うわ。きつい 「え、でも、あたしが好ぎって思ったって、それで彼女に何かいいことあるのかな」 「ありますよ。朱音ちゃんに、好かれたいですよ。彼女もヒビキも同じです、テン・ブランク から藤谷さんを借りてくるのって、たいへんだし、勇気いるから。朱音ちゃんに自分を認めて もらったら、気分ラクです」 「認めるなんて、あたし偉くないのに」 「だって、藤谷さんのアタマのなかの、いちばんいいものが、朱音ちゃんだから。藤谷さんに 認めてもらうってことと同じです。ヒビキは、藤谷さんが負ける相手、だから、朱音ちゃんリ スペクトなんですけど。藤谷さんと仕事するとあぎれますよ。ヒビキに朱音ちゃんのドラムき かせて、『こうじゃなきやだめだ』って言うんです。それってただの自慢だし藤谷さんの勝手 じゃないですか。そんなに朱音ちゃんが基準なんだあって、びつくりしますよ」 ええ ? ぜんぜんそんなの、違う。と思った。けど。 せいいき ( 櫻井ユキノの、声域、五オクターヴあるって、坂本くんが気にしてた ) 城 利ロだって、桐哉は言ってた。 の 熱あたしが力あるって思う人達が、櫻井ユキノをそういうふうに気にするのは。 ユキノに力、あるってことで。
てた。 「僕もいっしょに行くよ」 藤谷さんが少したってから、言った。 「僕こんな人間だからどれだけきみの役に立つかわかんないけど、行くよ」 「明日来て」 尚が答えた。 「あとで電話します」 がんば 「高岡君、頑張ったね。ずっと頑張ってたよねー 「うん。ありがとう」 おっかれさまでした、って藤谷さんが言った。行ってきます、ってもう一度、尚が言って、 ろうか 出ていった。廊下のむこうで家の扉、あいて、閉まった音、聞こえた。 「知らない人なんだけどさー 藤谷さんがそのあと、ぼつんと言った。 あたしは、ただドラムセットのなかに座ってるだけで、だけどゆっくり、だんだんわかって のくる途中で。 熱 坂本くんが鋭い感じの、視線で、藤谷さんのこと見てた。 「僕、一回も会ったことない人なんだけどさ・ : 。これまで俺の人生ふりかえって、一秒の関
「欲しかったの ? 本当 ? 」 半分びつくりして藤谷さんが坂本くん見上げて、訊いてた。でも半分で、それ最初から全部 知ってるよって思ってる感じもした。そんなふうに、笑ってた。 「朱音ちゃん僕ねえ、混ぜちゃったよ。坂本君のと俺の、合作にしました」 す 椅子の向き、ぐるっとこっちにまわして、先生が言った。 「え」 混ぜたって。 昔、坂本くん自分の曲、藤谷さんにつくりなおされたことあって。それは、坂本くんには凄 、ダメで。 ひきよう 「合作っていうには、卑怯 : 坂本くんがつぶやいたけど、怒ってるんじゃなかった。 「なんで ? こ 坂本くんに訊いた。 の言葉で説明するのむずかしいみたいで、坂本くんが真剣に、困って考えこんでた。そんなこ 熱 と、ラクに訊いて、すみません : : : て思った。 「 : : : 卑怯なのはいつもの藤谷さんの音楽だけど。でも、こんなふうに藤谷さんが他人の音、 すご
「うわあ、やだな ! すみ 収録スタジオの隅で、藤谷さんがしやがみこんで苦笑いしてた。 におうだ 「司馬さん、そこで仁王立ちで聴いてたよね ? やめてよ、司馬さんの前では歌いたくない よ、ものすごく恥ずかしいよ ! 」 「こら、恩知らず。オムツかえてやったのに。俺あナオくんおっきくなったなあって、感動し てやってたんだよ」 会ったことない、ヒゲのおじさんが藤谷さんに答えてた。かなり貫禄ある太い声してた。誰 なのかは、わかんなかった。でも、藤谷さんの話し方で、たぶん業界の古株の人なんだろうな と思った。藤谷さん昔から音楽の仕事してるから、こういうことよくある。 「俺は絶対オムツかえられてないよ、そういう記憶ないよ ! でもありがとうー 「歌なんか、恥ずかしがってもしようがないだろう、のんびりしたやつだなあ。そんなだから 弟のほうが売れちまんだそ。まっ、弟あ長くもたねえだろつけどよ。ありや解散するだろ、オ ーナントカ」 れいか 「ひどいよ。司馬さん、血の温度が零下だよ」 藤谷さんが普通の声で言ってる。わはははと司馬さんて人が楽しそうに笑ってた。 そっちに近づかないで距離あけた方角に、あまり機嫌よくない顔で坂本くんが歩いていくか じゃま ら、あたしも一緒に行った。スタジオの出口近くで、他の人の邪魔にならないところで、あれ かんろく ふるかぶ
234 似た気持ち、感じた。黙ってたけど。 「そうだね。うれしいよ」 藤谷さんが言った。尚がそれ聞いて、ギター、足元のスタンドに大切におろした。ネックか ら左手、離して、一度あたしたち全員見てから、言った。 るす 「仕上がってよかった。では、俺はちょっとでかけます。たぶん二日ほど留守しますが、ごめ んなさい。二十三日のリハには間にあうので」 「えつ、何 ? こ 藤谷さんのききかえした言い方が、そのとき急に違ってた。 尚が、変わらない、い つもの声で言った。 おやじ 「さっき親父が死んだから」 「 : : : 本当 ? 」 げんじ 「源司がクルマで待ってくれてるので、今から行ってきます。ごめんねー 。さっきって、その話 : : : 」 藤谷さんが黙った。言いかけたけど、言わなかった。 言えないで、唇噛んだ。 あたしも座ってるだけしかできなくて。 尚が、いちばん平然としてるひとに見えてた。優しい顔して、藤谷さんの言葉の続き、待っ
196 「あなたや間嶋さんたちはさ、潰したいの ? 彼女のこと」 「心配いりませんよ、そうすぐには潰れませんよ。潰すくらいの気合いで、全力で売ってくれ と、ユキノ本人が言っているんですよ」 「気合いとか覚悟とか、軽く言えるよね。その先に何があるかまだ知らないんだよ。子供だ よ。子供を食い物にする商売には、つきあえないよ」 ふさわ 「ユキノは幼いところもありますが、藤谷さんに勝負をかけていただくには相応しい、才能が ある子ですよ。どうそかわいがってやってください」 女の人が言って、パイプ椅子から、立ちあがった。 「間嶋といっしょに、またお願いにあがります」 「そう ? 」 頬杖の姿勢を変えないで、藤谷さんが言った。 「ほんとうに僕の音楽でなくちゃいけない子なのかな ? 間嶋さんに訊いてよ。ほかにも、組 んで仕事したら魅力的な成果があがるひとたち、たくさんいるよ。僕が紹介してもいいし」 いさぎ 「ですけど、ユキノは、もともと井鷺さんの《テレヴィジョン・トラック》から、藤谷さんが 引き受けてくださったという経緯がありますでしよう」 「いや、横取りだけど」 「直弟子の藤谷さんだから比較的すぐに話が通ったということは、ありますので。ちょっと、 ほおづえ つぶ
眠れるし幸せだな」 時間的には朝が近いよ、と俺は言う。坂本君、コントロール・ルームの電気消しちゃって、 そ、つじゅ、つ 真っ暗にして作業したことある ? コンソールが光ってさ、宇宙船の操縦してる気持ちになれ むだ るよ。そんな余計な無駄な話をしながら藤谷さんが歩ぎだす。均等じゃないリズムで、スタジ オに戻る階段をの・ほる。 「破減はやめてよ」 「坂本君は大丈夫だよ」 「でも藤谷さんにだって音楽より大事なものはあるんじゃないの」 「どうかなあ、あるといいねー 携帯電話、振動が鳴って、藤谷さんが階段をの・ほりながら電話に出る。「ああ : : : そうなん だ。よかったね、ひとまず」と答える。現実というものの知らせ。たぶん最良でも最悪でもな つきあわなきゃいけないこと。 くせ 俺は目の前をとぎれないで進む藤谷さんの癖のある足音を聴いている。左側に鳴るリアル。 イ いそう 、っそ 右の位相に振って、もうひとつの音を聴く。嘘を混ぜない鏡で。一瞬の光を映す。その音を聴 ス ( それもきっと綺麗だから ) はねかえる、夜の反響。そして消えないストロボライツ。
204 腕時計見ながら、藤谷さんが言った。なにも時間、計らなくたって。 藤谷さんが電話してから十四分くらいで、カンカンカンって階段のぼる硬い靴底の足音がし て、あけつばなしにしてある防音ドアのむこうから、背の高い、真っ黒い服着てる人の影が来 て、まっすぐコントロール・ルームに入ってきて、右手の指でサングラスはずした。暗い色の サングラス、あたしの手のなかに落っこちてきた。 「何分何秒 ? こ とうやき 藤谷さんにむかって、桐哉が訊いた。 「十四分三十七秒」 藤谷さんが答えた。それから、 りちぎ かっこう 「ほんとに桐哉って、いろんな意味で律儀だよね。その真っ黒の恰好もそうだし」 って言った。 「サングラスって素顔を隠す道具じゃないの ? サングラスかけてもいっそう正体の明らかに なる人って、おもしろいよ」 「俺が好きな俺だからいいんだよ」 低音の声で、ちょっと笑って、桐哉が言った。 きじ 黒の、生地のうすいコート、桐哉が右腕で、だれも座ってないミキシング・コンソールの椅 くっぞこ
しん ギターの代役入れるの無理だから逆に、俺だったら今のオケの芯ほとんど消してポーカル手前 ががく に出して、悪いけどコード少しいじって変えて、これ、光った音で雅楽系、『うるさい無音』 って感じでカバーリングする」 俺が自分の腕に書いたもの見せながら説明したら、藤谷さんがじっと音符読んで、顔しかめ て、「うつわ、ヤだな坂本君きらいだよ ! ーと言った。 「なんでそういう俺の考えないこと考えつくんだろ ? ー 「俺は藤谷さんじゃないから、同じこと考えるほうが無理」 きれい 「うん、知ってるよ。そうだよ。わかってるよ。綺麗だね、こんな音がカウンターで来ると。 か 歌と噛む印象が、ちょうどマグネシウム焚いた光、鏡で返してくるみたいで」 ストロポだねと藤谷さんが言った。 千分の一秒の。 ( そう ) あんたも俺じゃないのにどこかでそういう正解を知ってくるのが変。 たた と思ったら藤谷さんが俺の腕を音符ごと平手でガンと叩いて、 「ああっ、そうかストレート負けだ俺 ! ちょっと待ったー この手段しかないのかな、イヤ だなあ " 「不満だったら別の案を出してよ」 ひらて
230 「そう。ラブンツェルで、塔の上にいて、髪の毛のばして、ザイルみたいにおろして、それで 王子様がクライミングしてくる人だけど」 「待ち受けの人でしよ」 「脱走だよ、それが」 「ああ、わかった。なるほどね : : : 」 尚がうなずいて言った。。ヒック右手の二本の指で持ちなおして、何かのこまかい光、めぐら す弾き方した。 「もっと : ・ : ・」 藤谷さんが右腕あげて、聴きながら言った。 「もっと気絶しそうなやつがあるよね、それ欲しいよ」 「高岡印のリフで」 「そう。曲に乗るんじゃなくて曲そのものを貫通ー 「注文は ? 怖いの ? 泣けるの ? 「ええと、いとおしいの」 「恥ずかしい ! 」 あなたダレ ? って尚が笑って言ってた。たまにはそういうのも言おうよ、って藤谷さんが 答えた。べースライン、最初からまた弾きはじめた。藤谷さんの癖が出てる進行で。低音部で とう かんつう