ねえ、開演まで時間はないんですか。僕はすっかりわからなくなっている人みたいに彼女に 尋ねる。 「シンザキトーヤ待ちです」 青田ナツが言った。 「でも、大丈夫ですよ、みんな待ちます」 そうだねと僕は答えた。 僕が冷たい水のグラスを落としてしまわないように青田ナツが僕の両手を、彼女の手で外側 おお から覆って、おさえてくれていた。僕の手が、こんなことでは舞台で役に立たないくらい、老 おとろ いて衰えすぎたように震えているのを、どう思っただろう。 むぞうさ そのとき、僕と彼女の持っているグラスに横から別の手がのびて、一本の花の茎を、無造作 に挿し入れた。薄紅色の花弁が大きく、茎が細く長くて、ちょっと頭のほうが重たそうな、そ んな花だった。 さつぶうけい ああ、ここはひたすら殺風景だから、いいね、これ、なんという名前の花ですかと僕は言っ た。 > 知らない、と桐哉が言った。花ならいいんだ。綺麗なら。 「ナツ、おまえにやるよ」 「僕の飲む水だったんだけど」 うすべに きれい くき
174 「またねー てのひら 。ハイバイ。桐哉が言った。スタンドから掌を離した。それから足元に倒れた。動かなくなっ 彼を狙った逆光が的をなくして僕の右眼に刺してきた。 ああ、なんだ、とうとう、やつばり壊れてしまったのかな。 それとも。 光が落ちて、僕らにとって日常的な薄暗闇がステージをつつんだとき、いつもとは違った粗 雑な足音がいくつか舞台袖からとびだして、キーポードラックの間近を駆けぬけていった。マ そろ イクスタンドの下に倒れて動かない人を、すばやく回収するために行った。お揃いのシャッ すじよ、つ を着て、立場と素性の明らかなツアースタッフだというのに、僕も桐哉も彼らの名前を正しく 記憶しそびれているままだ。 せつかく助けてくれる人達に無礼な話なのだけれど僕らは手一杯だ。僕も桐哉自身も、機械 仕掛けの音楽と、真崎桐哉という生き物への対処に、手一杯だ。まだ客席からは、声がきこえ てくる。 有栖川さん、と人影のうちのひとつが手招いて、僕の歩みを促した。こちらです、と誘導し た。役目の終わった見世物をステージから退場させるコース。僕は亀のように歩く。僕は、歩 そで
「サエキさん、どうしよう、やっちゃった、失敗したリ」 ふじたに ・ほくのデスクの電話が鳴って、いきなり藤谷がそう言った。 桜はとうに散っていた。 「どうしようって何の話」 「ものすごく美味しそうで気がついたら目の前にいたからつい手を出しちゃった ! 」 ア 「女のコ ? こ ナ 力「違う。ギタリストの人ー コイツ : 。あっ : よ さ 「ごめんなさい ! 」 あやま 「ほくに謝ったって手遅れだろう ! うれ ちばん背の低いマルの影が、飼い犬みたいに嬉しそうに跳ねていた。桐哉はマルと手を繋いで やって、影絵のように、夜の街のあかりのなかに消えていく。かわいそうだな、と・ほくは思っ た。さみしがりやの優しい子なんだろうに、かわいそうだな。 歌わなきゃならないなんて。 つな
206 僕が、そうした。 ホールにふわっと回った残響と、僕らの鼓膜をふるわす耳鳴り。 そして、音楽は沈黙した。 僕は、自分の手で叩き殺した僕のための鍵盤の要塞を、それだけを見ていた。 ステージの縁に立っ彼が、そのまま死んでしまうのか、あるいは僕を殺しにくるのか、それ は知らなかった。どちらでも僕には大差のない結末だろう。僕は、なるべくそうではないもの を望んで、僕の手には負えないことを無責任に天にゆだねるように祈った。けれど、どうにも ならないならば、うけいれようと思った。神様。 神様、僕は一切に、後悔をしません。 声、だ・ : 僕は動かずに、指も動かさずに、立ちつくしている。 かさなる声が、たくさんのまざりあった声が、きこえてきた。 ーー声、だ ) 一度も、彼がこちらをふりかえらなかったことが肉眼で見なくても僕にはわかる。 いっさい けんまんよ、 2 ごい こまく
かくう と、抵抗せずにすぐにおとなしく諦めてポーカリストが言った。遠くを、架空の景色を見た がる両眼をして、しかたないだろうと言った。 僕は、まあ異存はないですよと言った。 あなたは確かに気をつけないとちょっとまずくすると一方の手が一生機能しなくなるかもし けが れないほど馬鹿げた怪我をしたので、僕には異存はないですよ。だけど僕はあくまでも好奇心 で尋ねるんですけど真崎君は。ヒアニストでもなければギタリストでもないので、不必要な左手 まひ の麻痺くらいで困るのかな。どうせ要らない手だと真崎君も自分でも思ったんでしよう、だか ら自分でやったんでしよう。そこが僕にはわからないので知りたいんです。そう質問をした。 じっと僕を見返して、 「俺は歌えるけどー 彼が答えた。 乾いた、生命活動の止まった表情で。 「こんなときに歌ったって、たぶんしようがねえんだろー 「裏切者だなあ」 僕が言う。みつともないなあ。 ろぼう 飛ばない鳥なんて、路傍の白骨以下だよ。 あきら
( ああ、ちがうちがう ) どうして、愛されようとしたのだろう。 あまりにも単純な、依存症状。 わたしは急に、ひどくはっきりと、理解した。 ポケットに入っているカッターナイフの柄を握った。 おくびさっ わたしの罪は、境界線でひきかえす、わたし自身の臆病さ。ほんものの死の痛みを恐れるこ それだけ ? 桐哉にきかれた瞬間の記憶がだぶって、目の前に反復した。 ( わたしには、もっと、もっとできることが、あると、だれかに教えてほしかったのだ ) わたしの右手がカッターの刃を出して、わたしの左手の手首に自動的に持っていく。慣れた 場所の、慣れた動作で、それは呼吸や排泄のように止められない、本能の衝動です。わたしの なかの逆らえない力。それならばもう、逃げずに向こうがわまで、飛んでしまえば。 もっと、もっと。 ン 限界の遠くへ。 工 「あっ ン何。 ア わたしの手首に突き刺さるより前に、他人の手が、カッターの刃を握った。むきだしの刃を ひふ そのまま、じかに握った。桐哉の左手だった。熱い体温と皮膚がわたしの手をつかんだ。なに と。 さか はいせつ
ふりよ ふたたび : ほくの鼓膜で、不慮の交通事故が発生した。急に、ぶつりと、全部の音がとぎれ た。今度は十円玉不足のせいじゃない。片手に持ったテレコの停止ボタンを桐哉の親指が押し ていた。ヘッドホンをかぶったままで、大音響できいんと耳鳴りがするままで、・ほくはロをあ けた。きみ、歌がうまいなあ。そう言った。そんなことはとっくに大昔の原始時代から知って しるという顔で桐哉はイジェクトボタンを小指のかどて卩しオ 。卩、こ。古いテレコが透明なカセット テープをべっと吐きだした。落下するカセットテープを桐哉の手がわしづかみに捕まえた。 あっ。 てのひら 掌につかんだカセットテープを、半秒後、桐哉が宙に放り捨てた。 羽一枚、いらなくなったみたいに。 だいだい 橙色の濃いタ焼けにむかって、透明に光るカセットが弧をえがいて飛んだ。 あ。 ぼくは手を伸ばす。 中指の先をすりぬけていく。 からだ あわてて、ぼくの身体がもっと大きく動く。 優しい麻薬のように。 どこに ? ・ こ
わたしは答えなかった。意味がわからなかったし、ロをききたくなかった。わたしの答えな んか彼には待たれていなかった。わたしを置ぎ去りにして、桐哉は歩ぎだした。わたしの指の あいだからやっと、カッターの持ち手がぬけた。カッターがコンクリートに落ちた。手首がじ んじん痛くなってきた。傷口に親指で触ったら、血で滑った。いつもより深い傷になってしま かばん っていた。痛くなって、泣きそうになった。鞄からまた包帯を出して、きつめに巻きつけた。 まだら 血がついている手で巻いた包帯は、みつともなく指の跡が残って斑模様だった。むこうで自動 車のエンジンがかかる音がした。駐車場から走りだす、ためらわないタイヤの音がした。 なに、あいつ。 ( ここで人が死んでも平気で行くんだ ) 傷の痛みが脳の、一部分めがけて刺してきて、左目に涙がでてきた。わたしは彼をゆるせな いと思った。わたしは彼にそのとき、とても親切にされたのだった。 ン カッターナイフを鞄にしまって、地下駐車場からエレベ 1 ターで十階までの・ほって、自分の デ 家にもどった。母も父も不在で、居間でテレビをみながら冷凍食品のグラタンを食べていた姉 ひざ なの尋子が、わたしの膝と手首の包帯を見た。テレビからは観客の笑い声がした。わたしの姉は ア もう大学生だったけれど、三年くらい前から変な思いこみをしている人だった。ヒロコはヒロ コ自身のことを、女に生まれたのはまちがいで、精神的には男なのだと思っていて、しかも精
コバルト文庫 く好評発売中〉 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ ◆ 妖者に挑む少年たちの人気ファンタジー ◆ くハイスワール・オーラバスター〉 ◆ ◆ シリーズ ◆ ◆イラスト / 柱真 ◆ ◆ ◆ 天使はうまく踊れない ◆ セイレーンの聖毋 ~ ま十字架の少女 ま迷える羊に愛の手を ま炎獄のティアーナ ま天実の剣 星を堕すもの アーケイティア 荊姫 0 若木未生 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ ー , ンノ 3 ( 前編 ) ( 後編 ) ◆ ◆◆◆◆◆◆
162 ふいに手をあげて厳しい声で、リズムを切断させた。 「アカネー 「おまえ、何ー 「え ? 「サイジョウアカネって何 ? 「 : : : 何って意味が難しいです 「行き先、どこ」 : テン・プランク ? ・」 「俺を連れてってもだめだろ」 「あ、そうか」 「おまえなんか最初、居場所も行き先もないラクな女だったのに」 「え、そうなんだ」 「ほっときや簡単に俺のほうを好きになると思ったのに」 「あの : : : だから、好きかどうかっていうと、今は好きだけど、最初からものすごい失礼な意 地悪してる人、好きになったりしない」 「兄貴より優しくしたのに」