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検索対象: 宗教の話
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1. 宗教の話

ることになった。とはいってもむろん、『般若心経』の言葉それ自体が変化したというので はない。なぜなら、『般若心経』のテキストという点では、インドのものも中国訳のものも 日本人によって唱えられてきたものもすべて同一であり、辞句の点で大きな変化はみられな いからである。 そこに独自の発展や変化がみられるのは、テキストそのものにおいてではなく、日本にお けるこの経典の受容の仕方においてであった。『般若心経』を唱える作法においてであった といってもよい 。とりわけ近世になって、民衆のあいだに聖地巡礼の風が一般化したときか ら、『般若心経』はしだいに日本人全体のバイプルになっていった。西国三十三観音霊場や 四国八十八札所が形成され、巡礼プ 1 ムがおこったことが大きな機縁になったのである。 しかしながらこの『般若心経』は、もしもそのテキストだけが唱えられていたとしたら、 おそらく民衆のあいだにあれほど流行することはなかったのではないであろうか。寺院の内 部で静かに読誦され、学問僧や修行僧のあいだで細々と研究されるだけではなかったかと思 う。それが広範な人びとの心をつかむようになったのは、ひとえに「御詠歌」の詠唱と結び ついたからではないか。哀調をおびた巡礼歌の曲詞と重ね合わせて読誦されるようになった とき、『般若心経』は新しい転身をとげることになった。インド産の『般若心経』とはひと 味もふた味も違う日本産の『般若心経』が生みだされることになったのだと思うのである。

2. 宗教の話

しれない。「カルト」と「隠匿物資」のあいだに因果の糸がはられているらしいことに疑念 を抱きいらだちをつのらせながら、しかし確たる証拠をつかみだすことができない。その土 壇場で宗教社会学的な思考実験はどうするのか。すなわち逃げ道をどこに求めるのかという ことだ。 そこからでてくる一つの選択は、すべてその先のことを警察の捜査にまかせるという逃げ 道である。餅は餅屋、その道のプロにまかせるということだ。犯人を「カルト」と名指しな がら、最後の検挙は司直の手にゆだねる。その検察の内部で明らかにされ、そこからリーク される情報にもとづいて、ふたたび宗教社会学的思考を作動させるという行き方である。利 ロな選択といってよいだろう。 もう一つの方法が、当の異常なカルト集団を精神病棟の中に隔離してしまうという逃げ道 である。カルトと隠匿物資のあいだの因果の糸をたどることを断念して、異常な教祖 ( しば し しばカリスマと呼ばれる ) を変質者、先天的サギ師、多重人格者等々のカテゴリ 1 に格づけ なして、われわれの正常社会や正常心理の側から追放してしまうやり口である。このとき宗教 社会学的思考は、「カルト」を分析しその存在を証明する権利を、宗教社会学の側から精神 論 袵病理学の側へとひそかに譲りわたすことになる。狡猾な選択であるといってよいだろう。 無 115

3. 宗教の話

阿弥陀浄土と弥勒浄土 それでは右にみてきた阿弥陀浄土 ( 西方浄土 ) にたいして、同じ浄土世界を代表するもう みろく 一つの弥勒浄土の場合はどうであろうか。この弥勒信仰についてもインド仏教と日本仏教の あいだに観念上の相違がみとめられるのであろうか。弥勒浄土というのは弥勒菩薩 ( もしく とそってん しゆみせん は弥勒仏 ) が住んでいるとされる兜率天のことだ。兜率天というのは須弥山のはるか上空に あって、弥勒仏がもろもろの天人のために説法している浄土のことだ。インドの宇宙観では さきの阿弥陀浄土が西方十万億土の彼方に存在するのにたいして、こちらの弥勒浄土 ( すな わち兜率天浄土 ) ははるか上方の天空にあると想像されていた。前者が水平線上の地の果て に位置づけられているのにたいして、後者が垂直線上の空なる一点に位置づけられていたわ もう一つ、西方浄土と兜率天浄土のあいだには重要な違いがあった。なぜなら阿弥陀仏の 西方浄土は、われわれの死後そこでただちに往生 ( 救済 ) が約束されるのにたいして、弥勒 仏の兜率天浄土はかならずしも弥勒による救済がそこで実現される浄土ではなかったからで ある。すなわち地上で命終えたものが兜率天にのばった場合、死者はそこにいます弥勒とと もに生活し、やがて五十六億七千万年の歳月をへたのち弥勒が地上に降下して説法するのに 際会して最終的な救いをうるとされたからである。 ー 00

4. 宗教の話

済活動と宗教倫理のあいだに緊張と対抗の関係がみられなかったのである。 それだけ日本の伝統的宗教が世俗化していたということだ。さきの伊藤博文が、日本の伝 統的な仏教や神道を新生の明治国家の「機軸」、すなわち西欧のキリスト教に対応するよう な「精神原理」とすることはできないと認識したのも、無理からぬことであったといわなけ ればならない。 しかしふり返って考えてみれば、日本の伝統的な宗教 ( 仏教と神道 ) が徹底的に世俗化し ていたればこそ、日本の近代化は短時日のあいだに効率のよい発展をとげることができたと もいえるのである。明治百年の近代化の過程のなかで、「宗教」はほとんどその阻害要因と してはたらくことがなかった。葬式仏教という名の仏教の空洞化と、宗教としてのタガを外 された神道の非宗教化 ( 祭祀と宗教の分離 ) によって、伝統的な仏教と神道は明治国家によ る近代化という大事業をただ傍観者として眺める地位に退けられていたのである。 もっともその代償として、明治の近代国家は「国家神道」という人工的な疑似宗教をつく りだすことになった。なぜそれを人工的な疑似宗教と名づけるのかというと、それは表面的 にはあくまでも国家の機軸をなす非宗教的な国家祭祀として位置づけられていたからである。 そして現実的には、この人工的な国家神道は周知のようにもろもろの諸宗教の機能をこえる 超国家的な精神原理 ( Ⅱ一神教的神道宗教 ) として無類の支配力を行使したのである。その

5. 宗教の話

きわめて類似した世界に足を踏み入れたことを実感するからである。 いわば、納豆トライアングルに象徴される発酵文化がそこに姿をあらわしはじめるからで はないだろうか。ともかく、インドとミャンマーのあいだには、目に見えない文化の障壁が 大きく立ちはだかっている。日本の演歌が東南アジアにひろがり大流行をしているのも、ひ よっとするとそういうことが関係しているのかもしれないのである。 山山 9 6 6 014 6 ー 6 01 194

6. 宗教の話

海上遭難奇譚への異常な興味 まず、『奇談雑史』の方からうかがってみよう。同書巻二に載せられている「無人島漂流 人の事」がそれにあたる。このほか巻八に「流船にて助かりし人の事」がみえるが、質量と もに前者の雄篇の迫力にははるかに及ばない。 その「無人島漂流人の事」によると、天明七 ( 一七八七 ) 年の冬、大坂堀江の亀次郎とい う商人がもっていた船が、下総銚子の沖で嵐にあい漂流をはじめた。のりこんでいたのは総 勢十一人、六十日のあいだ海に漂い、無人島に着いた。ところがその島には土佐出身の船乗 りが、同じように漂着して生きのびていた。そのときからかれらは魚鳥をとって食いつなぐ 穴居生活をはじめるが、三年すぎて六人乗りの遭難船が漂着し、先住者といっしょになって 暮すようになる。やがて年月を重ねるうちに、一人死に、二人死にして、事態が悪化してい った。あるとき、誰からいうともなく船を造ろうと声があがり、材料を集めるところからは じめて三年の歳月をかけて完成させる。魚鳥などの干物、ためこんだ雨水を積んで船出した ところ、五日ばかり海上を走って、ようやく伊豆七島の一つ、青が島に漂着した。ときに寛 政九 ( 一七九七 ) 年の六月十三日だったというから、十一年のあいだ無人島で生活していた ことになる。かれらはただちに青が島から八丈島に送られ、さらに江戸に運ばれてそれぞれ の国許に帰された。 232

7. 宗教の話

むろん私はこのような問題をとらえて、いたずらに今後の日本の行く末に悲観論をまきち らそうという魂胆があるのではない。そうではなくて、このような状況を歴史的にどのよう に位置づけどう考えていったらよいのかということを問うてみたかっただけである。そして そのように考えるとき、私の眼前にあらわれてくるのが小論の冒頭で提出したサルトルとレ ヴィⅡストロ 1 スのあいだで展開された論争だったのだ。 とりわけレヴィⅱストロースのいう「強い歴史」の考え方が強烈に脳裡に蘇る。近代への 志向生をはらむ「弱い歴史」にたいして、いわば超歴史的ともいうべき「強い歴史」にかん するその透徹した洞察が、私の心を強くとらえる。その「強い歴史」という尺度による歴史 観に立っとき、「宗教」と「民族」という問題がこれまで以上に大きな意味をもって浮上し 史てくるのではないだろうか。 歴 九五年になって、突如としてわれわれに襲いかかってきたオウム真理教の事件も、まさし 学 政くそのことをわれわれの眼前につきつけているのではないかと思うのである。 後 戦 れ 忘 を 教 宗

8. 宗教の話

たけれど、それでも人に誘われたり、人を誘ったりして行く。ほろ酔いで調子づき、おだて られたりして、つい二、三曲うたってしまう。 そんな行きつけの店の一つで、ここ数年のあいだにすっかりさま変りしてしまったのがあ る。それというのも、そこで働いているホステスさんのほとんどが、いつのまにか東南アジ ア出身の女性で占められるようになったからである。 その彼女たちが、じつに上手に日本の演歌をうたう。むろん日本の歌だけではないのだが、 日本の演歌も堂々とうたう。 とはいっても、日本語そのものはたどたどしい。おそらく歌詞の意味も正確にはつかんで いないのだろう。私なんかが外国語の歌をうたうとき、その内容をきちんとおさえていない のと大差はない。 たぶんそのためであろう。彼女たちの顔はじつにさばさばしている。演歌にはっきものの、 別れとか嘆きとか未練などの表情や感情の動きが、みじんもみられないのだ。 当たり前といえば当たり前な話である。だが私は、その東南アジア出身の歌姫たちがうた う演歌に、不思議な魅力を感じるようになった。美空ひばりがうたう演歌とは、まるで違う 質の演歌がそこに流れていることを楽しむようになったといってもよい。外側からきく演歌 も、それはそれで悪くはない。演歌の国際化ということがあるとすれば、それはこういうも 190

9. 宗教の話

合理的仏教の終着駅 感性の宗教というのは、音楽や演劇などの芸術的なパフォーマンスと結びついた宗教とい へうことでもある。宗教の回路に美的な感覚を動員することといってもよいだろう。 宗 これからの宗教は芸術とのあいだの境界を取り去り、むしろそれを積極的に取り入れるこ の とによって新しい活力を蘇らせるのではないだろうか。宗教の最高形態は芸術であり、同じ 感 そういう時代がそこまで到来していると私は思っ ように芸術の最高形態が宗教である、 ているのである。 教 宗 の しかしそうはいっても、それはあまりに楽観的にすぎる観測ではないか。日本列島の内部 葉だけで自足してしまうような、自閉的な美意識に偏りすぎた認識ではないか。そういう声が 聞こえてくるような気がする。なぜなら世界ではあいかわらず悲しい無惨な事件ばかりおこ ある意味で、オウムの若者たちが過激な形でやろうとしたことだった。 そのような体験をどのようにして、われわれ自身の手元にふたたび引き寄せるのか。その ためには、まず僧職者と信者の垣根を低くする必要があるだろう。教団ごとの教義的な自己 主張を抑制していくエ夫が必要となるにちがいない。

10. 宗教の話

往生す、い力。し冫 ゝこ ) よんや善人をやと》 「悪人」こそがまっさきに往生する人間なのだ、という逆説にみたされた親鸞の宣一言である。 われわれは長いあいだその逆説に惹きつけられ、そこに人生の真実を見出し、その言葉のも っ普遍生をほとんど疑うことなくそのまま受容してきた。 しかしその親鸞の逆説を、今日、麻原彰晃の身の上に擬してその運命を考えようとする人 間が、はたしてわれわれの周辺にいるか。もしも親鸞が七百年の歳月をとびこえて現代の日 本に来迎してきたとしたら、かれをどのように迎えたらよいのだろう。ドストエフスキーの 大審問官よろしく、「今、あなたに出てきてもらったら困るのだ、早々に立ち去ってもらい たい」といって追い返してしまうのだろうか ニつの「悪人成仏」論 われわれは今、知らず知らずのうちに親鸞を裏切っているのかもしれない。かれの『歎異 抄』の思想を記憶の背後に押しこめようとしているのかもしれない。日本近代百年のなかで いつも光り輝いていた親鸞の像が、にわかにかげりを帯びてきたのである。その原因は時代 の急激な動きにあるのか。それともわれわれ自身の側にあるのか。