「政教分離」といえば、すでにわれわれのあいだに常識のようなものができあがっている。 その第一は、ゝ しうまでもなく政治と宗教の分離ということだ。政治の世界に宗教的信念を介 入させてはならない、 という考え方である。なぜなら政治は公的な性格のものだが、宗教は 私的な領域に属する問題だからである。要するに政教分離というのは、公私の別をはっきり させよ一つとい一つことだ。 その第二は、政治は世俗的な事柄にかかわるものであるのにたいし、宗教の本質はカミや ホトケなど聖なる世界にもとづくものであるから、その両者を区別しなければならないとい う考え方である。 こうして政教分離というのは、公私の別、聖俗の別をはっきりさせて、政治と宗教の境界 をつねに明確にしておくということになる。周知のようにこのような考えは、人類が長いあ いだかかってつくりあげてきたものだ。古今東西にわたって政治と宗教の戦いの時代がつづ き、政治と宗教の混淆、混同の時代がくり返されてきた。そういう苦難の道程をへて、政治 と宗教を分離するという近代国家の理念がつくられた。 私はこの政教分離の理念を、戦後の日本人は忠実に守ってきたと思う。むろん他方で政治 家による靖国神社参拝の問題があり、地鎮祭などをめぐる自治体レベルでの裁判が発生した。 係争中のものもすくなくない。しかしながらそれにもかかわらず私は、日本における政教分
宗教にたいする軽侮の念を自分たちのうちに養い育ててきたのではないかということである。 公の政治・経済の舞台から私的な宗教や信仰を排除することに熱中するあまり、宗教や信仰 おとし の価値をことさらに貶めたり忘却したりする道にすすみでてしまったのではないか、という ことだ。その宗教にたいする軽侮の念が、明治以降、日本の知識人たちの内面に育まれてき た無神論的な心情と重なり合って、現代に及んでいるように私にはみえるのである。 その結果、今日、政治や経済の運営にあたっていたるところにみられるように、宗教や信 仰の領域の問題をいつでもカッコに入れてしまうという心的態度が生みだされることになっ た。公の政治と私の宗教の区別に神経質になりすぎた結果、私としての宗教の重大性への関 心がかぎりなく稀薄になってしまった。いわば人間観の世俗化が行きつくところまでいって しまったのである。 一例をあげてみよう。土井たか子さんが一九八六年に社会党の委員長になったときのこと だ。女性委員長の誕生、という華やかな話題を呼んだのであるから、その経歴が内外のマス コミによって詳しく報道されたのも当然であった。 そのとき外国の英字紙では、土井さんをクリスチャンとはっきり紹介していたが、日本の 新聞のほとんどはその重要な経歴を無視していた。その後、土井さんが衆議院議長になって も、そのことは報道されなかった。
否定しているのは、インドのガンディー主義の影響によるものといえよう。 そしてこの場合チベットの亡命政府と難民たちを一つの紐帯に結びつけるうえで、ダラ イ・ラマにたいする尊崇という宗教的契機と、非暴力主義というガンディーの政治思想が重 要な役割をはたしていることに注意しなければならない。それはおそらく、祖国や国土から 引き離され均質な政治空間をもちえない「難民」たちにとって、自立と連帯を確かなものに するのに不可欠の戦略だったのではないだろうか。 ふり返って、われわれ自身の歴史的現実を見直してみよう。 いまや現代は、世界的規模で ポーダ 1 レス ( 無国境 ) の時代に突入しつつある。「冷戦」体制が終り、国家の枠組みとそ の存続の仕方が大きく口 門い直されつつあることは周知のことである。すでに東欧の政治体制 は激変し、旧ソ連の混乱が進行の度を加えている。またバルト三国も独立し、その上、最近 では旧ユーゴスラビアの民族問題が火を噴き、容易ならざる事態を迎えていることは周知の 通りだ。他方、ドイツの再統一がのその後の展開に新しい変動要因をもたらして今日に 及んでいる。 そして、それらの急激な動きのなかでとくに見逃しえないのが、巨大な規模の東から西へ の人口流動であり、ナショナリズムの爆発的な拡大の問題ではないだろうか。 大量の人間群が国家の枠組みをこえて流動化し、民族独立の自己主張が宗教や人種の旗を 24
日蓮イデオロギーと超国家主義 「全共闘」運動が終熄してからしばらく経ったころだったと思う。三島由紀夫が「楯の会」 の会員四人と市ヶ谷の陸上自衛隊に乱入し、割腹自殺をとげたときからそう遠くない日であ った。私はたまたま政治学者の橋川文三さんのお宅にうかがった。 橋川さんはそのころあまり執筆に精を出さず、囲碁三昧の毎日のようだった。それに酒も 欠かすことがなかったのではないだろうか。疲労の影が顔の表情にも語り口にもあらわれて 思い出話のようなこと、学問のこと、ご自分の仕事のことなどが脈絡もなく話題にのばっ ていた。三島の割腹自殺のニュ 1 スが伝わったとき、村上一郎さんが市ヶ谷に駆けつけ、ポ かのばって十五 5 十六世紀に発生した一向一揆における宗教と政治のテーマである。つけ加 えていえば、この二つの歴史的「事件」をレヴィストロ 1 スのいう「強い歴史」と「弱い 歴史」の考え方に立って見直してみるとき、そこからいったいどのような光景があらわれて くるのだろうかということだ。 そのうち、まず近代のほうからはじめることにしよう。
したダライ・ラマの「亡命」体験が、現在進行中の歴史的事件にたいして尽きせぬ教訓を提 供しているようにみえるのである。 さきにもふれたが、八九年度のノ 1 ベル平和賞はダライ・ラマに与えられたが、九〇年度 のそれはソ連のゴルバチョフに与えられた。そして九一年度は、軍政下にあるミャンマ 1 で、 当時なお軟禁状態におかれていたアウン・サン・スー・チー女史におくられた。その後も、 受賞者はグアテマラのリベルタ・メンチュ、南アフリカのネルソン・マンデラ、フレデリク・ クラーク : : : と続いている。それは現代世界がかれらに何を期待しているかを示す象徴的な 事件であったといえよう。 むろん右に挙げた政治家たちの政治的背景には、 ) しくつもの重大な相違がみとめられる。 たとえば皮肉なことにゴルバチョフ大統領は、その政策の結果として平和を求める大量難民 を発生させることになったが、これにたいしダライ・ラマの方は、みずから平和を求めて難 民の運命を選びとった人間だからである。 今日、ダライ・ラマの存在を語ることは、こうして人類の眼前で進行中の大量の人口移動 という問題を考え、ポ 1 ダーレスの時代の行方を占うことにつながるのではないかと思う。 難民の指導者としてダライ・ラマは、 ) しよいよますます現代のわれわれに黙示録的な意味 を投げかけているのではないだろうか 216
′ 4 宗教と日本人 オウム真理教事件と日本宗教の終焉 : 宗教を忘れた戦後政治学・歴史学 : 時代とオウムと『悪霊』の世界・ 宗教における「悪」とは何か 日本人とメシア思想 無神論者のまなざし・ : はしがき 107 9 / 83
問題に深入りする人はいなかったはずだと、残念そうにいわれたからである。 そのときの橋川さんの淋しそうな表情が、い ま眼前に思い浮かぶ。そういわれて口をつぐ んでしまった橋川さんの疲れたような眼差しが蘇る。数えてみれば、あれからもう四半世紀 も経っているのである。その橋川さんも、そしてさきの市ヶ谷に駆けつけた村上さんも、す でに幽明境を異にしてしまった。 その後、その橋川さんの言葉が気になっていて、それとなくそれらしい文献にあたってみ たのであるが、さきに出した疑問に応えてくれるような書物に出会うことはなかったように 思う。そういえば、たとえば丸山真男氏のよく知られた論文「超国家主義の論理と心理」や それに関連する諸論文のなかでも、右にのべたような問題意識に出会うことはなかったので ある ( 『現代政治の思想と行動』Ⅱ未来社、あるいは『日本の思想』Ⅱ岩波書店 ) 。日本の近代政 治学の系譜は、政治行動における宗教的契機なるものをいったいどのように考えてきたので あろうか。触らぬ神に祟りなしで、あえてこの問題を正面からとりあげようとはしなかった のであろうか。 私はかねてから、日蓮の思想の質を理解するためには、その自己認識にかんする特異な性 格に着目する必要があるだろうと思ってきた。そしてそのかれの自己認識は、同時に「日本 国」にたいする日蓮自身の帰属意識と表裏一体の関係をなしていると考えていた。たまたま
くとも私にはそのようにみえる。なぜならそこでは、「一揆」における同志的結合を「一味 神水」と「一味同心」にもとづく誓約共同体としてポジテイプに評価する半面、闘争と排除、 強制と暴力によって惹起される「一揆」の狂気をネガテイプな逸脱として歴史の舞台の背後 に押しやってしまっているようにみえるからである。思いすごしでなければよいのだが、 「一揆」のエネルギーを民衆の連帯と解放という理念の軌道にのせようとするあまり、その 虚無的な暴発の情熱に「反革命」の烙印を押し、闇から闇に葬り去ろうとしていたのではな いたろうか 「一揆」の運動に遍在する宗教的契機をできるかぎり希釈すること、すくなくともそれを過 渡的な暴発現象として歴史の裏街道に位置づけること、 それが「宗教」の過剰な侵入に 史対処するときの戦後歴史学の無意識の方法であったと思う。論より証拠、戦後になって「日 歴 本の歴史」について企画され編集されたおびただしい数の「全集」や「叢書」シリーズの目 学 斑次を眺めてみるだけでよい。それがいかなる時代を扱う巻であれ、まず巻頭から順に政治 輒史・経済史の叙述があらわれ、やがて文学や芸術についての議論が登場する。その歴史記述 の本流にたいして、「宗教」にかんする項目はいちじるしく比重を減じた形でようやく巻末 教近くにひとくくりにされるか、あるいは政治・経済にかんする論議の行間に見え隠れするよ 宗 うにはめこまれているにすぎない場合が多いのである。
ロポロになった旧日本海軍将校の身分証明書をみせ、現場に通せといって拒絶されたという 話もでていた。私はそのときのいきさつを、村上さん自身から聞いていた。 当然「日本浪漫派」のことも話題になっていた。橋川さんはあまり気乗りがしないような ふうであったが、どういう筋をたどってであったか一九三〇年代の「超国家主義」前後のこ とで議論になった。その超国家主義の運動にかかわった北一輝や大川周明、井上日召や石原 莞爾らの名前があがっていたように思う。 かれらの思想のあれこれについてポツリポツリ語りはじめたとき、橋川さんはいく分生気 をとりもどしたようだったので、私はかねてから気になっていたことを口に出してみた。い まあげた超国家主義者たちは共通して日蓮の宗教に帰依していたが、その日蓮イデオロギー 史とかれらの超国家主義のあいだにどのような因果連関があったのだろうか、というのが私の 歴 疑問であった。そのことを橋川さんに直接ぶつけてみたのである。日本近代の日蓮主義が国 学 斑家改造の理念といったいどのようにリンクしていたのか、ということである。 その私の質問にたいする橋川さんの返答が、期待に反してまことに意外なものだった。な ぜなら、まさにその因果連関の部分がもっとも理解しにくく分析できないところなのだとい 忘 教う言葉が返ってきたからである。結局、そのテーマだけは正面からとりあげることを回避す 宗 るほかはなかった、いや、それは自分だけではない、大方の政治学者や政治思想史家もその
その三十七年の間にダライ・ラマ十四世は、国連に「チベット問題」を提訴し、チベット 人の基本的人権とかれらの文化的・宗教的生活の尊重を要求しつづけた。世界各国を廻って チベットの立場を主張するとともに、インドに亡命政府をつくって亡命チベット人にたいす る支援をえるために懸命に奔走したのである。 その間、チベット本土では土地改革が推進され ( 六一年 ) 、チベット自治区が成立してい る ( 六五年 ) 。だが中国のチベット政策とダライ・ラマの政治的立場は平行線をたどったま ま合意に達することなく、ダライ・ラマの本国復帰も実現せずに事態が経過していった。 そのいわば現代のさ迷える「王」としてのダライ・ラマの名が、一躍世界の舞台に登場し たのが、さきにもふれたように八九年の秋にノーベル平和賞を受賞したときであった。根拠 マ 地を奪われた流浪の聖者が、人類の平和を象徴する栄光の聖者へと転身したときであったと ってよいだろう。 ダ それだけではない。 この八九年という年は、ダライ・ラマにとってだけではなく、世界の 聖人類にとってもけっして忘れることのできない激動の時代であった。 まず六月に、中国では天安門事件が発生し、ついで秋にはベルリンの壁がくずれ落ち、東 浪欧からソ連にかけての広範な地域に民主化の波が急激に広がったからである。ダライ・ラマ 流 へのノーベル平和賞の授与は、それらの一つづきの政治的事件と連動する形で突如としてか 209