「おかげで僕は、あの人のことを好きになりましたよ。楽しかったし」 「そう」 佐伯はなんだか寂しそうな顔をした。 「楽しかったですよ」 僕はくりかえした。佐伯は手元のセブンスターをフライドボテトの隣に置いた。 「うん。有栖川の気持ちは、よくわかったよ」 「僕を説得しようと思ったんですかー 「うん、まあね : ・ ソロの話、おまえに伏せていたのが悪かったんなら、不用意だったんな ちんしゃ ら、謝るとかって、桐哉が言ってるんだけどさ。でもべつに陳謝したり、ソロアルバムの企画 自体とりやめたらどうってものじゃないだろ」 「それはそうですよ。そんな一件、ただのきっかけじゃないですか」 どたんぼ 「うん。ぼくも、笑っちゃ悪いけど土壇場であいつがいまさら謝るのどうのと言いだすなんて おか のがありえなくって可笑しくってさ。なあ、みつともないとは言うなよ、幻減なんかしたら損 だだ だぜ、あの子はほんとに泣いて駄々こねるキャラじゃないんだよ」 たいぐう 「僕なりに、これは特別待遇をされたんだなと理解しましたよ。 「そうだよ ! やっと理解しやがった」 「だけど僕のほうが、もっと真崎君をスペシャルに待遇しているということですよ」
一緒にやってみないかと持ちかけたのだった。 やめておいたほうがいいですよ。僕は自分がとっくに狂ってしまっているのを知っていたか ら、とても本気で、そう思うのだけれど。 オーヴァーサイト・サイバナイデッド・クローマティック・。フレイドフォース。あんな歌、 歌わないほうがいいですよ。危ないから気をつけたほうがいいですよ。 おねがいだから、気をつけたほうがいいですよ。 僕は今、夜道を歩きながら、まるで祈るみたいにそんなことを考えて、僕はいったいどうし たのかなと思った。それはきっと彼の真っ黒な背中のせいだった。僕はそう思った。彼女がな にもかも僕のせいにしたのと同じように、彼のせいだった。真崎君、と僕は遂に呼んだ。 「真崎君ー 僕より一一歩先で彼がふりかえった。何、と彼が言った。 帰っていいですか。僕はそう言いたかった。わかったから、もう帰っていいですか。 僕はあなたの歌は好きではないですよ。 「すぐ、そこ」 僕たちの立ちどまった街灯の下からほんの十歩ぶんくらい先を彼は右手で指差した。とても 近い場所だったので僕は少し、まがぬけたなと思って黙った。 「あんた俺の何が好き ? 」
162 ふいに手をあげて厳しい声で、リズムを切断させた。 「アカネー 「おまえ、何ー 「え ? 「サイジョウアカネって何 ? 「 : : : 何って意味が難しいです 「行き先、どこ」 : テン・プランク ? ・」 「俺を連れてってもだめだろ」 「あ、そうか」 「おまえなんか最初、居場所も行き先もないラクな女だったのに」 「え、そうなんだ」 「ほっときや簡単に俺のほうを好きになると思ったのに」 「あの : : : だから、好きかどうかっていうと、今は好きだけど、最初からものすごい失礼な意 地悪してる人、好きになったりしない」 「兄貴より優しくしたのに」
りゅうぎ 僕らの流儀なら知っているだろうけど何かの気まぐれや間違いを期待して来る歓声。 もうこんなにイイキモチにしてやったじゃん、と彼が笑って言う。 笑う。 ( 僕はきみの笑い方には慣れてしまった ) どんなときにどんなふうに笑うのか顔を見なくても背中で僕は判るようになった。 きれい さぞや綺麗だろうと僕の脳の内部で自家発電するようにイメージしたほうが実物よりも実物 らしいくらいにきっと、理解していた。なにしろ僕ら、時間ならかけただろう、四年間。春夏 秋冬、昼夜を問わず、こんな泡沫の一瞬をくりかえしてきただろう。 ねえ、満足した ? 「ありがとう」 また、会えたらいいね。 ふとした油断のように、その晩は彼が気安く、そう言った。 僕は異変に気づかなかった。 ただ彼はちょっと油断していると思った。 僕は、慣れて、狎れていたので、だから僕を飽きさせない彼の新しい手口に少し感謝した。 けれど実際には、彼はもう、正気で話していなかった。 ほうまっ
僕はまた思った。かわいそうだなあ。 「だから僕はあなたの歌は好きではないですよ」 「なんで不能になったの」 彼は耳が悪いのかなと僕は思った。もちろん、そんなはずはないんだけれど。さっきの駅前 でも、僕が言ったことへの返事をずいぶん遅れてからロにする人だった。そして僕の言ったこ まっし帳っ イレイサー との一部分を消音機でもかけたみたいにきれいに耳から抹消できる人のようだった。 女とクスリです。僕はそう答えた。彼はとてもつまらなそうだった。テー・フルに付着したコ ーヒーの滴を見ていた。その女どうしたの、とつまらなそうに訊いた。死にました。僕が答え たら、がっかりした顔をした。クスリやってんの、と訊いた。今はやっていないですよと僕は 言った。不能になったので、やっていないですよ。僕は今はただ、 i-•a のコレクターなんで えがらかわい ーアシッド見たことありますか、僕あの絵柄が可愛くて好きなんです すよ。あなた、ペ よ、ばかっぽくて好きなんです、蒐集めてるんです。あれだろ、あの紙切れだろと彼が言っ た。あげましようかと僕は言った。僕は今、ポケットの手帳のビニールに挟んでピンクの象の 絵柄のついた紙切れを持ちあるいていた。薄めたの溶液のしみこんだ紙のことを僕らは Ⅶアシッドと呼ぶ。 さいこうほう 絶頂とか最高峰とか馬鹿なこととか味わえましたよ。僕はそう言った。だから僕はもう満腹 なんですよ。彼はそんなこと知っているという顔だった。俺に関係なんかあるかという顔でも エル はさ
226 「それがさ、・ほくも渋谷のどこかでとだけ聞いててさー 「うわあ」 マルが半泣きと半笑いの混ざった顔をした。 「もう。迷惑だなあ」 「ほくだってヒャヒャしてるよ。でもきみたちが知ってると思わなかったな」 「知ってるっていうか、まず推理です。まだ何か、やりそうだと思った。それでちょっと訊い てみたら、渋谷かもって話で」 「ははは、桐哉って、次に何するかわかりやすいのかな」 「えー。どうかなあ、わかったりわかんなかったりするよ」 首をかしげてマルがつぶやいた。そのとき彼女の手のなかで携帯電話が鳴った。ディスプレ イを見て、あつやった、と小さく叫んだ。 「佐伯さん佐伯さん ! 友達が、みつけたって ! 新しい目印 ! 」 がんゅう ぎわ 風に含有される酸素の量が増えてきた、そんな夜の終わり際だった。 朝陽の気配はまだ見えない。 うっすらと藍色の空の深さが、東側だけ変わりかけている、それくらいの頃合いだった。 ・ほくの頭上にはちょうど半分の月が、かち割った金貨のように豪勢に光っていた。その隣に
「だって」 コロ 殺そうかなあ。 僕は空想のなかで、その写真の彼の、真っ黒いふたつの眼の網膜をライターの火で炙って。ハ リンと乾燥させて割ってみる。二十一なんてまだ子供じゃないですか、佐伯さん、何も知らな ガキ し餓鬼ですよ。どうしようかなあ。 「二十一だったことはおまえにもあるじゃないの」 コロ 殺そうかなあ。 「僕ねえ、そういう過去はないんですよ。記憶喪失だから」 うそ 「嘘ぬかせ」 おば 嘘ではない。僕は過去のことをほとんど憶えない。べつに頭を強く打ったりはしていないけ れど。ふりかえってよかったなと思うことがないので。 「とにかく、頼むよ。へタなやつにまかせられないんだよ。若いぶん、不安定な人だからさ」 「まあ確かに僕、便利な人ですけど」 会ってみてよと佐伯が言った。 いやだなあ。 「いいですよ」 と僕は答えた。もういちど写真をみた。それは一人のポーカリストの写貢だった。なんて名 そうしつ も、つまく あぶ
「わたし未来がわかるようになったのよ」 と彼女が言ったのは、彼女も僕ほどではないにしても人並み以上にはアンテナが鋭くて感受 せんさい 性が強くて、そういう繊細な神経に充分な自己愛とプライドも持っていて僕に敗北するわけに きしかいせい いかず、起死回生の一策としてひねりだした最後の手段なのだった。だから僕は、それは違う よと一一 = ロえなかったのだった。それは僕たちのあいだでは、君はやつばり馬鹿な人だよと言うの と同じだったから。 わたし未来がわかるようになったのよ。 わたし未来にはあなたと別れることになるのよ、どうしよう、 どうしよう、 ど、つしよ、つ、 必ず絶対にそうなることがわかったのよ。そんなひどいことになるなんてと言って彼女は号 きゅ、つ 泣した。そんなことまで見えるようになるなんて、最悪な悲劇だと言った。 それは凄いことですねと僕は言った。この人はもう以前と違ってしまったんだなあと僕は思 純った。あいうえおの「あの順番がわからなくなったんだなあと思った。だってあたりまえじ ゃないですか、僕と彼女がいっか別れるなんて。だって僕たちはいっか必ず死ぬのだから。け れど、そんなのあたりまえじゃないですかと僕は言えなかった。僕はそんなふうにして彼女に ごう
190 しょ 僕が言う。フフッと彼が真白い息を吐いた。 「いいんだよ と、また言った。 「あなたはもうあんまり藤谷君と似た曲を書くことを怖がらなくていいし、似た声質で歌うこ とも恐れなくていいし、レ。フリカントじゃなく血の流れる人間であることを認めてもいいし、 あなたが歩いていればみんなあなたを間違えずに見つけるじゃないですか。あなたの望みは、 ずいぶん叶っているよ」 「いいんだよ」 くりかえした。そんなのはもういいんだよ、と彼が言った。 すぐ 「僕はなかなか優れた耳の持ち主なので、いままでもこれからも、あなたの声を正確に聴きと るけれど、それは僕の耳のせいではないよ」 「なんでそんな話になんの、オマエ疲れたの ? 」 んと僕は一言った。 彼が訊いた。いい、 そりゃあ、あなたといたら誰でも疲れるだろうけどさ。 僕もちょっとは疲れたのだろうなと僕の内部で僕は思った。そう、ほんの少し。ボディープ ちこう ロウみたいに、遅効性で、だんだんきいてくるものだってあるだろう。いくつかの秘密や、内 どな 緒話や、真相だとか。たとえばさっき藤谷直季を相手に怒鳴ったときよりも、今のほうが僕の
「でもさ、ビックリマーク二個つけてたよ。つけるかなあ二個も」 「何が炊事係だよ」 「カレーなら作れるはずなんだけど」 「ご立派だねえ、春から小学何年生 ? 」 「二十五歳になりました ! どうしよう ! 」 「どうしようの内訳は何なんだい」 「ええと、ウチのギターの人が二十五歳だった一年間をまるまる見て知ってるから、今の自分 と比べて凄くどうしようって思うよ 「まだよくわかんないよ」 「あんなふうに凜々しく生きたいなあ ! 」 「がんばってねー あこが て「憧れって、自分から遠い場所にあるがゆえに発生するよね」 を 最初から言い訳をして、ちょっと困った顔をして、どこ見ても遠い人ばっかりだよとつぶや 火 キしナ ふうん。 あ , ア きみから憧れられる相手にもたぶん、それそれ言い分はあるけどね。 ・ほくはそう思うが、まあ言わなくてもいいや。