第 過ぎると、判事がその部屋の戸口まで私を送って来て、私の肩をたたき、「今日はこれで終わり です、反クリストさん」と打ちとけた様子でいいかける。あの瞬間を除いては別に何のことにも 楽しみを見出さないのに我ながら驚くほどになっていた、ということができる。そこで私の身柄 は憲兵の手に渡された。 断じて語りたくなかったことがらもある。刑務所に入って、数日たっと、私は自分の生活のこ うした部分を語りたくないということが、わかった。 しばらくすると、こうした嫌悪の念に、私はもう大した意味を認めなかった。実際において、 ばくぜん 最初のうち、現実に刑務所にいたとはいえなかった。私は漠然と何かの新しい出来事を期待して いた。すべてがはじまったのは、マリイの最初にして、最後の訪問を受けてから後のことだ。マ リイの手紙をもらった日から、 ( マリイは私の妻ではないから、もう面会の許可はおりないだろ うといって来た ) その日から、自分の独房にいて、わが家にいるように感じ、自分の生活がその なかに限られていると感ずるようになった。私が逮捕された日には、最初、数名既に留置されて 行いる部屋に入れられたが、大部分は、。ナラビア人だった。連中は私の方を見ながら、笑った。や
第 来、同じ努力をつづけていたに過ぎない。その日、看守の出て行ったあとで、私は鉄製の椀にう つった自分の姿をながめた。私の肖像は、それに向かって微笑んでやろうとしたにもかかわら 微笑したが、 ず、なおまじめな顔をしているように見えた。私はそれを眼の前で揺り動かした。 , 顔の方は、相変わらず、厳しく悲しげなようすだった。日が暮れかけていた。これは私の語りた くない時刻だった。この名のない時刻に、沈黙を連ねた刑務所の各階という階から、タベのもの おとが立ち昇ってゆく。私は天窓に近より、最後のひかりのなかで、もう一度自分の姿をうっし 部てながめた。相変わらずまじめな顔だったが、このときなお、私がきまじめだったからといっ て、何の驚くことがあろう ? しかし、それと同時に、またこの数カ月来はじめてのことだ 0 た こわね : 、私は自分の声音をはっきりときいた。その声が、もう長いこと私の耳に鳴りひびいている声 だと聞き分け、この間、ひとりごとをいっていたのを了解した。そして、ママンの埋葬のとき、 看護婦がいた言葉を思い出した。ほんとに抜け道はないのだ。そして、刑務所内のタベタベが どんなものか、誰。 こも想像がっかないのだ。 要するに、その夏ははやく過ぎて、またじきに次の夏が来た、ということができる。最初の暑 わん
第 のを期待しながら、土曜までがまんしていたように。ところで、よく考えて見ると、私は枯木の なかに入れられたのではない。私より不幸なものだ 0 てあ 0 たのだ。これはまたママンの考え方 で、ママンはよく口にしていたものだが、人間はどんなことにもれてしまうものなのだ。 それに、普通は、そんなところまでゆくことはなか「た。最初の数カ月はつらか 0 たが、まさ に自分の努力の結果、それもようやく過ぎた。たとえば、女に対する欲望で苦しんだ。若かった から、これは当たり前のことだ 0 た。特にマリイを思 ( 一たことはない。しかし、私はしきりに、 あいぶ 部一人の女を、女たちを、また、私のし 0 ている女たちを、愛撫を与えたあらゆる機会のことを思 い、ために私の独房は、女たちの顔に満ち、私の欲情で一杯にな 0 た。ある意味では、そのこと 二が私のこころを乱したが、またある意味では、それが時を殺してくれたのだ。私はついに、食事 のときに料理場のポーイについて来る、看守長の同情を克ちうるに至った。最初私に女の話をし たのは彼だ。他の連中が訴えて来る最初のことはこれだ、と彼がいった。私は、自分もみんなと ろうや 同じであり、こんな待遇は不都合だと思う、とい「た。「けれど、あんたがたを牢屋 ( 投げ込むの 「どうして、これがためなのさ ? 」ーーー「確 と彼がいった。 は、これあるがためでさあー かにそうでさあ、自由 0 てのは、すなわちこれですよ。あんたがたは自由をとりあげられるんで さあ」私はこんなことは考えたことがなかった。私は彼に同意を示して、「ほんとだな、そうでな 。他 かったら懲罰とは何だろう ? 」といった。「そうさ、あんたというひとはものわかりが・
眼がさめると、マリイは出て行ったあとだった。彼女は叔母のところへ行くつもりだといって いた。きようは日曜だなと考え、いやになった。私は日曜は好きではない。そこで寝台へ戻り、 ながまくら たばこ 長枕のなかに、マリイの髪の毛が残した塩の香を求めた。十時まで眠った。それから煙草を数本 すい、続けて正午まで横になっ、ていた。いつもの通り、セレストのところで昼食をするのはいや だった。きっと、あそこの連中が質問するだろうが、私はそんなことがきらいだからだ。自分 で、卵をいくつも焼いて、鍋からじかに食べた。。ハンが切れていたが、部屋を降りて買いに出た 人 くなかっ・たので、パンは我慢した。 昼食のあと、すこしたいくっして、ア。ハルトマンのなかをぶらぶらした。ママンがここにいた 邦 ときは便利だった。今では私にはひろ過ぎるので、食堂の机を私の部屋へ運び込まなければなら わら 異なかった。私はもうこの部屋でしか生活しない。すこしくぼんだ藁椅子と、鏡の黄色になった衣 しんちゅう だんす 装簟笥と、化粧机と、真鍮の寝台との間に。そのほかはどうでもよかった。しばらくたって、何 かしなければならないから、私は古新聞を手にとって、読んだ。クリュシェンの塩の広告を切り 抜き、古い帳面にはりつけた。新聞のなかで面白いと思った事がらをそこに集めておくのだ。手 を洗った。最後に露台へ出た。 私の部屋は、この場末町の大通りに面している。午後は晴れていた。しかし、舗道はねばねば していた。人影もまれで、おまけに、せわしそうだった。最初に来たのは散歩に出かける家族連 なべ がまん
説 解 って出版されたとき、カミュはこの書物をジェルマンに捧けて、旧師に対する深い感謝を表明し ている。アルジェ高等中学校に進んだ力、、、ユは、優秀な成績をあけて給費生に推薦された。彼は サッカーチームでゴールキー ーとして活躍していたが、十七歳のとき肺結核の最初の発作に襲 われた。彼がのちに、大学教授資格試験を断念せざるをえなかったのもこの病気のせいである。 高等中学校の上級で彼はジャン・グルニエという哲学教授に出会った。カミュはグルニエから 深い思想的影響をうけ、『反抗的人間』や『裏と表』を彼に捧げ、グルニエの著書『島々』に序 文を寄せている。アルジェ大学に進学してから、改めてカミュはグルニエの教えをうけたのであ るが、グルニエの、実存に関する皮肉で詩的な説明や懐疑的調子は、カミュの思想的ェッセーに 深い影を落している。 一九三四年二十一歳で結婚するが、一年と少しして離婚する。また、同年の終りに共産党に入 党し、回教徒に対する宣伝の職務を受持つが、数年後に関係を断つ。この問題については諸説あ るが、原住民で構成されている人民党と共産党との間に意見の相違が生じ、カミュが板はさみの 状態におかれ、」九三七年に共産党による除名措置がとられたというのが、最も妥当な経緯のよ うである。 アルジェ大学の学生時代、彼は奨学金をもらっていたものの、さまざまなアルバイトに従事し なければならなかった。大学の気象班に属して、南部地方の気圧の状況を調査したり、自動車部
みもと 逮捕されるとすぐに、私は何度も尋問を受けた。が、これは身許確認の尋問であり、長くは続 かなかった。最初警察では、私の事件は誰の興味もそそらないように見えた。一週間たったのち 予審判事の方は、これに反して、好奇の眼をもって、私を観察したが、はじめは、私の名と住所 邦と職業、出生の日付と場所を尋ねただけだった。それから、私が弁護士を選んだかときいた。私 が選ばなかったことを認め、一人っけることが絶対必要なのかと判事に質問すると、判事は「な 異ぜか」といった。私の事件は大へん簡単だと思うと答えると、彼は笑いながら、「それも一つの考 え方だが、しかし、法の定めというものがある。もしあなたが弁護士を選ばなければ、われわれ は職権をもってそれを選任しなければならない」といった。私は、裁判上そんな細かい点まで規 定のあるのは、まことに便利だと思い、判事にそういうと、彼も私に同意し、法律というものは よくできている、と結論した。 最初、私は判事を真に受けてはいなかった。彼はカーテンをおろした部屋で私を迎えた。その ひじかけいす 机にはたった一つだけランプが載っていて、私のすわらせられた肘掛椅子を照らしていた。一
頁をめくって、「マダム・ムルソーは三年前にここに来られた。あなたはそのたった一人の御身 寄りでしたね」といった。何か私をとがめているのだと思い、事情を話し出したが、彼は私をさ えぎって、「弁解なさることはありません。あなたのお母さんの書類を拝見しました。あなたには お母さんの要求をみたすことができなかったわけですね。あの方には看護婦をつける必要があっ たのに、あなたの給料はわずかでしたから。でも結局のところ、ここにおられた方が、お母さん しあわ にも御幸せでしたろう」「その通りです、院長さん」と私はいった。「ここには同じ年配の方、お 人 友だちもあったし。そういう方たちと、古い昔の思い出ばなしをかわすこともできたし。あなた はお若いから、あなたと一緒では、お母さんはお困りになったでしよう」と院長は付け加えた。 邦 それは事実だ。家にいたとき、ママンは黙って私を見守ることに、時を過ごした。養老院に来 異た最初の頃にはよく泣いた。が、それは習慣のせいだ 0 た % 数カ月たっと、今後はもしママンを 養老院から連れ戻したなら、泣いたろう。これもやつばり習慣のせいだ。最初私がほとんど養老 院へ出掛けずにいたというのも、こうしたわけからだ。それに、また日曜日をふいにすることに なるし・ ハスに乗ったり、切符を買ったり、二時間も歩いたりすることが面倒なせいもあっ たのだが。 院長はなおも話し続けたが、私はほとんど聞いてはいなかった。やがて、「お母さんにお会い になりたいでしよう」と彼がいった。私は何もいわずに立ち上がった。彼は先に立って戸口へ向 こ - っ
異邦人 の連中はわからないね。でも、結局連中は自ら慰んでいますよ」看守はこういって立ち去った。 ひも 煙草のこともあった。リ 幵務所に入ると、ベルトや靴の紐やネクタイはとられ、またポケットに いれているものいっさい、特に煙草は、とりあげられてしまった。一度独房で返してほしいと頼 んだが、それは禁じられている、といわれた。最初の何日かはひどくつらかった。私がいちばん 打撃をうけたのは、恐らくこのことだったろう。自分のべッドの板をはがして、その木片をしゃ こも害を与えぬものを、なぜとりあ ぶった。一日中、たえまなく、吐きけがついてまわった。誰ー げられてしまうのか、わけがわからなかった。あとになって、これもまた懲罰の一部をなしてい ることがわかった。しかし、そのころには、煙草をすわないことに慣れてしまい、この懲罰は私 にとって懲罰たることをやめていた。 こうしたつらさを別にすれば、そうびどく不幸ではなかった。問題はかかって、もう一度いえ ば、時を殺すことにあった。追憶にふけることを覚えてからは、もう退屈することもなくなって しまった。時には、自分の部屋に思いをはせたりした。想像のなかで、私は部屋の一隅から出 て、もとの場所まで一回りするのだが、その途中に見出されるすべてを、一つ一つ心のうちに数 えあげてみた。最初は、すぐ済んでしまったが、だんだんとこれを繰り返すたびに、少しずつ長 くかかるようになった。というのは、私はおのおのの家具を思い出し、その一つ一つの家具につ いては、そのなかにしまってある一つ一つのものを思い出し、一つ一つのものについては、どん
109 部 きだった。いずれにせよ、前者は後者の行為を準備し、いわばそれを予告し、正当と認めていた のだ。「諸君、私は確信しておりますが」と声高に彼は付け足した。「この腰掛けにすわっている 男が、明日この法廷が裁くべき殺人事件についても、また有罪だと申すとしても、私の考えがあ まりに大胆すぎるとはお思いにならないでしよう。この男はその意味において罰せらるべきで す」ここで、検事は汗にきらきらした顔をぬぐった。最後に、自分の義務は苦しいが、断固とし おき又 てそれを遂行したい、といい、あの男はその最も本質的な掟を無視するがゆえに、社会に対して 何のなすどころもない、また、その最も基本的な反応を知らないがゆえに、人間的心情に向かっ て訴えかけることもできない、と言明し、「私はこの男に対し死刑を要求します。そして死刑を 要求してもさつばりした気持ちです。思うに、在職もすでに長く、その間、幾たびか死刑を要求 しましたが、今日ほど、この苦痛な義務が、一つの至上、神聖な命令の意識と、非人間的なもの 以外、何一つ読みとれない一人の男を前にして私の感ずる恐怖とによって、償われ、釣合いがと れ、光をうけるように感じたことは、かってないことです」 検事が腰をおろすと、かなり長い沈黙がつづいた。私は暑さと驚きとにぼんやりしていた。裁 せぎ 判長が少し咳をした。ごく低い声で、何かいい足すことはないか、と私に尋ねた。私は立ち上が った。私は話したいと思っていたので、多少出まかせに、あらかじめアラビア人を殺そうと意図 していたわけではない、といった。裁判長は、それは一つの主張だ、と答え、これまで、被告側
解説 『異邦人』は、フランスの旧植民地アルジェリア生まれの、中央文壇とはなんの関係もなかった ひとりの文学青年を、一躍文壇の寵児にしたすぐれた小説である。この一作によってカミュは、 人 短いが、まことに栄光に満ちた文学的生涯にむけて出発した。彼の発表した小説のうち、あるい は『ベスト』を、あるいは『転落』を最上とする批評家がいるにちがいないが、『異邦人』は、 あらゆる処女作がそうであるように、作者の内的音楽を最もあからさまに伝え、カミュ的問題の 異根本を私たちに示している。したがって、文学に対してほとんど正反対ともいえる考え方を抱懐 するふたりの文学者、一方はいわゆるアンチ・ロマンの作家アラン・ロプグリエと、マルキシズ ムを批評方法の根底に据える評論家リュシアン・ゴールドマンとが、そろって『異邦人』をサル トルの『嘔吐』とともに、 ここ二、三十年間のフランス小説史上の傑作であると見なしているの は、理由のないことではない。ムルソーはロカンタンと同様、作者が非常な愛着をもって造形し た人物であるが、そればかりではなく、一九三〇年代の青年たちの歓びや苦しみを一身に具現し ている典型的人物なのた。いやそれ以上のものさえある。彼みの悲劇性は、二十世紀ヨーロッパ 132