第 125 かった。彼の視線は震えなかったからだ。そして、「それではあなたは何の希望ももたず、完全 に死んでゆくと考えながら、生きているのですか ? 」と彼は尋ねたが、その声もまた震えなかっ た。「そうです」と私は答えた。 すると司祭はうなだれて、また腰をおろした。あなたを気の毒に思う、といった。そのように 生きることは人間には堪えがたい、と彼は思ったのだ。私はただ、司祭が私に対して退屈を覚え はじめたのを感じた。今度は私がわきを向いて、天窓の下に行った。・私は肩を壁〈もたせかけ 部た。謹聴してはいなか 0 たが、司祭がまた私に向か「て問いかけはじめたのが耳に入「てきた。 彼は不安げな、切ない声でしゃべ 0 ていた。彼が感動していることがわか 0 たので、私は少し身 を入れて聞いた。 司祭は、あなたの上訴は受理されるだろうが、しかし、あなたはおろさねばならぬ罪の重荷を 負うている、という彼の信念を、語 0 た。人間の裁きには何でもない、神の裁きがい 0 さいだ、 と彼はいった。私に死刑を与えたのは、人間の裁きだ、と私がいうと、それはそれだけのもので あ 0 て私の罪を洗い清めることはない、と彼は答えた。罪というものは何だか私にはわからな い、と私はいった。ただ私が罪人だということをひとから教えられただけだ。私は罪人であり、 私は償いをしている。誰も私にこれ以上要求することはできないのだ。このとき、司祭はまた立 ち上がった。この狭い独房では、彼が動こうとしても、選択の余地がない、と私は考えた。彼は
異邦人 122 ろに染まるのをながめていて夏の夕暮れの近いのがわかった。今しがた私は上訴を却下したと ころで、私の血液が規則正しく体をめぐるのが感じられた。私は御用司祭に会う必要がなかっ た。ほんとうに久しぶりで、マリイのことをしのんだ。もう何日も手紙もくれずにいた。そのタ べ、考えた末、マリイも死刑囚の恋人たることに、疲れたのかも知れない、と私は思った。彼女 は病気かも知れない、死んだのかも知れないーーそんな風にも考えられた、それは当然なことだ った。今や離れ離れの二人の肉体以外に、われわれを結びつける何ものもなく、またお互いを思一 い起こさせる何ものもないのだから、そんな消息をどうして私は知りえただろう。それに、この とき以来、マリイの思い出はどうでもよくなった。死んだとしたらマリイは、もう私の興味をそ そらなかった。私はそれが普通だと思った。私が死んだらひとびとは私を忘れてしまう、そのこ とをよく承知していたから。ひとびとは、私に対してもうどうすることもできないし、私の方 は、それは考えるだに堪えがたいということさえできないのだ。結局において、ひとが慣れてし まえない考えなんてものはないのだ。 まさにこのとき司祭が入って来た。彼の姿を目にすると、私はちょっと身震いした。司祭はそ れに気。ついて恐れないようにといった。いつもは違う時間に来るのに、と私がいった。司祭は、 これは私の上訴と何の関係もない、全く友人としての面会であり、上訴については何も知らな い、と答えた。私の粗末な寝台に腰かけて、彼は自分のそばに来てすわるようにすすめた。私は
第 ジャク、出掛けてもいいといいなさい」と電話で命じた。 それから院長は自分も埋葬に立ち会うといった。私はお礼を述べた。彼は机の後に腰をおろし て、短い足を組んだ。あなたと自分と付添いの看護婦だけでゆくのだと彼は私に告げた。原則と して、在院者は埋葬に参列してはならない。院長はお通夜だけは許したのだ。「これは人情です からね」と彼は力をこめていった。しかし、この場合には、ママンの年老いた友人△トマ・ペ レ》に、葬列に従うことの許可を与えていた。ここで、院長が微笑した。「おわかりでしよう。 部少々子供 0 ぽい感情です。でも、彼とあなたのお母さんとは、しょ 0 ちゅう一緒でした。養老院 いいな . け では二人をからかい、ペレに向かって、『あれがあなたの許嫁だ』などといったものです。彼は 笑っていましたし、これはふたりを喜ばせたのです。そして、マダム・ムルソーの死が彼に深い カ医師の勧め 印象を与えたことは事実です。この許可を拒絶すべきだとは思いませんでした。 : 、 に従って、昨日のお通夜は彼に禁じておいたのです」と彼はいった。 われわれはかなり長いこと黙っていた。院長が立ち上がって、事務室の窓からながめた。と、 間もなく、「そら、マランゴの司祭がお見えだ。早目に来られたのだ」といった。村の教会に行 くには、歩いて少なくも四十五分はかかるだろうと前もって私にいい渡した。われわれは下へ降 りた。建物の前には、司祭と合唱隊の二人の子供がいた。その一人は香炉をささげ持ち、司祭は 銀鎖の長さを調節するためにその子の方へ身をかがめていた。われわれが着いたとき、司祭は身
異邦人 124 れは当たり前のことだった。「そのとき、神様があなたを助けて下さるでしよう。私の知るかぎ り、あなたのような場合には、どんなひとでも、神の方へ向かって行きました」と司祭がいっ た。それはそのひとたちの権利だ、ということを、私は認めた。それはまた、そのひとたちに暇 があったことを示していた。私はといえば、助けてもらいたくなかったし、また私に興味のない ことに興味を持っというような時間がなかったのだ。 このとき、彼の手がいらいらした仕ぐさを示したが、彼はからだを起こして、その法衣の皺を 直した。やり終えると、私を「友よ」と呼んで、話しかけて来た。彼がこのように私に語りかけ るのは、私が死刑囚だからではない。われわれはすべて死刑囚なのだ、と彼はいった。しかし、 私は彼の言葉をさえぎって、それは同じことではない、のみならずそれはどんな場合にも慰めと はなりえない、といった。「確かにそうです」と彼は、同意した。「しかし、あなたはじきに死な ないとしても、遠い将来には死ななければならない。そのときには同じ問題がやって来るでしょ う。この恐ろしい試練に、どうして近づいて行けるでしようか ? 」現に、私が近づいているよう に、正確にそれに近づいて行けるだろう、と私は答えた。 この言葉を聞くと、司祭は立ち上がって、私の眼のなかを真っすぐに見た。これは私のよく知 っていた遊戯だ。私はよくエマニュエルとかセレストとこの遊びをしたものだ。たいてい、彼ら は眼をそむけてしまった。司祭もまたこの遊びをよく知っていたのだろう、私にはすぐそれがわ
すわるか、立つかしなければならなかった。 私は床に目を伏せていた。司祭は一歩私に近よったが、それ以上前へ出る勇気がないというよ うに、立ちどまった。彼は格子を通して、窓をながめ、私にいった。「わが子よ、あなたは間違 っています。あなたにこれ以上の要求をすることもできます。恐らくあなたは要求されるでしょ 「何を見るのですか ? 」 うーーー「一体何をですか ? 」「見ることをあなたに要求するのです」 まわ 司祭は周りを見まわし、急に疲れ果てたような声で、答えた。「すべてこれらの石は苦しみの 人 汗をかいています。私はそれを知っている。私は苦痛を感ぜずに、それらをながめたことはあり ません。しかしこころの底では、私はまた、あなた方のうちのどんな悲惨なひとびとでも、心の 邦 開の底から、神の顔が浮かび出るのを見た、ということを知っています。あなたに見ることを求 異めるのは、この神の顔です」 私は少し興奮した。何カ月も前から、この壁をみつめている、と私はいった。この世でこれ以 上私がよく知っているものは、何一つ、また誰一人なかったのだ。恐らく、ずっと前には、私も そこに一つの顔を求めていただろう。しかし、その顔は太陽の色と欲情の炎とを持っていた。そ れはマリイの顔だった。私はむなしくそれを追い求めた。が今ではそれも終わった。いずれにし ても、私はこの石の汗から、何一つ現われ出でるのを眼にしなかったのだ。 司祭は一種悲しげな眼で私をながめた。今や、私はすっかり壁に背をもたせかけていたので、 126
第 部 拒絶した。それでも彼は大へん穏やかな様子だった。 前腕を膝に置き、うなだれて、彼はしばらくそこに腰かけたなり、自分の手を見つめていた。・ びんしよう その手はほ 0 そりと、筋張 0 ていて、敏捷な二匹の獣を思わせた。司祭はしずかに両手を互いに こすり合わせた。それから、相変わらず頭をたれたまま、じ 0 としていた。それがあまりながか ったので、ふと、私は彼のことを忘れていたような気がしたほどだった。 しかし、突然司祭は頭をあげて、私を真正面からながめ、「なぜ私の面会を拒否するのですか ? 」 とい「た。神を信じていないのだと答えた。その点確信があるのか、と彼が尋ねたので、私は、 それをくよくよ考えるようなことはしない、そんなことはつまらぬ問題だと思う、とい 0 た。す もも ると彼はうしろに反りかえ 0 て、平手を腿に置き、壁に背をもたせかけた。ほとんど私に話しか けるという風でなしに、自分では確信があるような気がしていても、実際はそうでないことがあ るものだ、とつぶやいた。私は何もいわずにいた。司祭は私をながめて、「どう思いますか ? 」 と尋ねた。私はそうかも知れない、と答えた。とにかく、私は現実に何に興味があるかという点 には、確信がないようだ 0 たが、何に興味がないかという点には、十分確信があ 0 たのだ。そし てまさに彼が話しかけて来た事がらには、興味がなかったのだ。 彼は眼をそむけ、相変わらずその姿勢を変えずに、絶望のあまり私がそのように話をしないの 貶か、と尋ねた。私は絶望しているわけではない、と説明した。私はただこわか 0 ただけだが、こ
を起こした。彼は「わが子よ」と私を呼び、二言三言いった。彼は入って来た。私は彼につづい 柩のネジが深く打ち込まれ、部屋には四名の黒い服の男がいるのを、私は一目で悟った。車が 道で待っていると院長が私に伝えるのと、司祭が祈りをはじめるのとを、同時に聞いた。このと とも すみや きから、万事速かに進んだ。男たちが布の掛かった柩の方へ進み出た。司祭とそのお伴、院長と 私とは外へ出た。戸口の前に、私の知らない婦人がいた。「ムルソーさんです」と院長がいった。 人 この婦人の名は聞かなかった。ただ受持の看護婦だということだけを了解した。彼女は微笑も見 せずに、骨張った長い顔を傾けてお辞儀をした。それから死体を見送るために、われわれは並ん 邦 だ。われわれは人夫の後に従い、養老院を出た。戸口の前に、車がいた。ニスを塗って、細長く 異ビカビカしたその車は、筆入れを思わせた。そのかたわらに、葬式の宰領がいた。おかしな服を かっこう 着た小男だ。それから、いかにもぎごちない恰好の老人が一人。、それが。ヘレ氏だと私は悟った。 彼は、天辺のまろく、縁の広いソフトをかぶり ( 柩が戸口を通るときにはそれを脱いだ ) その服 えり はといえば、ズボンの裾が靴の上までたれさがり、おまけに、白い大きな襟のついたシャツに対 くちびる して、黒いネクタイは、あまり小さ過ぎた。黒いいぼのくつついた鼻の下で、唇が震えていた。 そうはく 細い白髪のあいだから、たるんで、縁のくすれた、妙な耳がのぞいていた。蒼白な顔のなかの、 この耳の血のように赤い色か、印象的だった。宰領がわれわれの位置を定めた。司祭が先に立っ こ 0 すそ
130 を叫びながら、私は息がつまってしまった。しかし、すでに司祭は私の手から引きはなされ、看 守たちが私を脅かしていた。でも司祭は彼らをなだめ、一瞬黙って私を見た。その眼には涙があ ぎびす ふれていた。彼は踵を返して、消え去った。 彼が出てゆくと、私は平静をとり返した。私は精根っきて寝台に身を投げた。私は眠ったらし かった。顔の上に星々のひかりを感じて眼をさましたのだから。田園のざわめきが私のところま で上って来た。夜と大地と塩のにおいが、こめかみをさわやかにした。この眠れる夏のすばらし 人 い平和が、潮のように、私のなかにしみ入って来た。このとき、夜のはずれで、サイレンが鳴っ た。それは、今や私とは永遠に無関係になった一つの世界への出発を、告げていた。ほんとに久 邦 、いなずけ し振りで、私はママンのことを思った。一つの生涯のおわりに、なぜママンが「許婚」を持った 異のか、また、生涯をやり直す振りをしたのか、それが今わかるような気がした。あそこ、幾つも の生命が消えてゆくあの養老院のまわりでもまた、夕暮れは憂愁に満ちた休息のひとときだっ た。死に近づいて、ママンはあそこで解放を感じ、全く生きかえるのを感じたに違いなかった。 なんびと 何人も、何人といえども、ママンのことを泣く権利はない。そして、私もまた、全く生きかえっ から たような思いがしている。あの大きな憤怒が、私の罪を洗い清め、希望をすべて空にしてしまっ たかのように、このしるしと星々とに満ちた夜を前にして、私ははじめて、世界の優しい無関心 に、心をひらいた。これほど世界を自分に近いものと感じ、自分の兄弟のように感じると、私
第 部 121 し、それにもう何千年もそうして来たのだから。要するにこれほど明らかなことはないのだ。今 であろうと、二十年後であろうと、死んでゆくのは、同じくこの私なのだ。このとき、こうした 推論のなかで多少私を苦しめたのは、それは、これから先の一一十年の生活を考えたとき、私が胸 おど に感じたおそろしい心躍りだ 0 た。しかし、それは、二十年たって、やつばりそこまでゆかねば ならなくなったとき、自分がどう考えるかを想像することによって、息の根止めてしまいさえす ればよかった。死ぬときのことを、いっとか、いかにしてとかいうのは、意味がない。それは明 白なことだ。だから、 ( 難しいのは、この「だから」という一言葉が推論上表わすところのいっさ いを、見失わないということだ ) だから、私は上訴の却下を承認せねばならなかったのだ。 このとき、このときだけ、いわば私はその権利を持っていたのだが、第二の仮定に近づくこと を自分に許した。私の赦免のことだ。たまらないのは、ばかげた喜悦で私の眼をチクチク刺激す る、あのはやりたっ血と肉の衝動を、静めなければならなかったことだ。この叫びをおしつぶ し、この叫びを説得することに骨折らねばならなかった。第一の仮定における私のあきらめを、 十分もっともなものとするためにはこの第二の仮定においても、私は当たり前な顔でいなければ ならない。私はそれに成功して、一時間ほどの平静をえた。それは、とにかくたいしにことだっ 御用司祭の訪問をまたもや拒絶したのは、こうしたときだ。私は横になっていた。空の黄金い こがね
異邦人 山いたが、それが近いのか遠いのか、わからなかった。やがて、廷内で低い声が何か朗読するのが 聞こえた。再びベルが鳴り、 - 被告席の扉がひらかれたとき、私の方へ押しよせたのは、廷内の沈 黙だった。沈黙と、例の若い新聞記者が眼をそむけたのを確認したときの、あの異様な感じだっ た。私はマリイの方は見なかった。私にはその瑕がなかったのだ、というのは、さっそく、裁判 長が奇妙な言葉っきで、あなたはフランス人民の名において広場で斬首刑をうけるのだ、といっ たからだ。そのとき、私は顔という顔にあらわれた感動が、わかるように思われた。それは、た しかに尊敬の色だったと思う。憲兵たちは私にやさしかった。弁護士は私の手首にその手を載せ た。私はもう何も考えてはいなかった。しかし、裁判長は何もいい足すことはないかと尋ねた。 私は考えてみた。私は「ないです」といった。そのとき私は連れてゆかれた。 三たび、私は御用司祭の面会を拒絶した。、何もいうべきこともない。しゃべりたくもない。そ のうちに会うことにしよう。今私の興味を引くものは、メカニックなものからのがれること、不 可避なるものに抜け道がありうるかを知ることだ。独房が変えられた。その部屋で長く寝そべる ちうよらく と、空が見える。そして空しか見えない。その空のおもてに、昼から夜へと移る色彩の凋落をな ざんしゅ