットランドになんとかいう湖がありましたね。 あの、前世紀の怪物がでるとかで名所になった」 王「ロッホ・ネスのことかい。ロッホ・ローモンドというのもあるよ」 裸農学者はすっかり酔いがさめて小きざみにふるえている俊介の恰好を見て皮肉な眼つきを クした。 これはた 「怪物はどうだかあやしいもんだが、とにかくウイスキーの名所ではあるらしい しかだね」 俊介は苦笑して手をふった。 「いや、そうじゃない。ばくはこの湖にその名前をつけたらいいと思ったんです」 「どうして ? 」 「一二〇年たっと、またササがみのってネズミがでてくるわけでしよう。つまり連中は死ん だのじゃなくて、ただ潜伏期に入っただけなんだと考えてもいいわけですね。だからここに は怪物が寝ていると立札をたててもいいと、ばくは思った」 ランド・ドック
ク きびす どて 農学者はだまって肩をすくめると踵をかえし、湖岸の土堤に待たせてあった自動車の方へ 草むらを去っていった。俊介はそのあとを追った。沖の方ではしきりに小さな悲鳴が聞えた。 帰りの自動車では、俊介は運転手から毛布を借りて眠った。眼がさめるといつの間にか車 あさひ は高原をおりて田んばのなかの街道を走っていた。軽金属のような朝陽が林や畑のうえに輝 いていた。それを見て俊介は、新鮮な経験、新鮮なエネルギーが体を通過したあとできまっ て味わう虚脱感をおばえた。なにげなく窓の外を眺めた彼は、街道を一匹の猫が歩いている のらねこ のを発見した。やせて、よごれた野良猫である。車の音がしてもおどろかす、ちらりとふり かえっただけで、そのまま道のはしを町の方向にむかってゆっくりと歩きつづけた。皮肉な 終末だと俊介は思った。あるわびしさのまじった満足感のなかで彼は猫にむかってつぶやい 「やつばり人間の群れにもどるよりしかたないじゃないか」 ( 「新日本文学」昭和三十一一年八月号 ) ねこ
課長をしたがえて部屋をでていった。 あとにひとりのこされた俊介は緑金砂をぬった薄い壁ごしに聞える雪どけ水のはげしい川 立日に耳をかたむけた。窓のすぐしたを川は流れていた。彼はそのむこうの夜の底にひしめく けものたちの歯ぎしりをひしひしと体に感じた。 彼は放送局の録音室を思いださずにはいられなかった。その部屋の静寂は異様である。壁 とガラスとカーベットによってそこには完全な静寂が保たれている。放送局以外には地上の どこにも存在しない状態である。ひとびとは厚いガラス窓ごしに室内の人間に命令をくだす。 命令を受けた人間は部屋が爆破されるその瞬間まで壁の外にひしめくいっさいのエネルギー とびら の気配を知らずに演技をつづけるのだ。局長が彼に命じたのはこの部屋の扉を閉ざすことで はなかったか。 使い古された手だ。これは局長の独創でもなんでもない、 使い古された手だ。いままでに 指導者たちは過度のエネルギーが発生するたびに何度もこの手を使い、自分に肉薄する力を すべて幻影に仕立てて大衆の関心をそらしたのだ。そしてそのあとではきまってどこかで爆 発が起ったのだ。 ( やつばりあいつの方が当ったな ) 俊介は、 ) しつか酒場で農学者のいった忠告を思いだした。そのとき玄関で課長が局長に別 あいさっ れの挨拶をする声が聞え、つづいて仲居や女中をともなって高声に笑いながら廊下をこちら へもどってくる気配が感じられたので、俊介はいそいで体を起した。
「しかし、君、そのために君は課長の感情をえらく損ねたろう ? もともとそそのかしたの はばくなんだから、恥をかかしたナとあとですまなく思ったよ」 「けれど現にネズミがわいたんですから、あのときのマイナス二〇点はいまじやプラス四〇 点か六〇点ぐらいにはなっていますよ。ばくはそう計算したんです。気になさることはあり もう たた ません。ぼくは儲けていますからね。もしあのときもっと抵抗していたらそれを叩いた方は いまとなると完全に立場がなくなってしまいます。ばくはますますけむたがられてマイナス ばかりになるわけですよ」 王「だから黙っていたんだね ? マキシマム 裸「そうです。あのときは後のことを考えて最小のエネルギーで最大の効果をあげようと思っ クたんです。つまりミニ・マックス戦術ということになりますかね : : : 」 「ミニ・マックス ! その言葉は君の発明かい」 研究課長が横道にそれてにわかに学者的な興味を抱いたらしいので俊介はハイボールに逃 げることにした。これは聞きかじりの推計学用語を勝手に拝借したにすぎないのだ。彼は ボーイをつかまえて番茶のように薄いハイボールの文句をいった。どうやら研究課長はその せんさく やっかい 間に新語を詮索することを思いとまったらしかったが、そのかわり俊介は厄介な質問に立ち むかわねばならないこととなった。農学者は三杯めのハイボールにおぼれかかりながらも手 をのばして彼の急所にふれたのである。 「ミニ・マックス、うまい言葉だな。最小のエネルギーで最大の効果を、か。沈黙は金なり ミニマム