あとがき 化』一九九四年 ( 第一書房 ) 「流浪するーー聖者ダライ・ラマ」 ( 原題「行脚する聖者、ダライ・ラマ」 ) ラマ』一九九一年 ( 河出書房新社 ) 「神界を幻想するーー、幕末の国学者」 ( 原題「幕末の神国思想」 ) 秘録集成』解説、一九九四年 ( 八幡書店 ) こんど本書を編むにあたって、中川六平さんと編集部の広瀬博さんのお世話になった。本 書が出来上がったのはお二人のお蔭で心からお礼を申しあげたい。 一九九六年十二月二十日 『ダライ・ 『宮負定雄・幽冥界 山折哲雄 243
松沢村の芋掘名主 みやおいやすお 宮負定雄とは、聞き慣れない名前である。幕末期における草莽の国学者で、平田篤胤の門 人だったという。それはそうなのだが、しかしそういい切ってしまっては、宮負定雄の個性 のようなものがいささかも立ちあらわれてはこない。むしろそんな概括は、かれの精神の実 像に迫るためには邪魔にこそなれ、役に立っことはほとんどない。 宮負定雄は寛政九 ( 一七九七 ) 年に下総の地・香取郡に生まれて、安政五 ( 一八五八 ) 年 に同地で死んでいる。享年六十二であった。かれが生まれた寛政九年といえば、日本各地の 海上に外国船がしきりに出没しはじめていたころだ。『海国兵談』を出版した林子平がすで に処罰され、宮負とは同じ下総の伊能忠敬が、やがて蝦夷地の測量に出立していく。風雲急 ・ 4 神界を幻想するー幕末の国学者 2 ワ
者 学 国 の 幕 奇談から冥界交流譚へ る 私は『奇談雑史』には、和歌物語風のもの、『日本霊異記』の霊験譚風の味のもの、そし す 想て『今昔物語』にみられる説話仕立てのもの、などが混淆しているということをさきにのべ 界た。そしてそれらの「奇談」がかならずしも一貫した性格を示すものではないこともあわせ 神 て示唆しておいた。各地に散在する「奇談」の収集への関心の方が先行するあまり、主題整 このようにこの『太神宮霊験雑記』はさきに紹介した『奇談雑史』とは若干その成立の事 情を異にしている。したがって『太神宮霊験雑記』の性格にも多少の偏りがないではない。 しかしながらこの二種の霊験物語集を読みくらべるとき、そこから共通の主題が浮きあが ってくることも疑いない。そしてその共通の主題の中には、作者である宮負定雄の人間と思 想が鮮やかに刻みこまれてもいる。おそらくそこには、かれが後半生にいたってしだいにの めりこんでいった遍歴・漂泊の旅、あるいは錯乱と狂気の行動の動機を解き明かす鍵が、ひ そんでいるのではないか。平田篤胤の門人として出発したのち、宮負定雄が宮負定雄になっ ていく自己実現の道筋が、その二つの作品を彩る主題のなかにたたみこまれているのではな いたろうか 223
をこえている。酒色に溺れ、実地の仕事をさばり、ついに勘当同然に生家を逐われてしまう。 この分別盛りにおける人生の急変は、かれにとっていったい何を意味したのか。その青春 を農業の改良家として出発した宮負定雄は、どのような意図を抱いてその前半の人生を否定 しようとしたのか。一言にしていえば、おそらくこの時期になってはじめて平田篤胤の本質 を発見したからである。それにくらべれば三十歳のときにはじめて平田の門に入ってから以 降の十年間は、いわば篤胤の表層を眺めて過していたにすぎないともいえる。たんなる空白 の時間であったといってもよい。それが四十歳になって、急激な変化を誘い出すことになっ た。その突然やってきた自覚が、かれを錯乱の淵に追いやったのではないか。酒色に溺れる 狂気の動機となったのではないかと思う。 学それでは宮負定雄は、平田篤胤との出会いによってどのように変貌していったのか。かれ 国 のは名主の仕事を放棄し、家業を長男にまかせ、そしていわば第二の人生を歩みだした。新し い漂泊・放浪の人生へと旅立っていくのであるが、それはいうまでもなく平田篤胤との二人 る三脚の旅でもあったはずだ。あえていえば、師・篤胤との同行二人 : 想 しかしながら天保十四 ( 一八四三 ) 年、かれはそのかけがえのない恩師・平田篤胤の死に 界逢う。ときに定雄は四十七歳であった。郷土の家を出奔してからこの年まで、すでに十年近 神 くの歳月が経っている。酒色に溺れ、放浪の生活に入ってから師と幽明境を異にするこのと 2 四
を告げる時代が足音を立てて近づいていた。 やすまさ かれの父・宮負定賢は下総・松沢村で名主を務めていた。年に一、二度、江戸に出て平田 篤胤を訪ね国学を学んでいたが、晩年は歌を詠み書を写して過していた。その影響もあって 定雄もまた早くから国学に親しむようになっていたが、平常はその父とともに田畑に出て農 業に励んでいた。その体験の中から『農業要集』を書き、その草稿をもって江戸の篤胤のも とをたずねたのが文政九 ( 一八二六 ) 年、定雄三十歳の春のことであった。農作物の栽培と 販売にかんするノウハウを実地の経験からまとめたものだ。これは六百部ほどが刷られたと いうが、それにつづいて第二の著作『草木撰種録』が成った。穀物や野菜を三十種ほどあげ てその特質を論じたものだが、これがまた篤胤の推薦もあって人びとの興味をひき、当時の ベストセラーになっている。 定雄が父のあとを継いで松沢村の名主となったのが天保二 ( 一八三一 ) 年、三十五歳のと きである。やがて社会や政治の仕組みにも関心を寄せるようになる。外部の世界がつよい圧 力で眼前に立ちあらわれ、その心の動きが在地の農業からいつのまにか離陸しはじめる。地 に足がっかなくなったといってもよい 名主の仕事に嫌気がさし、農業をさばり、みずからを「松沢村の芋掘名主」と呼んで自嘲 し、転落と放浪の生活がはじまる。天保から嘉永にかけての時期だ。かれはすでに四十の坂 2 ー 8
『奇談雑史』全十巻 出奔以前の宮負定雄と出奔以後の宮負定雄を分かっ画期は、先述の通り天保から嘉永にか けての時期、すなわちかれの四十の坂をこえた時期を指すが、その画期の中身をなすものが、 霊異、霊験の世界へのつよい傾斜、神異、冥界への求心的な探索にほかならない。それは農 業の改良家の急激な転身であり、国学を学ぶ土着するリアリストが、突如として幽明界との 交流に鋭い神経を働かすにいたる変身の物語といってもよい。そしてその変身の物語を演出 した磁場が、まぎれもなく平田篤胤という個性によって抱かれた幽明観であったことはいう までもない。 この時期における、そのような思想遍歴を象徴する作品の一つが、たとえば『奇談雑史』 全十巻ではないだろうか。それを著わす前後のころ、かれは東海地方に旅し、伊豆・駿河に 足をのばすとともに地元の下総をくまなく歩いてもいる。各地に奇談や伝説を求め霊験の種 を発掘して、民俗探訪のノートを積み重ねていった。右に記した『奇談雑史』はそのような きまで、それでよ ) っこゝゝ 。しオしカれは何をしていたのか そのことから、まず見ていこう。 220
しったいどの いるのである。かれのいう貧富の論と高田屋嘉兵衛の国際活動とのあいだに、ゝ ような関係があるのか。そのような当然おこってくる疑問をほとんど無視するような勢いで、 この高田屋嘉兵衛の物語に熱中しているのである。なぜ宮負は嘉兵衛の壮挙にそれほど熱中 したのか。そのようなかれの思いの激しさは、この話の後段に出てくるつぎのような言葉の 中によくあらわされているのではないだろうか。嘉兵衛が「敵国」ロシアの人間を相手にと うとうと弁じたてる場面である。 高田屋大いに笑て日、我日本は神国なり汝等何千艘の軍船に何百万の軍勢来りて責ると みなごろし も日本にては少しも恐れず、斯る時には忽神風吹き起りて汝ら手もなく鏖にせらるゝ ・ ( 傍点筆 事必定なり、あったら命を捨るより己が了簡にかゝりて本国に帰るべし : 者 ) 『貧富正論』が書かれたのはさきに記したように安政五 ( 一八五八 ) 年である。この年、井 伊大老の手で日米修好通商条約が調印されている。国際的な諸勢力との関係がしだいに緊迫 の度を増していった時代である。それに応じて、国内の政治情勢も右に左に揺れていた。そ のような時代の目まぐるしい動きが、おそらく宮負定雄の思想にも衝撃を与えていたにちが 238
いない。平田門下の国学者に強い危機意識を植えつけたとしても不思議ではなかった。 右にみたように、「貧富正論』を論じて思わず筆が高田屋嘉兵衛の話に飛躍し、ついに 「神国」日本の構想にまでその議論が昂揚していったのも、おそらくそのためであったろう。 かれはそこで日本を「神国」と称し、何千艘の軍船が攻め寄せようとも、かならずや「神 風」が吹いて撃退するだろうといっている。その口調には、右にみてきた漂流奇談が示して いるように、御鬮による神勅に傾倒し神明による冥助を祈念する敬神の思いがこめられてい るようにみえるではないか。その確信にも似た思いは、幽世の霊威を信ずるかれの世界観と 切っても切れない関係にあるものだったにちがいない。 こうして宮負定雄もまた師の平田篤胤と同じように、国際関係が緊張を帯びて膨張すると 学きは幽冥界にも通ずる独自のナショナリズムの勢いをかりて、そこにくさびを打ちこもうと のしたのではないだろうか。かれの『奇談雑史』と「太神宮霊験雑記』には、このようにして 神罰、神隠し、神国という三つの思想軸が重層的な形でたたみこまれていたように思うので るある。 す 想 幻 を 界 神 239
「幽世」への関心 宮負定雄がとくにこれら神隠し少年たちの神仙界往来に興味を抱いたのは、むろんかれの うっしょ かくりよ うちに「現世」と「幽世」にかんする強烈な問題意識が芽生えていたからである。そして それは、生前の篤胤がその著作において説きつづけてやまないテーマであった。さきの参沢 明もまた平田の謦咳に接して幽冥界に惹きつけられ、『神界物語』をものしている。その参 沢の書物にたいして、面白いことに宮負が後序を寄せているのである。その文章には、平田 た。さきにのべたようにかれは師の篤胤が逝き父が世を去ったあと、安政元年になって伊勢 の参宮に旅立ち、その足で紀州の和歌山に参沢明を訪ねている。その道中大地震に遭遇しそ の見聞を記録にとどめているが、このときの旅の目的の一つに、参沢と会って嶋田幸安とい う神仙界と自由に往来する神童の消息をきき、できれば面会したいということがあった。だ がこのとき、嶋田はすでに冥界に去っていて、会うことができなかった。いたし方なく参沢 から幸安少年についての情報をききだし、かれの仙界往来の全貌を『奇談雑史』巻十にまと めて記録することになる。篤胤の『仙境異聞』を下敷きにして「寅吉少年」の物語を摘記す るとともに、「幸安少年」の物語をそれと並べて載せたのである。 228
だがそこにはもう一つ、別の心理的動機が横たわっていたのではないだろうか。海上での 遭難と漂流の話が珍しい事件として語り伝えられるとき、それはどこかで国防という問題と 結びついてかれのイマジネ 1 ションをふくらませていたように、私にはみえる。日本人宮負 定雄の民族的自覚のようなものが、そこはかとなく立ち昇ってくるように思われるのである。 たとえばかれの著作には、安政五 ( 一八五八 ) 年に書かれた『貧富正論』 ( 上下 ) という のがある。読んで字のごとく「富貴利達」と「貧賤病苦」の二つのテーマにもとづく一種の 経済道徳論なのであるが、その下巻にどうしたわけか、兵庫の高田屋嘉兵衛についての事跡 が詳細に語られている。 高田屋嘉兵衛 ( 一七六九 5 一八二七 ) は知られているように江戸後期の廻船業者で、蝦夷 学交易に活躍した豪胆果敢な商人であった。寛政十一 ( 一七九九 ) 年にはエトロフ島航路を開 国 のいて漁場を設けている。文化三 ( 一八〇六 ) 年には幕府の命をうけて蝦夷地の交易を一手に 引きうけた。文化八年、たまたまロシアの海軍軍人ゴローニンがクナシリ島で測量し、わが る国の幕吏に捕えられるという事件がおこった。それにたいしロシア側は高田屋嘉兵衛を捕え るという報復措置に出た。かれはカムチャッカに連行されたが、巧みな外交交渉をおこなっ 界て翌年に帰国、ゴローニンの釈放に尽力した。 神 その事件の顛末を宮負はその『貧富正論』の下巻のほとんどのスペースを割いて詳述して 2