平田篤胤 - みる会図書館


検索対象: 宗教の話
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1. 宗教の話

をこえている。酒色に溺れ、実地の仕事をさばり、ついに勘当同然に生家を逐われてしまう。 この分別盛りにおける人生の急変は、かれにとっていったい何を意味したのか。その青春 を農業の改良家として出発した宮負定雄は、どのような意図を抱いてその前半の人生を否定 しようとしたのか。一言にしていえば、おそらくこの時期になってはじめて平田篤胤の本質 を発見したからである。それにくらべれば三十歳のときにはじめて平田の門に入ってから以 降の十年間は、いわば篤胤の表層を眺めて過していたにすぎないともいえる。たんなる空白 の時間であったといってもよい。それが四十歳になって、急激な変化を誘い出すことになっ た。その突然やってきた自覚が、かれを錯乱の淵に追いやったのではないか。酒色に溺れる 狂気の動機となったのではないかと思う。 学それでは宮負定雄は、平田篤胤との出会いによってどのように変貌していったのか。かれ 国 のは名主の仕事を放棄し、家業を長男にまかせ、そしていわば第二の人生を歩みだした。新し い漂泊・放浪の人生へと旅立っていくのであるが、それはいうまでもなく平田篤胤との二人 る三脚の旅でもあったはずだ。あえていえば、師・篤胤との同行二人 : 想 しかしながら天保十四 ( 一八四三 ) 年、かれはそのかけがえのない恩師・平田篤胤の死に 界逢う。ときに定雄は四十七歳であった。郷土の家を出奔してからこの年まで、すでに十年近 神 くの歳月が経っている。酒色に溺れ、放浪の生活に入ってから師と幽明境を異にするこのと 2 四

2. 宗教の話

「幽世」への関心 宮負定雄がとくにこれら神隠し少年たちの神仙界往来に興味を抱いたのは、むろんかれの うっしょ かくりよ うちに「現世」と「幽世」にかんする強烈な問題意識が芽生えていたからである。そして それは、生前の篤胤がその著作において説きつづけてやまないテーマであった。さきの参沢 明もまた平田の謦咳に接して幽冥界に惹きつけられ、『神界物語』をものしている。その参 沢の書物にたいして、面白いことに宮負が後序を寄せているのである。その文章には、平田 た。さきにのべたようにかれは師の篤胤が逝き父が世を去ったあと、安政元年になって伊勢 の参宮に旅立ち、その足で紀州の和歌山に参沢明を訪ねている。その道中大地震に遭遇しそ の見聞を記録にとどめているが、このときの旅の目的の一つに、参沢と会って嶋田幸安とい う神仙界と自由に往来する神童の消息をきき、できれば面会したいということがあった。だ がこのとき、嶋田はすでに冥界に去っていて、会うことができなかった。いたし方なく参沢 から幸安少年についての情報をききだし、かれの仙界往来の全貌を『奇談雑史』巻十にまと めて記録することになる。篤胤の『仙境異聞』を下敷きにして「寅吉少年」の物語を摘記す るとともに、「幸安少年」の物語をそれと並べて載せたのである。 228

3. 宗教の話

それにあたる。また同様のテ 1 マを『太神宮霊験雑記』に求めると、たとえば上巻の「阿州 某里より八歳の男子参宮の事」「阿州三之助参宮の事」などがそれに相当するかもしれない。 もっともいま挙げた『太神宮霊験雑記』の話は、『奇談雑史』に登場する神隠し少年たちの 場合とは若干その性格を異にする。なぜならそこでは、少年の伊勢参宮が抜け参りの霊験譚 の一事例として語られているからである。しかしながらその霊験を伝える語り口のうちに、 少年が一時的に家郷を離れて神仙 ( 老翁 ) の導きによって不思議な体験をしているところが でてくるのは、『奇談雑史』にあらわれる神隠し少年たちの場合と共通している。 しかしここでは、そのような細部の比較・検討よりは、むしろ『奇談雑史』のなかにでて くる寅吉少年と嶋田幸安少年の事例にかぎって考えてみることにしようと思う。というのも 学そのテーマについて語ることこそ、師・平田篤胤と弟子・宮負定雄の関係を探るための重要 国 のな回路であると思われるからである。 幕 よく知られているように、平田篤胤は文政三 ( 一八二〇 ) 年、不思議な霊童と出会った。 る神隠しにあい、仙境で暮してきたとされる寅吉少年である。その少年の話をきき、異常な好 奇心をかきたてられた篤胤は、その話を自分の幽冥信仰と結びつけて『仙境異聞』を書きあ を けた。かれの神秘思想を神学的な言葉で綴った作品である。 界 神 この『仙境異聞』はやがて門人や一般の読者に知られ、宮負の関心を刺激することになっ 22 /

4. 宗教の話

を告げる時代が足音を立てて近づいていた。 やすまさ かれの父・宮負定賢は下総・松沢村で名主を務めていた。年に一、二度、江戸に出て平田 篤胤を訪ね国学を学んでいたが、晩年は歌を詠み書を写して過していた。その影響もあって 定雄もまた早くから国学に親しむようになっていたが、平常はその父とともに田畑に出て農 業に励んでいた。その体験の中から『農業要集』を書き、その草稿をもって江戸の篤胤のも とをたずねたのが文政九 ( 一八二六 ) 年、定雄三十歳の春のことであった。農作物の栽培と 販売にかんするノウハウを実地の経験からまとめたものだ。これは六百部ほどが刷られたと いうが、それにつづいて第二の著作『草木撰種録』が成った。穀物や野菜を三十種ほどあげ てその特質を論じたものだが、これがまた篤胤の推薦もあって人びとの興味をひき、当時の ベストセラーになっている。 定雄が父のあとを継いで松沢村の名主となったのが天保二 ( 一八三一 ) 年、三十五歳のと きである。やがて社会や政治の仕組みにも関心を寄せるようになる。外部の世界がつよい圧 力で眼前に立ちあらわれ、その心の動きが在地の農業からいつのまにか離陸しはじめる。地 に足がっかなくなったといってもよい 名主の仕事に嫌気がさし、農業をさばり、みずからを「松沢村の芋掘名主」と呼んで自嘲 し、転落と放浪の生活がはじまる。天保から嘉永にかけての時期だ。かれはすでに四十の坂 2 ー 8

5. 宗教の話

いない。平田門下の国学者に強い危機意識を植えつけたとしても不思議ではなかった。 右にみたように、「貧富正論』を論じて思わず筆が高田屋嘉兵衛の話に飛躍し、ついに 「神国」日本の構想にまでその議論が昂揚していったのも、おそらくそのためであったろう。 かれはそこで日本を「神国」と称し、何千艘の軍船が攻め寄せようとも、かならずや「神 風」が吹いて撃退するだろうといっている。その口調には、右にみてきた漂流奇談が示して いるように、御鬮による神勅に傾倒し神明による冥助を祈念する敬神の思いがこめられてい るようにみえるではないか。その確信にも似た思いは、幽世の霊威を信ずるかれの世界観と 切っても切れない関係にあるものだったにちがいない。 こうして宮負定雄もまた師の平田篤胤と同じように、国際関係が緊張を帯びて膨張すると 学きは幽冥界にも通ずる独自のナショナリズムの勢いをかりて、そこにくさびを打ちこもうと のしたのではないだろうか。かれの『奇談雑史』と「太神宮霊験雑記』には、このようにして 神罰、神隠し、神国という三つの思想軸が重層的な形でたたみこまれていたように思うので るある。 す 想 幻 を 界 神 239

6. 宗教の話

松沢村の芋掘名主 みやおいやすお 宮負定雄とは、聞き慣れない名前である。幕末期における草莽の国学者で、平田篤胤の門 人だったという。それはそうなのだが、しかしそういい切ってしまっては、宮負定雄の個性 のようなものがいささかも立ちあらわれてはこない。むしろそんな概括は、かれの精神の実 像に迫るためには邪魔にこそなれ、役に立っことはほとんどない。 宮負定雄は寛政九 ( 一七九七 ) 年に下総の地・香取郡に生まれて、安政五 ( 一八五八 ) 年 に同地で死んでいる。享年六十二であった。かれが生まれた寛政九年といえば、日本各地の 海上に外国船がしきりに出没しはじめていたころだ。『海国兵談』を出版した林子平がすで に処罰され、宮負とは同じ下総の伊能忠敬が、やがて蝦夷地の測量に出立していく。風雲急 ・ 4 神界を幻想するー幕末の国学者 2 ワ

7. 宗教の話

『奇談雑史』全十巻 出奔以前の宮負定雄と出奔以後の宮負定雄を分かっ画期は、先述の通り天保から嘉永にか けての時期、すなわちかれの四十の坂をこえた時期を指すが、その画期の中身をなすものが、 霊異、霊験の世界へのつよい傾斜、神異、冥界への求心的な探索にほかならない。それは農 業の改良家の急激な転身であり、国学を学ぶ土着するリアリストが、突如として幽明界との 交流に鋭い神経を働かすにいたる変身の物語といってもよい。そしてその変身の物語を演出 した磁場が、まぎれもなく平田篤胤という個性によって抱かれた幽明観であったことはいう までもない。 この時期における、そのような思想遍歴を象徴する作品の一つが、たとえば『奇談雑史』 全十巻ではないだろうか。それを著わす前後のころ、かれは東海地方に旅し、伊豆・駿河に 足をのばすとともに地元の下総をくまなく歩いてもいる。各地に奇談や伝説を求め霊験の種 を発掘して、民俗探訪のノートを積み重ねていった。右に記した『奇談雑史』はそのような きまで、それでよ ) っこゝゝ 。しオしカれは何をしていたのか そのことから、まず見ていこう。 220

8. 宗教の話

者 学 国 の 幕 奇談から冥界交流譚へ る 私は『奇談雑史』には、和歌物語風のもの、『日本霊異記』の霊験譚風の味のもの、そし す 想て『今昔物語』にみられる説話仕立てのもの、などが混淆しているということをさきにのべ 界た。そしてそれらの「奇談」がかならずしも一貫した性格を示すものではないこともあわせ 神 て示唆しておいた。各地に散在する「奇談」の収集への関心の方が先行するあまり、主題整 このようにこの『太神宮霊験雑記』はさきに紹介した『奇談雑史』とは若干その成立の事 情を異にしている。したがって『太神宮霊験雑記』の性格にも多少の偏りがないではない。 しかしながらこの二種の霊験物語集を読みくらべるとき、そこから共通の主題が浮きあが ってくることも疑いない。そしてその共通の主題の中には、作者である宮負定雄の人間と思 想が鮮やかに刻みこまれてもいる。おそらくそこには、かれが後半生にいたってしだいにの めりこんでいった遍歴・漂泊の旅、あるいは錯乱と狂気の行動の動機を解き明かす鍵が、ひ そんでいるのではないか。平田篤胤の門人として出発したのち、宮負定雄が宮負定雄になっ ていく自己実現の道筋が、その二つの作品を彩る主題のなかにたたみこまれているのではな いたろうか 223

9. 宗教の話

篤胤と参沢および宮負の三者の関係が神隠し少年の霊験を軸に語られているのであって、そ れをのぞいてみることにしよう。最初に、まず現世と幽世についての議論、ついで三者の結 びつき、というエ合に話は進行していく。 まずはじめの議論であるが、現世のことは天孫ニニギノミコト ( すなわち天皇 ) が主宰す べきであるが、幽世はオオクニヌシノミコトの所管事項である、という。また幽世と現世は 画然と分れているものだが、その場合、幽世が「本」で現世が「末」であることを忘れては ならない。すなわち現世においては政道 ( 政治 ) をもって形を慎しむものであるから「末」 であるが、幽世は神の教えをもって心を修める徳を積むところに本質があるから「本」であ る。この幽・現にかんする「玄妙なる理」を考えだしたのが師・気吹廼舎の平田大人なので たまのみはしら 学あって、その思想が『霊能真柱』という著述になって実った。 国 しのびがおか の ところが去る文化九 ( 一八一 (l) 年、大江戸は忍岡のあたりに住んでいた高山寅吉なる 不思議な童子が、神仙 ( 山人 ) に誘われて神隠しにあった。あとから明らかになったところ によると、常陸国岩間山に往き、その山人の弟子となってさまざまなことを学び、ふたたび す 大空を翔けてこの世にもどり「幽世」のことを人びとに伝えた。それをきき知った大人が寅 界吉少年を呼び寄せ、その物語るところを記したのが『仙境異聞』にほかならない。それだけ 神 ではない。大人はさらに和歌をつくって少年に与え、山人にとどけさせるほどの心の入れよ 229

10. 宗教の話

うであった。 やがて大人は神界とのあいだを往来する少年に神人の姿を語らせ、その肖像を人に描かせ た。ところがどうしたわけかその肖像画が人手に渡り、行く方しれずになった。たまたま宮 しよし いっ 負が日本橋のある書肆でそれを発見し、大人の勧めもあって自分の家で斎き祀っていた。 そうこうしているうちに、嘉永七 ( 一八五四 ) 年のこと、紀州の和歌山に嶋田幸安という 童子がいて、幽界に往来しているという噂が耳に入った。不思議なことに、気がついてみる と例の神人の肖像画が消え失せていた。それでは話題の幸安少年にその消息をきいてみよう と思い、西国に旅立っことにした。かの地には、同門の参沢明もいる。しかしはるばる訪ね たところ、幸安少年は幽界に去ったままだという。が、このたび幸い参沢が、少年からきき だしたことを『神界物語』二十巻にまとめて上梓した。よって後序を贈って、その労に報い ようとしたのである云々 : みられる通り、ここには、幽世こそが本源的世界であり、それが存してはじめて現世があ るという考えが示されている。それは何よりも篤胤の世界観の中心を占めるものであったが、 それが宮負と参沢によっても共有されていたことがわかる。そして第二に、寅吉少年と幸安 少年による冥界往来が動かしがたい事実としてうけとられ、それが見えざる糸となって篤胤、 宮負、参沢の運命を結びつけていたいきさつが語られている。宮負の『奇談雑史』と『太神 230