仏 - みる会図書館


検索対象: 宗教の話
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1. 宗教の話

仰の基本経典である弥勒三部経 ( 弥勒上生経、弥勒成仏経、弥勒下生経 ) を比較して、そこ に展開される浄土往生の得失、深浅が争われたのである。 右にのべた二系統の救済思想がこのように並び立ったのは、ひとえにこの時代を「末法」 とうけとめる自覚が人びとのあいだに深く浸透するようになっていたからである。そのうえ、 人間いかに死ぬべきかという死の思想が追求されるようにもなっていた。各種の「往生伝」 が編集され、先述の「阿弥陀来迎図」がつぎからつぎへと制作されるようになったのもその 動きの一つであった。源信によって『往生要集』が書かれ、地獄と極楽のイメージがひろが り、死の看取りと作法についての議論が日常的な話題にもなっていた。加えて旧仏教の権威 がすでに地に堕ち、しだいに末法来世の意識が人びとの心をとらえるようになっていた。 このような時代の大きな転換期にあらわれてきたのが、阿弥陀仏による救いか、それとも 弥勒仏による救いかという問題であった。今すぐに浄土往生をとげて阿弥陀仏に出会うか、 それともさしあたり兜率天にのばってからやがて弥勒仏に邂逅するか、という問題であった。 換言すれば現世往生か未来往生か、ということであった。 もちろん時代の流れはさきにもふれたように阿弥陀仏による浄土往生のほうに大きく傾い ていた。「阿弥陀来迎図」にみられるように、現世往生を望む声が社会を覆っていた。しか し現実の世界ははたしてどうであったのか。世間のどこにも現世往生を約束するような徴候 力い」、つ ー 02

2. 宗教の話

日本列島「カルト」の尾觝骨 このように弥勒を来世の大海原からこの世の岸辺に招き寄せようとする現世的なイマジネ ーションは、やがて近世の民衆のあいだにまったく新しいミロク信仰を生みだすことになっ た。すでに早く、十六世紀の戦国の動乱期には、「弥勒」とか「命禄」とかいうミロクの名 を冠した私年号が関東地方に流布していた。また関東から中部地方にひろく分布する鹿島踊 りは、ミロクの世をたたえる歌に合わせて踊る芸能であった。この踊りは「ミロクの船」が 米を満載して鹿島の浦につき、その年の豊作と幸運を約束するものだったという。豊饒をも 束されているということになる。弥勒信仰の思考べクトルがそれまでの未来往生から急転し て、阿弥陀信仰の現世往生へと異常接近をとげようとしているといっていいのである。 弥勒仏に象徴される未来往生が阿弥陀仏に象徴される現世往生へと吸引されていったプロ セスをそれはあらわしている。そしてこのような救済願望が、弥勒下生までの「五十六億七 千万年」という途方もない無限の時間を一挙に短縮して、いま、ここで、の現世へと一瞬に 収斂させていることに注目しよう。未来仏としてのメシアが、あっというまに現在仏として のメシアに変貌しているといえるかもしれない。 104

3. 宗教の話

を学習し模倣しようとするものだった。 われわれはたしかにこの二つの「分離」の政策を、あえていえば西欧に学ぶ小学校生徒の ように教科書通りに学習し実施に移してきたといえるかもしれない。だがその結果われわれ は、同時に思いもかけない果実を手にすることになったのではないか。その果実の意味する 事柄について、まずはじめに、明治期に着手された「神仏分離」政策における「分離」の問 題をとりあげて考えてみることにしよう。 近代以前の日本人の伝統的な信仰は、さきにもふれたように神と仏を同時に礼拝し信ずる しいものだった。し ところに成り立っていた。神仏共存の宗教であり、神仏信仰といってもゝ かし明治国家の神仏分離政策によって、人びとは神か仏か、そのどちらかを選択しなければ ならなくなった。神も仏もという神仏共存の伝統的な観念が、神か仏かという二者択一の新 しい理念にとって代られることになったのである。 その変革が、千年にわたる日本人の信仰のあり方を根底から変えようとする上からの改革 であったということに注意しなければならない。むろん現実には、このような神仏分離の理 念が神仏共存の伝統観念を完全にくつがえしてしまうほど強力に作用したわけではなかった。 そんな「歴史」の破壊が、一片の法令や政策によっておこなわれようはずはないからである。 しかしながらそれにもかかわらず、その「分離」の政策がその後の日本人の内面に与えた精

4. 宗教の話

阿弥陀浄土と弥勒浄土 それでは右にみてきた阿弥陀浄土 ( 西方浄土 ) にたいして、同じ浄土世界を代表するもう みろく 一つの弥勒浄土の場合はどうであろうか。この弥勒信仰についてもインド仏教と日本仏教の あいだに観念上の相違がみとめられるのであろうか。弥勒浄土というのは弥勒菩薩 ( もしく とそってん しゆみせん は弥勒仏 ) が住んでいるとされる兜率天のことだ。兜率天というのは須弥山のはるか上空に あって、弥勒仏がもろもろの天人のために説法している浄土のことだ。インドの宇宙観では さきの阿弥陀浄土が西方十万億土の彼方に存在するのにたいして、こちらの弥勒浄土 ( すな わち兜率天浄土 ) ははるか上方の天空にあると想像されていた。前者が水平線上の地の果て に位置づけられているのにたいして、後者が垂直線上の空なる一点に位置づけられていたわ もう一つ、西方浄土と兜率天浄土のあいだには重要な違いがあった。なぜなら阿弥陀仏の 西方浄土は、われわれの死後そこでただちに往生 ( 救済 ) が約束されるのにたいして、弥勒 仏の兜率天浄土はかならずしも弥勒による救済がそこで実現される浄土ではなかったからで ある。すなわち地上で命終えたものが兜率天にのばった場合、死者はそこにいます弥勒とと もに生活し、やがて五十六億七千万年の歳月をへたのち弥勒が地上に降下して説法するのに 際会して最終的な救いをうるとされたからである。 ー 00

5. 宗教の話

もっともこれは、あまりにもステロタイプのいい方にすぎるのだ 診断しているのではない。 オカルトや超能力についての宗教社会学的もしくは宗教人類学的な眼差しということでい えば、もう一つだけつけ加えておきたいことがある。よく新聞などで紹介される世論調査の 内容についてである。なぜなら宗教社会学的な思考というのは、つねに社会学的調査、すな わち世論調査なるものを第一義的なデータとして重視しているからである。たとえば、こん どの事件に関連して私の目にとまった記事に、こういうのがあった。ある「調査」によると、 ーセント 宗教を信ずる者の数は、一九七九年以降しだいに減少をつづけ、今日ついに二六。 に低下している。ところがこれにたいして神や仏の存在を肯定する者の数は逆に上昇をつづ け、今日ついに四四パーセントに達しているのだという。 この「調査」が面白い ( ? ) のは、「宗教を信ずる者」と「神や仏の存在を肯定する者」 を分けて考えているというところにある。その両者の「信者」がなぜ二つのカテゴリーに振 し なり分けられるのかが私にはよくわからないのであるが、どうやらここでいわれている「神や 仏の存在を肯定する者」のカテゴリーは、占いや霊能者に関心をもつ者たちのことであり、 論 神死後の世界や神秘への関心が高い者たちのことを指しているのであるらしい 無 、すな つまり、あえて細部を捨象していってしまえば、右の図式にいう第一のカテゴリー

6. 宗教の話

みられるとおり、西方浄土は往生のためのタ 1 ミナル・ステーションと考えられていたの にたいして、弥勒の兜率天浄土はそうではなかった。最終的な往生にいたりつくための、た んなる通過駅とみなされていたからである。西方浄土の人気にくらべて、兜率天がとうてい 太刀打ちできなかった理由がそこにある。弥勒信仰がついに阿弥陀信仰を凌駕することがで きなかったのもそのためなのである。 しかしながら弥勒浄土が阿弥陀浄土によってそのように水をあけられたのは、実をいえば 弥勒菩薩そのもののあり方に根本的な原因があった。なぜなら弥勒はさきにもふれたように、 遠い未来の五十六億七千万年後になってはじめて兜率天から降下し人びとの救済に手をかす 仏 ( 菩薩 ) とされたからであった。かれは現在の往生ではなく、未来の往生を約束するメシ ア ( 救済仏 ) と位置づけられたのである。弥勒がしばしば未来仏と呼ばれてきたゆえんであ る。 ところがはなはだ面白いことに、その救済戦略について優劣がすでに定まっていたかにみ 想 えた阿弥陀浄土と弥勒浄土が、わが国においてはちょうど平安時代から鎌倉時代にかけてと もに盛んに信仰されるようになった。それだけではない。専門家たちのあいだでは、そのこ 本とをめぐって阿弥陀信仰と弥勒信仰の優劣までが争われるようになった。具体的にいうと、 日 阿弥陀信仰の基本テキストである浄土三部経 ( 無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経 ) と弥勒信

7. 宗教の話

出口王仁三郎の異装趣味 これまで、民俗仮面の世界で大活躍をしているサルとオキナをとりあげてきたが、それに たいし民俗宗教の世界で、「変身」ということに人並みはずれた好奇心を抱いていたのが出 ぐちおにさぶろう ロ王仁三郎 ( 一八七一—一九四八 ) であった。つぎに、そのことを考えてみることにしよう。 いうまでもないことだが、出口王仁三郎はしゅうとめの出口なおとともに、明治時代に大 本教という民衆宗教を興した人物である。出口なおが教祖、王仁三郎は組織者、という分業 体制で、ダイナミックな世直し運動を展開したことで知られている。 その両者を比較すると、一口でいって出口なおは神に魅入られた人であるが、出口王仁三 郎は神にあこがれた人である。なおは神に魅入られて神になったが、王仁三郎は神や仏にあ こがれ、その神や仏になろうとして、自分をさまざまに演出した。いろいろな神や仏になる ために、多彩な扮装をこらしたのである。王仁三郎における異装趣味はたしかに常軌を逸し ていたが、それも神仏にあこがれる熱情が外にあふれでた結果であったにちがいない。 よく知られているものに、七福神の扮装がある。七福神というのは、この島国に富をもた らす来訪神のイメージと現世利益の信仰が結びついて生みだされた民衆の神々のことだ。そ る 身の七人の来訪神に変身しようとした王仁三郎の着眼はさすがである。ときに昭和八 ( 一九三 変 一一 l) 年、時代はしだいに暗い谷間にむかいつつあった。とすれば、かれのこのイメ 1 ジ戦略

8. 宗教の話

仏の救済の御手に抱きとめられるときがくるのか。かってのインドにおいて、母親を幽閉し 。もしもそのブッダがこ 父親を殺した阿闍世王がブッダに会って改悛し救われたように・ の日本にあらわれてきたとしたら何というか。何かの拍子に「麻原彰晃よ、汝もまたわが仏 弟子の一人なり」と思わず口をすべらすことがあるかもしれない。 麻原教祖は、はたしてそのどちらの運命をたどるであろうか。イエスの最期と自分を同一 化させるのか、それとも仏弟子への転生の道を選ぶのか。しかしながら今日、この日本列島 において右の二つの選択をかれのために差しだそうとする人間は、おそらく一人もいないに ちがいない。イエスがこの世に再臨して麻原に近づくことを喜ぶものは一人もいない。ブッ がえ ダが転生してかれのもとを訪れることを肯んずるものもまた一人もいないだろう。 そして、もしもそうであるとするならば、このような全体の状況において現代の日本人は、 地あの親鸞の世界からはもっとも遠い地点に立っていることになる。親鸞のものの考え方とは 正反対の、逆方向の極に身をおいていることになるはずだ。なぜなら親鸞は、この世におけ る最下底の極重の悪人こそが阿弥陀如来の光明に包まれて救われる第一の人間であると、主 る 張していたからだ。かれの『歎異抄』にでてくる「悪人正機」という考え方がそれである。 お その第三条の冒頭に、誰でも知っている次のような言葉がでてくる。 宗 《善人なをもて往生をとくし冫 、、 ) まんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、悪人なを

9. 宗教の話

あると同時に神 ( 仏 ) になる「人神」体験であったということができるにちがいない。さら にいえばその体験は同時に、日本密教の創始者であった空海の「即身成仏」の体験とも比較 することが可能である。「即身成仏」とは、人間の身体のまま仏になった状態のことをいう。 仏教的文脈における「永久調和の瞬間」のことだ。その即身成仏の自覚は空海においては 「明晰で、争う余地のない感覚」だったはずである。しかしながらもちろんブッダの「悟り」 も空海の「即身成仏」も、「せい、 せい五秒か六秒しかつづかない」性格の瞬間的な感覚だっ たのではないか。それだからこそブッダも空海も、五秒以上っづけば身体も魂も変化せずに はおかないような、高度に統合された身心の体験へと自己を引きあげようと、不断の努力を つづけていたのであったにちがいない 界 キリーロフのいう五秒間の法虎は、さきにものべたようにキリスト教的文脈においては漬 世 の神的な無神論の極北をゆく体験だった。しかしそれを仏教の東洋思想的な文脈におきかえて 霊 悪見直すとき、それは人間が神的な開悟へと転生する汎神論的な体験であったといわなければ とならない。人が神になるキリーロフ的体験は、人が仏になるブッダ的体験とほとんど紙一重 ウ の差で接続している。表裏一体となったものだといってもよい。だが、その二つの本質的に オ 代類似する体験は、一方のキリスト教神学によっては「無神論」のレッテルをはられ、他方の 仏教神学においては逆に「超越的悟り」の名で論議されてきたものなのである。

10. 宗教の話

ミロク神が山の彼方から登場するというのである。 かれがこの山越えのモチーフに注目したのは、おそらく日本人における山岳信仰の伝統を 考えてのことであったろうと思われる。それにしても、豊満な胸元と両の乳房を露わにして 左手を阿弥陀定印に結んでいる図は、さきのふんぞり返った布袋の扮装とともに、王仁三 郎の肉体が自在に神や仏のそれへと転じていく効果をあらわしていて、心憎い この「山越えのみろく」とほとんど同時期に演出されたものとして、もう一つかれの「ス サノオノミコト」があることを見逃すわけにはいかない。布袋はゆったりした白衣をはおっ ているが、この「スサノオ」の方は顔と頭部の背後に大きな円光を配しているところに特徴 がある。それは「山越えのみろく」にも仕かけられていた後背の装置であるが、これまた中 まんだら 世の曼陀羅図にしばしば描かれた大日輪の転用であったことはいうまでもない。その日輪は 魂を象徴し、ときに死後の世界 ( Ⅱ浄土 ) を暗示する記号でもあった。 びやくごう 「山越えのみろく」において王仁三郎は、自分の顔に白毫相を点じてアミダを模倣してい るが、その小さな円輪が背後の大日輪と照応しているところが面白い。そしてそれと同じよ うに「スサノオノミコト」においては、その頭頂に神鏡がかかげられ、それも背後の円光と 身不思議な諧調を奏でている。絵になる小道具や装置にたいして実に細かな配慮がいきとどい 変 ているのであるが、それもこれもかれが、神と仏の世界をたんに観念のレベルにおいてだけ じよういん