正機の論は、親鸞の思想の一部を拡大膨張させてつくりだされたものだったかもしれないか らだ。 それにしてもわれわれが、親鸞の主著である『教行信証』を重視せずに、もつばら『歎異 抄』のみを珍重し、それにもとづいて親鸞解釈を展開してきたのは、 ) しったいどうしたわけ なのだろう。親鸞の真筆本ものこっている第一次資料の『教行信証』によらずに、もつばら 第二次資料であるべき「聞き書」の『歎異抄』によって親鸞の救済論を要約し、代表させ、 解説してきたのは、 ) しったいどういう風の吹きまわしだったのだろうか。その偏向した選択 を、いったい誰が、どこでやったのか。 そのような偏向した選択がこのうえなく危険な道であることを知っていたのが、蓮如であ った。蓮如 ( 一四一五—九九 ) とは親鸞から数えて八代のちの本願寺の法主である。浄土真 地宗の教えを民衆に広め、後の大教団の基礎を築いた優れた指導者である。一向一揆の運動に 火をつけた点でも先駆的な人物であったといわなければならない。 かれはその一向宗門徒による「一揆」の経験から、宗教運動における流血の暴力性を骨身 に徹して知っていたにちがいない。現にかれは、輩下の一揆勢力が政治権力に正面から戦い お 和を挑もうとした段階で撤退を決意し、妥協の路線にすすみでている。しかしその半世紀後、 宗 大坂の石山本願寺は「一向宗」の総力を結集して、織田信長の軍団と対決し相互殺戮の消耗
近代日本人の仏教理解 へ さて、それでは仏教はどうか。とりわけ日本の仏者は、今日どのような岐路に立たされて 教 宗 いるのだろうか の さきほど私は、無の思想と無常感が日本人の宗教観の根底を流れる基調低音であろうとい 性 感 うことをいった。けれども近代日本の仏教は、このような基調低音をむしろ無視し排除する ことで自己を主張してきたのではないだろうか。すくなくともそのような方向につよく傾斜 教 宗 のしてきたのである。 葉 なぜ、そういうことになったのか 第一に思い浮かぶことは、近代の日本人は、仏教を仏教の立場で考えずに、キリスト教の なって、せめぎ合いを演じているといってもよい。世界の情勢は宗教という面からみても、 まさに予断を許さない動きをみせはじめているといわなければならないだろう。 もしもそうであるとするならば、超越的価値だけが世界を救うというこれまでしばしばく り返されてきた考え方は、これからは限定的な意味しかもちえなくなるのではないだろうか。 事態はしだいに深刻の度を増しているのである。
合理的仏教の終着駅 感性の宗教というのは、音楽や演劇などの芸術的なパフォーマンスと結びついた宗教とい へうことでもある。宗教の回路に美的な感覚を動員することといってもよいだろう。 宗 これからの宗教は芸術とのあいだの境界を取り去り、むしろそれを積極的に取り入れるこ の とによって新しい活力を蘇らせるのではないだろうか。宗教の最高形態は芸術であり、同じ 感 そういう時代がそこまで到来していると私は思っ ように芸術の最高形態が宗教である、 ているのである。 教 宗 の しかしそうはいっても、それはあまりに楽観的にすぎる観測ではないか。日本列島の内部 葉だけで自足してしまうような、自閉的な美意識に偏りすぎた認識ではないか。そういう声が 聞こえてくるような気がする。なぜなら世界ではあいかわらず悲しい無惨な事件ばかりおこ ある意味で、オウムの若者たちが過激な形でやろうとしたことだった。 そのような体験をどのようにして、われわれ自身の手元にふたたび引き寄せるのか。その ためには、まず僧職者と信者の垣根を低くする必要があるだろう。教団ごとの教義的な自己 主張を抑制していくエ夫が必要となるにちがいない。
悲しみのなかの共生、という一言葉がふと浮かぶ。悲哀のなかの連帯、というイメージがい まさらのように蘇る。しかし本当のところをいえば、それこそがそもそも宗教の原風景とい うものだったのではないか。 ところがいつのまにか西欧の近代は、よくいわれるように神を殺し神の死を宣一言しつづけ て、今日まで発展してきた。われわれもまたそのことに慣れ親しんできたのであるが、本当 のところはどうだったのか。われわれの近代はかならずしも神殺しに積極的に手をさしのべ てきたのではなかった。しかしながらカミやホトケを生かすこともなく、また殺すこともな く、それをひたすらわれわれの皮膚の下に隠しつづけてきた、というのが実状だったのでは へないだろうか。海の彼方の西方の神殺しにたいして、われわれはむしろカミ隠し、ホトケ隠 宗しのゲームを楽しんで、ついに行きつくところまで行きついてしまった。合理仏教信仰の終 慟着駅にさ迷いでてしまったのである。 感 どこからともなく悲哀の旋律が流れてくるのもそのためではないか。それが、あのなっか しい無常の響きと触れ合い融け合っている。そしてその響きのなかから、ビートのきいた 教 宗 の Z< のリズムだけが、有無をいわせずしだいに強く聞こえてくるのである。 葉
の精髄が仏教における合理的性格だったのである。この考え方は仏教学界のみならず、今日 の仏教界の全体に広く深く浸透している。 まず、このような認識の枠から自由になることが、これからの仏教にとって緊急の課題で はないだろうか つぎに第二の問題として、われわれはこれまで日本の仏教を日本人の歴史の中にきちんと 位置づけてこなかったのではないかということがある。一口に日本仏教といっても、そこに はいろいろな流れがあり特徴がある。しかしその中でもっとも重要なのが、先祖供養と結び ついた日本仏教だったのではないだろうか。 へ なぜならこの先祖供養と結びついた仏教こそ、日本の民衆に長いあいだにわたって受け入 教 宗れられてきた仏教だったからである。それは日本の仏教を国民的な宗教にする上で、はかり しれない影響を及ばしたといってよい。ところがまことに残念ながら、近代日本の仏教解釈 感 は、こうした先祖供養を民俗仏教もしくは低次元の民間信仰としておとしめ、きちんと評価 することを怠ってきた。すくなくとも建て前の上では、第二義的なものとみなして切って捨 教 宗 のててきたのである。 葉 しかし、現実の姿を素直にみてみよう。現実のわれわれは先祖の供養を通して身を慎しみ、 先祖の影を意識しつつ道徳的な生活を送ってきた。日本仏教も、この先祖供養とともに発展 129
へ 教 宗 聖都エルサレムで見たもの の 慟九五年の十月下旬から十一月初めにかけて、私はイスラエルにはじめて行ってきた。イエ 感 スの足跡を辿って聖都エルサレムを訪れる、というのが長いあいだの念願だったからである。 そしてそこはむろん、超越的な一神教を奉ずる世界の三大宗教がくつわを並べて集結してい 教 宗 のる聖地であった。 葉国際空港のあるテルアビブから地中海沿いに北上し、ナザレをへてガリラヤ湖に出た。っ いで、その湖に発するヨルダン川沿いに南下し、エリコをへて聖都に辿りついたのだった。 て、それを軽視したり自嘲したりする向きもないではない。けれどもそのような自嘲の視線 に淫していると、われわれ自身の精神の根拠を見失うことにもなりかねない。 ともかく、われわれが長い歳月をへて慣れ親しんできた無の思想とか無常の感覚は、これ までしばしばいわれてきているほど一面的なものでも特殊な性格のものでもないと私は思う。 いま、地球上に噴出している環境汚染や民族紛争などの問題を考えてもみよう。人類の行手 にはあきらかに危機的な風が吹きはじめているし、つぎの世紀にむけて、この無の思想や無 常の感覚がもうすこし普遍的な意味をもちはじめるかもしれないのである。
しかしそれにしても、そうした催しに文句もいわずに応じた真一一一一口宗のお坊さんたちは偉か った。キリスト教のべートーベンと仏教の『般若心経』を比較したり融合させたりする機会 をつくったのであるから、ただごとではない。宗教者たちによる国際会議とか平和会議など より、よほど内容豊かでユーモラスな試みだったのではないだろうか。 そういえば以前、同じ真一一一一口宗のお坊さんたちは、世界的なフラメンコダンサーの長嶺ャス 子さんの舞台のために、真一一一一口声明を唱えて、えもいわれぬ宗教・芸術的効果を生みだしたこ とがあった。仏教声明の担い手がフラメンコの舞踏家と手を組んで、新鮮な音楽空間を創造 したのである。 長嶺さんは三歳のときからモダンバレエを学び、そのあとスペインに渡りフラメンコダン ートナーのホセ・ミゲルとの運命的な出会いをはじめとして、 スを踊ってスターになった。パ アメリカやアフリカの男性と愛の遍歴を重ねて、独創的な舞踏の世界をつくりだした。 ところが八三年に日本に帰り、女一人と猫百匹という世にも不思議な共同生活をはじめて まつご 世間を驚かせた。たまたま一匹の猫を車でひき殺し、その末期の目に映った無心の瞳に、生 命の輝きをかいまみたからである。以後、野良猫や捨て猫を「仏」と思い、拾いつづけ飼い つづけて、ついに百匹になってしまったというのである。 188
ところがこの神殿の丘の中央に、黄金のドームをもっ八面体の建物が立っている。壁面に は青の美しいタイル装飾がほどこされ、イスラーム風のドームであることがわかる。それも そのはず、その内部の中央には、マホメットが天使を従えて昇天したと伝える大きな岩が、 地上から盛りあがるように露出していた。 もっともマホメットがこの都を訪れたという証拠はない。けれども、預一一 = ロ者の遺志をつぐ カリフ・オマ 1 ルが紀元六三八年にこの聖都を征服して以来、十字軍戦争をへてユダヤ教、 キリスト教、イスラーム教は三つどもえの聖都争奪戦を演じてきた。 こうして黄金色に輝く岩のド 1 ムは、ユダヤ・キリスト教の権威に挑戦するイスラーム教 、の、天空に誇示する記念碑となったのである。そしてそのド 1 ムがそこに立ちつづけるかぎ 宗り、ユダヤ教の神殿が同じ場所に再建される可能性はない。今にのこる嘆きの壁は、永遠に 慟廃墟の姿をとどめたまま生きつづけるほかはないのである。 感 神殿の丘の北側に目を向けてみよう。するとそこに、イエスが十字架を背負って歩きはじ めたといわれる最後の巡礼路がみえるはずだ。 教 宗 の この路はゴルゴタの丘に通じ、イエスはそこで処刑されたのだが、その丘の、イエスの遺 葉体を葬ったとされる場所に聖墳墓教会が建てられている。世界のキリスト教徒を吸引してや まなし ) 、エルサレム巡礼の至上のタ 1 ミナルである。
むろん私はこのような問題をとらえて、いたずらに今後の日本の行く末に悲観論をまきち らそうという魂胆があるのではない。そうではなくて、このような状況を歴史的にどのよう に位置づけどう考えていったらよいのかということを問うてみたかっただけである。そして そのように考えるとき、私の眼前にあらわれてくるのが小論の冒頭で提出したサルトルとレ ヴィⅡストロ 1 スのあいだで展開された論争だったのだ。 とりわけレヴィⅱストロースのいう「強い歴史」の考え方が強烈に脳裡に蘇る。近代への 志向生をはらむ「弱い歴史」にたいして、いわば超歴史的ともいうべき「強い歴史」にかん するその透徹した洞察が、私の心を強くとらえる。その「強い歴史」という尺度による歴史 観に立っとき、「宗教」と「民族」という問題がこれまで以上に大きな意味をもって浮上し 史てくるのではないだろうか。 歴 九五年になって、突如としてわれわれに襲いかかってきたオウム真理教の事件も、まさし 学 政くそのことをわれわれの眼前につきつけているのではないかと思うのである。 後 戦 れ 忘 を 教 宗
斑時代に裏切られるステロタイプな尺度 ところがこの「文明の衝突」論にたいしては、はたせるかなわが国でも反論の大合唱がま れきおこった。その第一が、現代における真の「衝突」は文明間にあるのではなく、依然とし 忘 教て近代と前近代の間にあるというものだった。第二に、その近代によって生みだされた人権、 宗 自由主義、民主主義、市場原理こそが普遍的価値をもつのであって、宗教、民族の要因はす である。 そういう「文明」という名のエゴイズムの問題が、ちょうど時代の表面に浮きでるように ード大学の・ハンチントン教授によって書かれた「文 なった一九九三年のことだ。ハー 明の衝突」という論文が世にあらわれて大きな反響を呼んだ。 その論旨は、「冷戦」というイデオロギー対決の時代が終り、それに代って世界は、西欧、 儒教、日本、イスラーム、ヒンズー、スラブ、ラテン・アメリカの七つの大きな文明に区分 され、その文明上の対立・衝突が、世界政治をめぐる紛争を引きおこすことになるというも のだった。この世界見取図のなかでは、強力な対立・葛藤の要因として、宗教の役割が大き くクローズアップされていたのである。