「悲しんでいる人たちはさいわいである。あなた方は慰められるであろう」 ( キリスト教 ) と いうような言葉をもちだす人がいるだろうか そんなことをいう宗教家は、 ) しま日本に一人もいないのではないだろうか。そんなことを いう宗教家がいるとすれば、その宗教家は世の人びとによって軽蔑され、どやしつけられ、 そして最後は無視されてしまうにちがいない キリスト教徒や仏教徒は、おそらくそのようなことを口にする勇気がないのではないと、 私は思う。たとえそういうことをいっても、それらの一一一一口葉がもはや相手の心にとどかなくな ってしまったということを知っているからなのだ。「仏典」や『聖書』の言葉が、今日ほん とうに苦しみ悲しんでいる人びとの心にとどかなくなってしまったということなのである。 かってイエスの言葉は貧しい人びとの心にとどいていた。ブッダの言葉も苦しんでいる人 界 のびとの心をゆさぶっていた。そういう光景が今日、どこにもみられなくなってしまったので 霊 悪ある。 いったいどうしてそういうことになってしまったのか。おそらく「仏典」にでてくる言葉 ム ウ をくり返しているだけでは説得力をもたなくなったのであろう。『聖書』の文句をただオウ オ 代ム返しにいっているだけでは人びとの心に響かなくなったのであろう。「言葉の宗教」が地 時 に堕ちてしまったということかもしれない。宗教の言葉がもっていたような輝きを失ってし
し民衆の支持をえてきたのである。そういう歴史の実態を見ずに、建て前では合理的仏教、 本音のところで先祖供養、といった使い分けをつづけているかぎり、日本の仏教が人びとの 心をつかむことはますます困難になるのではないだろうか。 一にいいたいことは、時代はようやくたんなる言葉の宗教に見切りをつけて、体験の宗 教、感性の宗教、と大きくカープを曲りつつあるということだ。戦後五十年、日本の仏教は あまりにも言語に頼りすぎてきた。仏教の解説や啓蒙に力を注ぎすぎてきた。筆者もそれに 手を貸してきたのであるから、むろん大きなことはいえない。 しかし今日、仏教の言葉は人びとの心を打っことがなくなった。啓蒙や解説の言葉の無責 任な弱々しさに、人びとが気づきはじめたのである。いまわれわれの社会でもっとも強い言 葉を発しているのは自然科学の分野であり、医療の現場ではないだろうか。 たとえば Z ( 遺伝子 ) という言葉がもっ衝撃力、そしてエイズという言葉がもっ無気 味な喚起力がそれだ。今日これらの言葉に対抗しうるような仏教の一一一一口語を、われわれははた してもっているのだろうか。 いま日本の仏教は、体験の宗教という原点に立ち返るべきときにきているのかもしれない。 言語の宗教から感性の宗教へ、といってもよい。言語という観念の膜を通してではなく、身 体の感性的な鉱脈を掘りおこすことで、宗教体験の深みへ降りていくということだ。それは リ 0
もっともこれは、あまりにもステロタイプのいい方にすぎるのだ 診断しているのではない。 オカルトや超能力についての宗教社会学的もしくは宗教人類学的な眼差しということでい えば、もう一つだけつけ加えておきたいことがある。よく新聞などで紹介される世論調査の 内容についてである。なぜなら宗教社会学的な思考というのは、つねに社会学的調査、すな わち世論調査なるものを第一義的なデータとして重視しているからである。たとえば、こん どの事件に関連して私の目にとまった記事に、こういうのがあった。ある「調査」によると、 ーセント 宗教を信ずる者の数は、一九七九年以降しだいに減少をつづけ、今日ついに二六。 に低下している。ところがこれにたいして神や仏の存在を肯定する者の数は逆に上昇をつづ け、今日ついに四四パーセントに達しているのだという。 この「調査」が面白い ( ? ) のは、「宗教を信ずる者」と「神や仏の存在を肯定する者」 を分けて考えているというところにある。その両者の「信者」がなぜ二つのカテゴリーに振 し なり分けられるのかが私にはよくわからないのであるが、どうやらここでいわれている「神や 仏の存在を肯定する者」のカテゴリーは、占いや霊能者に関心をもつ者たちのことであり、 論 神死後の世界や神秘への関心が高い者たちのことを指しているのであるらしい 無 、すな つまり、あえて細部を捨象していってしまえば、右の図式にいう第一のカテゴリー
ーホ 1 ル 今日われわれは、明治の「変革」以降、ほとんどはじめて精神の根本的なオー の必要に迫られているのではないだろうか。こんどの「事件」に際会して政府は宗教法人法 を改正し、さらにオウム真理教にたいする破防法の適用に踏み切ろうとさえしている。しか しそのような対症療法的な応急策だけで事態の本質的解決がはかられるとはとうてい思われ ないのである。もしもそうであるとするならば本当に見直すべきは、われわれの精神の内景 を形成してきた、日本近代百年の歴史そのものではないだろうか。
いまもし親鸞の来迎ありせば 今日誰もが、ロを開けば「世紀末だ」という。「末法の時代」だという。象徴的な一九九 五年のこととしていえば、たしかにこの年の一月には阪神を大地震が襲い、多くの人びとが 亡くなった。三月には、東京の地下鉄にサリンがまかれてたくさんの犠牲者が出た。その犯 罪行為がオウム真理教の仕業であったことがついに明るみにだされた。それでつい「世紀末 だ」とロ走りたくなるのも無理はない。「末法の到来だ」という言葉にも切実な響きがこも ろうというものだ。 だが本当にそうだろうか。実をいうと、そのような世紀末という実感が私には全くない 街を歩いていても、飲食店に出入りしていても、現実に末法という意識がわが身に迫ってき 4 宗教における「悪」とは何か
「強い歴史」と「弱い歴史」 すでにのべたことだが、今日わが国で、ほとんど予告もなしに暴発した宗教が耳目をそば だて、いまだにその余波が震動をつづけている。そして他方、一瞬息をひそめ、ひたすら平 身低頭しているかにみえる宗教がそのかげに隠れてみえる。暴発する宗教と萎縮する宗教、 その対照的な宗教地図をわれわれの眼前に浮かびあがらせたのが、先年のオウム真理教の事 牛どっこ。 しかし、われわれにとっては意表を衝かれたこの宗教対立の急激な浮上は、世界史的な観 点からみれば何ら珍しいことではない。、、 ホスニア・ヘルツェゴビナでおこなわれている目を 覆わしめる蛮行はいうまでもない。欧米や中近東の諸国に首をめぐらせば、宗教的原理主義 2 宗教を忘れた戦後政治学・歴史学
近代日本人の仏教理解 へ さて、それでは仏教はどうか。とりわけ日本の仏者は、今日どのような岐路に立たされて 教 宗 いるのだろうか の さきほど私は、無の思想と無常感が日本人の宗教観の根底を流れる基調低音であろうとい 性 感 うことをいった。けれども近代日本の仏教は、このような基調低音をむしろ無視し排除する ことで自己を主張してきたのではないだろうか。すくなくともそのような方向につよく傾斜 教 宗 のしてきたのである。 葉 なぜ、そういうことになったのか 第一に思い浮かぶことは、近代の日本人は、仏教を仏教の立場で考えずに、キリスト教の なって、せめぎ合いを演じているといってもよい。世界の情勢は宗教という面からみても、 まさに予断を許さない動きをみせはじめているといわなければならないだろう。 もしもそうであるとするならば、超越的価値だけが世界を救うというこれまでしばしばく り返されてきた考え方は、これからは限定的な意味しかもちえなくなるのではないだろうか。 事態はしだいに深刻の度を増しているのである。
て、三十分用カセットにコマーシャルサウンドをつづけて、手当りしだいに録音してみた。 その結果、コマーシャルサウンドには「短調」の形式をとったものが皆無に近い、というこ とがわかったという。 今日のコマーシャルサウンドでは、メジャーな音調のみが表面化され、マイナ 1 な短調が すっかり追放されている。子供たちは生まれ落ちるときから「哀傷」の旋律を奪われている のである。 尾崎豊が死んだとき、その追悼式に集まった若者たちも、そのようなコマーシャルサウン ドを産湯につかって育てられた世代だったのかもしれない。 もしもそうであるとするならば、短調と哀傷の旋律の拒否は、子守唄や民謡のみならず、 しようみよう 当然のことながら伝統的な宗教音楽であった声明や御詠歌の旋律にたいする拒否へとつな がるであろう。また義太夫や浪花節などの三味線音楽への拒絶という感覚を増大させていく にちかいない そしてそれは最後に、「演歌」の身上とする短調と哀傷の旋律を排除していくほかはない であろう。演歌的でない坂本冬美が、それでも演歌を売り物にするようになったといってい とすれば 歌る裏にも、このような「短調排除」の時代の波が押し寄せているのかもしれない。 演 やはり演歌の落日は、美空ひばりの昇天とともにつるべ落としにやってきたのである。 181
往生す、い力。し冫 ゝこ ) よんや善人をやと》 「悪人」こそがまっさきに往生する人間なのだ、という逆説にみたされた親鸞の宣一言である。 われわれは長いあいだその逆説に惹きつけられ、そこに人生の真実を見出し、その言葉のも っ普遍生をほとんど疑うことなくそのまま受容してきた。 しかしその親鸞の逆説を、今日、麻原彰晃の身の上に擬してその運命を考えようとする人 間が、はたしてわれわれの周辺にいるか。もしも親鸞が七百年の歳月をとびこえて現代の日 本に来迎してきたとしたら、かれをどのように迎えたらよいのだろう。ドストエフスキーの 大審問官よろしく、「今、あなたに出てきてもらったら困るのだ、早々に立ち去ってもらい たい」といって追い返してしまうのだろうか ニつの「悪人成仏」論 われわれは今、知らず知らずのうちに親鸞を裏切っているのかもしれない。かれの『歎異 抄』の思想を記憶の背後に押しこめようとしているのかもしれない。日本近代百年のなかで いつも光り輝いていた親鸞の像が、にわかにかげりを帯びてきたのである。その原因は時代 の急激な動きにあるのか。それともわれわれ自身の側にあるのか。
悲しみのなかの共生、という一言葉がふと浮かぶ。悲哀のなかの連帯、というイメージがい まさらのように蘇る。しかし本当のところをいえば、それこそがそもそも宗教の原風景とい うものだったのではないか。 ところがいつのまにか西欧の近代は、よくいわれるように神を殺し神の死を宣一言しつづけ て、今日まで発展してきた。われわれもまたそのことに慣れ親しんできたのであるが、本当 のところはどうだったのか。われわれの近代はかならずしも神殺しに積極的に手をさしのべ てきたのではなかった。しかしながらカミやホトケを生かすこともなく、また殺すこともな く、それをひたすらわれわれの皮膚の下に隠しつづけてきた、というのが実状だったのでは へないだろうか。海の彼方の西方の神殺しにたいして、われわれはむしろカミ隠し、ホトケ隠 宗しのゲームを楽しんで、ついに行きつくところまで行きついてしまった。合理仏教信仰の終 慟着駅にさ迷いでてしまったのである。 感 どこからともなく悲哀の旋律が流れてくるのもそのためではないか。それが、あのなっか しい無常の響きと触れ合い融け合っている。そしてその響きのなかから、ビートのきいた 教 宗 の Z< のリズムだけが、有無をいわせずしだいに強く聞こえてくるのである。 葉