月の第五日であった。生家の農園には五人の働き手がおり、農業をおこなっていたが、牛や 馬を所有し庭では野菜類を栽培していた。 その当時までチベット世界に君臨していたのは、ゝ しうまでもなくダライ・ラマ十三世であ った。かれは一八七九年にダライ・ラマの地位にのばってから、半世紀以上もチベット政界 の頂点に立っていた。そして一九三三年に世を去った。本章の主人公の十四世が農民の子と して生まれる二年前のことである。 ダライ・ラマ十三世が死んだ直後、ただちにかれのために壮麗な金の霊塔が建てられた。 この豪華な霊廟はダライ・ラマ十三世のミイラを納めるためのもので、チベットの首都ラサ にあるボタラ宮殿の内部に建立された。一方、十三世の死とともに議会が招集され、摂政が 選出された。また次代の後継者を見つけるため、神託を告げる人と学識ある僧も選ばれた。 ダライ・ラマは結婚をせず、したがって子供もいない。したがってダライ・ラマの王位は、 血族相続によって継承することができないのである。 他方、死んだダライ・ラマ十三世の遺体はラサの夏の離宮であるノルプリンカ宮の玉座に 南面して坐らされていた。ミイラにするための処置もこの間にほどこされたのであろう。さ きにのべたように、ボタラ宮殿に本式の霊塔が完成した段階で、十三世のミイラ化された遺 体は宮殿内の霊塔に移され、永遠の活仏として奉安されることになった。「活仏」というの 2 00
篤胤と参沢および宮負の三者の関係が神隠し少年の霊験を軸に語られているのであって、そ れをのぞいてみることにしよう。最初に、まず現世と幽世についての議論、ついで三者の結 びつき、というエ合に話は進行していく。 まずはじめの議論であるが、現世のことは天孫ニニギノミコト ( すなわち天皇 ) が主宰す べきであるが、幽世はオオクニヌシノミコトの所管事項である、という。また幽世と現世は 画然と分れているものだが、その場合、幽世が「本」で現世が「末」であることを忘れては ならない。すなわち現世においては政道 ( 政治 ) をもって形を慎しむものであるから「末」 であるが、幽世は神の教えをもって心を修める徳を積むところに本質があるから「本」であ る。この幽・現にかんする「玄妙なる理」を考えだしたのが師・気吹廼舎の平田大人なので たまのみはしら 学あって、その思想が『霊能真柱』という著述になって実った。 国 しのびがおか の ところが去る文化九 ( 一八一 (l) 年、大江戸は忍岡のあたりに住んでいた高山寅吉なる 不思議な童子が、神仙 ( 山人 ) に誘われて神隠しにあった。あとから明らかになったところ によると、常陸国岩間山に往き、その山人の弟子となってさまざまなことを学び、ふたたび す 大空を翔けてこの世にもどり「幽世」のことを人びとに伝えた。それをきき知った大人が寅 界吉少年を呼び寄せ、その物語るところを記したのが『仙境異聞』にほかならない。それだけ 神 ではない。大人はさらに和歌をつくって少年に与え、山人にとどけさせるほどの心の入れよ 229
は「生き仏」ということである。チベットではとくに仏や菩薩の化身として尊崇されてきた。 こうして、次代の聖位を継ぐべき後継者を探索する試みがおこなわれることになる。この 後継者のことをとくに「転生者」という。死んだダライ・ラマ十三世の生まれ変りという意 味で転生者と呼ぶのである。 転生者の探索にはいくつかの手続きがあるが、その一つが、奇譚の発見とその解釈である。 十三世の死後、ラサの東北の空に奇妙な形の雲が湧きあがった。ノルプリンカ離宮で南面し ていたはずの十三世のミイラが、数日たってその顔を東向きに変えた。聖堂の東北側の木の 柱に、星の形をした大きなキノコが出現した。 これらのサインによって、転生者はラサの東北にあたる地域に住んでいると判断されたの ラである。また摂政は摂政で、ラサの南東約九〇マイルの地点の聖なる湖におもむき、その水 面に映った三つの文字によって啓示をえた。 ダ こうして的がしだいにしばられていった。高位の僧と下級の僧が特命をうけ、現地の僧と 聖チームを組んで探索への旅がはじまった。試行錯誤のはてにようやく目的の地にたどりつき 運命の子と出会う。 浪その子は、チームの一人がさりげなく首にかけていた数珠を指して、それをくれといっこ。 流 実を」えば、そ 0 数珠 = そはダライ・ラ十一一一世が日ごろ愛用して」たも 0 であ「た。「〕 20 ー
マ 五歳で即位 ダ ダライ・ラマ十四世は数奇な運命の星の下に生まれた人である。かれは生まれながらにし 聖てダライ・ラマになった稀有の人であるが、しかしそこには、転生劇という世にも不思議な 物語が付随していた。ここではとりあえず、その概略をつかんでおくことにしよう。 浪ダライ・ラマ十四世は一九三五年に、チベットの東北部にあるタクツェルという小さな村 きのとい 流 ( 青海省湟中県 ) に普通の農民の子として生まれた。チベット暦でいうと、乙亥の年の第五 ノ ) の中に奉安されている。 霊塔 ( ストオ 1 。、 要するにボタラ宮殿は、政庁であり聖堂であるとともに葬所でもあったということになる。 政治と宗教のセンターであると同時に、遺体の永生を保証する霊廟でもあったのである。 だが、その壮麗な建物は、いまは主なき宮殿となっている。観光客が訪れる記念堂と化し ている。本来その宮殿の主人となるべきであったダライ・ラマ十四世は、ノーベル平和賞を 授与されたとき、非暴力の原則を堅持してチベット問題の解決にあたりたいといっていた。 チベットの「独立」は、チベット在住者はもとより、インドなどへの難民・亡命者にとっ ての悲願であるのだが、はたしてその日はいつくるのだろうか。
みが、複雑な明暗を浮きあがらせているのである。なかでも『教行信証』と『歎異抄』のあ いだにみられる考え方の相違が、ここでは重大な問題となる。 まず最初に注意しなければならないのが、『教行信証』においては「悪人往生」のテーマ はそれ自体としてそれほど強調されてはいないということだ。『歎異抄』で知られる「悪人 正機」の説が、そこではかならずしも全面的に展開されているわけではないからである。 この点はこれまで見逃されてきたところだけに、きわめて重要なポイントであると私は思 親鸞が『教行信証』において悪人往生や悪人成仏の問題につよい関心をもっていたことは もちろんいうまでもない。さきにふれた父殺しの大罪を犯した阿闍世王の物語を、長文にわ たって引用していることからもそれはわかる。『教行信証』の「信巻」に引用されている『大 般涅槃経』の文章がそれだ。そのことから判断すると、極重の悪人の阿闍世王といえども、 阿弥陀如来によって最終的に救われると親鸞が考えていたことは明らかである。 それでは親鸞は、この大逆罪を犯した阿闍世王が阿弥陀如来によって無条件に救われると 考えていたのであろうか。阿弥陀如来の救済の光明はどんな「悪人」にたいしても平等に注 がれると考えていたのであろうか。だが『教行信証』を慎重に読みすすめていけばわかるこ とだが、かれはけっしてそんなことをいってはいないのである。なぜなら親鸞は、「悪人」
の心の中にゆらぐことなく、確かな形で住みつづけているといってよいだろう。ダライ・ラ マは一所不住の旅の人ではあるけれども、チベット人にとっては不滅の聖者なのである。 しかし古来、不滅の聖者というのは亡命・流浪の人であった。い うまでもないことだが、 インドの仏陀がそうであり、イスラエルのイエス・キリストがそうであった。これに中国の 孔子をつけ加えてもよいだろう。 あんぎや かれらは故郷から離れて、その生涯を旅の中に送った。行脚を重ねていく中で人びとに出 会い、迫りくる飢えと孤独のなかで思索を深めていった。かれらは人びとの前ではつねに真 実を語ることをもって使命としたが、ふたたび人びとの群から離れていく。その離れゆく大 きな背中をみて、人びとは底知れぬ安堵と深い悲しみの感情を胸に抱いたのである。 現代世界においては、はたしてそのような不滅の聖者にわれわれは接することができるで あろうか。キリスト教、仏教、イスラーム教の宗教世界に、そのような果てしなき旅の中に いる聖者を見出すことができるであろうか。おそらくそういう僥倖にめぐりあうことはない であろう。チベットのダライ・ラマ十四世を除いては : そのダライ・ラマ十四世に、八九年、ノーベル平和賞が与えられた。 さきにもふれたが、十四世は五九年のチベットの「動乱」を機に、インドに逃れた。それ 以後、チベット本土に帰還せず、亡命の生活がつづいていた。北インドのダラムサラという 6
「幽世」への関心 宮負定雄がとくにこれら神隠し少年たちの神仙界往来に興味を抱いたのは、むろんかれの うっしょ かくりよ うちに「現世」と「幽世」にかんする強烈な問題意識が芽生えていたからである。そして それは、生前の篤胤がその著作において説きつづけてやまないテーマであった。さきの参沢 明もまた平田の謦咳に接して幽冥界に惹きつけられ、『神界物語』をものしている。その参 沢の書物にたいして、面白いことに宮負が後序を寄せているのである。その文章には、平田 た。さきにのべたようにかれは師の篤胤が逝き父が世を去ったあと、安政元年になって伊勢 の参宮に旅立ち、その足で紀州の和歌山に参沢明を訪ねている。その道中大地震に遭遇しそ の見聞を記録にとどめているが、このときの旅の目的の一つに、参沢と会って嶋田幸安とい う神仙界と自由に往来する神童の消息をきき、できれば面会したいということがあった。だ がこのとき、嶋田はすでに冥界に去っていて、会うことができなかった。いたし方なく参沢 から幸安少年についての情報をききだし、かれの仙界往来の全貌を『奇談雑史』巻十にまと めて記録することになる。篤胤の『仙境異聞』を下敷きにして「寅吉少年」の物語を摘記す るとともに、「幸安少年」の物語をそれと並べて載せたのである。 228
一所不住の旅人 ダライ・ラマ十四世は、亡命の人である。 かれは一九五九年三月十七日、ラサを脱出してインドに逃れた。ラサ市民の武装蜂起と中 国との関係悪化が、その直接の原因であった。 以来、ダライ・ラマは旅の中にある。故国を逃れて、自己の道を歩きつづけている。実際 にかれの身辺につき従う人はわずかであるが、チベット本国でかれに熱いまなざしを注いで いる同胞の数ははかり知れない。世界の各地で同じ亡命・流浪の生活をしいられている多数 のチベット人たちも、ダライ・ラマに精神のよりどころを求めているのである。 その意味でダライ・ラマ十四世は亡命の人であるが、しかしその存在はチベットの人びと 流浪するー聖者、ダライ・一フマ
「出チベット」の三十七年 チベットは地理的に、東に中国、南にインドと境を接している。そのため長いあいだ、中 国およびインドを植民地とする勢力から政治・経済的な影響をうけるとともに、軍事的な脅 威にさらされてきた。一九四七年にインドがイギリスから独立してからは、インドがイギリ スの権益にとって代ってチベットの面前に立ちあらわれた。 小国チベットは、中国とイギリス ( そしてインド ) という両大国の勢力にはさまれ、その 利害の波間に翻弄されてきたのである。 ダライ・ラマも、そのようなチベットの苛酷な運命を身をもって知らされてきた。領土的 きと、つ 即位の儀礼は祈疇の読経を中心にすすめられ、摂政が新しいダライ・ラマに三つの贈りもの すなわち金の仏像、経典、小型のパゴダ ( 塔 ) , ・・ーーを捧げ、祝福のためのスカーフをさ し出した。 第十四世ダライ・ラマが誕生した瞬間である。だがこのとき、その運命の子は、すでに五 歳になっていた。先代の第十三世が死んでから数えると、実に七年の歳月が経過していたの である。 20 イ
うとした。 すると、運転手は手を大きく振って、それは受け取れないという。たんなる遠慮でもなさ そうであった。そして最後に、英語でこういった。 「あなたをここまで運んできたのは、仏陀のスピリットによるものであるから、金はいらな 私は三人の姿を写真にとり、彼らと同じように合掌してバスを降りた。 くだんの運転手が謝礼をことわる理由として、社会主義の精神によってとはいわずに、仏 陀の精神によって、といったことを私は面白いと思った。チベットには仏教の伝統がいまだ に強く残っているということが、肌にふれて実感されたのである。そのチベット仏教の伝統 の中枢に、、 タライ・ラマにたいする信仰が息づいていることを忘れてはならない。 思えばラサは、チベット文化圏における有数の聖地の一つである。とりわけそこは、観音 菩薩を祀る聖地として尊重されてきた。その観音菩薩の聖地の中心には、あの壮麗なボタラ 宮殿がそびえ立っている。 ボタラ宮殿は十七世紀に、、 タライ・ラマ五世によって建てられた。そこはダライ・ラマが 君臨する政庁であるとともに、最高の宗教的権威を象徴する聖堂でもあった。それのみでは オし この建物の最上階の中央には、右のダライ・ラマ五世を含む聖者たち数体のミイラが、 し」