あの、、ハンド。 ・ほくもそのデモ音源は一応、聴かされていた。猪狩の話には誇張がある。正直に信じたら、 オトナ 我が社から一押しで出すバンドは五十個くらいあることになってしまう。青少年よ、会社員の 話は信じるな。 だけど猪狩がそのバ ) ドを本気でデビーさせようとしていたのは事実だから、気の毒では あった。おいサエキ、逸材だ、カリスマだよ、なんて口走って・ほくに聴かせたほどだし。 かつぼうしゃ かわ デ ・ハンドの名前はクレイヴァー、意味は「渇望者」。渇望ねえ。ふーん渇いてるのねえー モテープの音に、・ほくは。ヒンとこなかった。こりや売れないでしよと答えた。ネクラで、華が ないもの。よっぽど看板がよければ別だけど。 ルックス ところがさ、と猪狩が得意げに言った。ところが、ポーカルの容姿がいいんだー なあんだ、結局ヴィジュアル系かあ ! ぼくは大笑いして、彼らの音楽を忘れてしまっ 「どうしてこんな時期に解散なんだよ。というか、なんでいつも真崎君はそうなの ? チャン スができるたびに自分で壊してるじゃないか。音楽、本当にやりたいの ? いくら才能や運が あったって、追い風ばかり吹いてくれると思ったら大間違いだよ。きみみたいにプロの舞台の 端っこにだけ足をかけて、そのまま落ちていっちゃった人は大勢いるんだからね」 猪狩のせりふには、うらみ節が入ってきた。 しんざき は 0
まばたきして、桐哉が顎を斜めにあげた。藤谷を眺めた。凄く好きな相手に偶然でくわした みたいに、唇で笑った。 怖い顔だな。 最初にそう思った。 カッコイイなという感想は、遅れて来た。二拍子くらい、ずれていた。 ああ、まちがってるんだな。 カタマリ 表情と中身が合わない子だな。奇妙な間違いの集合体だな。 喋った。 「どうしたの」 「今からアルバイト。桐哉は ? 」 「うん、終わった」 桐哉が言った。立ちあがった。猪狩が見あげて、あわてた。 ア 「終わってないよ真崎君 ! ナ 力「だって、猪狩さんは俺につきあえないんだろ。わかったよ」 「そうじゃなくって、わかったら、もうちょっとでも変わってくれよ」 よ さ 「ごめんねえ」 じあい ふしぎに優しい口調で真崎桐哉が猪狩に答えた。まるで慈愛の神だ。奇妙な空気の集合体 しゃべ にびつし すご
「ひとりで音楽はできないだろう ? バンドやスタッフは大事だよ、違うワこ ポーカリストは、なかなか返事をしなかった。 ぼくは聞いていないふりをして、手元の楽譜を見ていた。 できあ さんもんばん っそ見事に平凡なメロディが五線紙に踊っていた。頭 出来合いの三文判を押したような、い ばんよう が痛くなった。どがに ナまくはこの凡庸さをこそ大衆に売らなきゃならない : 「猪狩さん、あんた俺の歌が好キう・ー ポーカリストが突然言った。ぼくは思わず吹きだした。 ( 馬鹿だなあ ! ) とても馬鹿な子だな。 空気を読めよ。ごめんなさいと先に言えよ。社会のルールだよ。 「好きだよ」 ア おおまじめに猪狩が答えた。 ナ 力「きみの歌がこの世で一番好きだよ」 なあちゃー。 さ 「だけどもう、毎回こんなことばかりじゃ、きみにつきあえないよ。わかってくれよ」 猪狩が一一 = ロった。 がくふ へいぼん ごせんし
ージックを売るレーベルの、制作ディレクターだ。 さえき す 名刺には、『 XOO>—><<Z—* 制作部佐伯オサム』と刷ってある。 オサム 昔自分が表舞台でドラムを叩いていたころは、佐伯収無と名乗っていたけど、今となっては ヴォイドゼロがいねん 恥ずかしい。虚無や零の概念にあこがれるのは、マッチ棒みたいに細い革パンツが似合うお年 頃の特権だ。オジサンになると、腹の贅肉も増える。ドント・トラスト・オーヴァー・サーテ ゆい′」ん イ。三十歳以上は信じるな。元祖・外国産ロック・ミ、ージックの美しい遺一言。 そう、それでいい。 だってオトナをかるがると信じたがるコドモなんか不気味だ。 「うん」 ホーカリストだなとぼく 猪狩の前に座っていた若い男が、低い声で答えた。いい声だった。 : のど はすぐ思った。一声でわかる。神様に選ばれた喉だった。 なんだか、はにかんだ子供のような言い方をしていた。猪狩の迷惑そうにはりあげた大声と ア 対照的で、そぐわなかった。 ナ 「何も問題なかったじゃないか、ライブ動員もここまであがってきたんだし、ウチの社内じゃ カ がんば なもうきみらに力いれるつもりで頑張ってんだ、宣伝担当チームにも根回しは済んでて、これか クレイヴァ さら《》イチオシでいくって話になってるんだよ。解散されちゃ困るよ ! 」 ああ。 ぜいにく
3 やじうま ちんぶ ・ほくは陳腐なメロディの途中で目玉にブレーキをかけ、ただの野次馬と化していた。 すると、佐伯さん、と反対側からまったく空気感の違う声が呼んだ : ほくが呼びだした仕事 レスキュー 相手ーー・ほくの個人的な救急隊だった。 「やあ東大生、じゃんじゃんモテてる ? 」 まゆ ふじたになおき ・ほくが歓迎の挨拶をしたら、藤谷直季が、一方の眉をひそめて、愉快そうではない表情を作 もう桜の季節だったのに、その日も仕立てのいいロングコートを着てカシミアのマフラーを しんど、つ コドモ 首にひっかけていた。知りあった当時は十四か十五の中学生で、神童だの和製アマデウス・モ す ーツアルトだのと呼ばれていたピアニストも、このときすでに二十一歳だった。正面の椅子の れいぎ 背中をつかんで引きながら、腰をかがめて、サエキさん、コンニチハ、と念を押すように礼儀 正しく言った。こちらの発一 = 口を自動的に『なかったこと』にした。簡単に人に馴れない、面倒 な性格の子だった。それから、 「あれつ」 椅子の背に片手を置いたまま、つぶやいた。藤谷がむこうを見たので : ほくの両目も一緒に えんりよ 動いた。せつかく遠慮していたのに、見たら猪狩たちのテーブルだった。 うちわけ かたまり 猪狩の前には真っ黒い塊がいた。内訳は、黒光りする薄地のシャッと、すりきれた黒い革の とうや パンツと、古びた。フーツ。黒一色。それがぼくの最初に会った桐哉の姿。 とうだいせい あいさっ な
「ええつ。また解散しちゃうの卩そんなの困るよリ」 ふたっ隣のテーブルで、ぼくの先輩であり同業者でもある猪狩ディレクターが大声を出して いた。季節は春。 すみ ・ほくは自分の仕事相手を待っているところだった。会社の地下にあるコーヒーショップの隅 がくふ で、さっきファクシミリで届いたばかりの楽譜を読んでいた。ぼくは、業界三位のレコード会 社の、そのまた三番目くらいの規模の部門、日本人向けに日本人による日本語版ロック・ミュ 歌を歌えよ、金色の羽のカナリア、 今だけの、 ( もう戻らない時間の、 ) 今だけうまれる、いびつで美しい、 きみの歌を。 いかり
ここち でも肝の底が、真っ白に冷える心地がした。真っ白。そう、零下の温度の色。 純粋な異物。そういう天才の。 切っ先の。 き / 、ほく ( 明日にも死にそうだ ) ・ほくはとても悲しくなる。 ( 死ぬまであの子はこうかな。 : : : 死ぬまでずっと、あんまり澄んだ、ひとりぼっちの音楽を つく 創るのかな ) 天才なだけじゃないか。 ほかになにもない。人間じゃない。血肉じゃない。ガラス製の、天の配剤。それが美しい 光る結晶。 だれにも壊せないんだ。 C ほくには、どうしようもないんだな ) しゅうたい ざまあない。・ほくは猪狩を笑えない。さらした醜態は、おたがいさまだった。 ( きみの音楽が一番好きだけど、きみに必要なのはぼくじゃないんだな ) どんなに全力で惚れても、ふられることはあるもの。縁がなかったんだ。長く生きてれば、 オトナには、何回かあるんだ。そんな巡りあわせが。 きも れいか
さえき 「佐伯さんのシュミ ? 」 ・ほくの顔をまた、あの、鏡を睨む目つきでじっと見て、無表情に桐哉が言った。 おぼ なんだ、・ほくの名前を憶えているんだ。嬉しくなった。 「個人的趣味というわけでもないな : ほくも商売だから : ほくは猪狩さんと違って、きみの歌 が世界で一番だとは思わないよ。クレイヴァーの歌は、・ほくにはよくきこえないよ。とにかく 。きみは天才じ それからしゃべった言葉が、すごくいい 真崎君は、カオと声と、名前がいい ゃないけど、普通の人だけど、カリスマ性がある。そう思うよ」 「ふうん」 「きみは自分自身について、そんなふうには思わない ? 「俺は、俺のことを天才って呼ぶやつは信用しない」 こちらを見つめたまま、桐哉が言った。 「だからあんたは冷静な人だと思う 「ああ、気が合うね、よかった」 「困ったなあ [ かわい 桐哉がふと、小声でつぶやいた。あれつ、可愛いな。道に迷ったガキみたいに、ずいぶん可 愛いな。 「どうして困ったの」 にら うれ いかり
Ⅱが、猪狩に「じやア、さよならーと告げて、テーブルを離れた。我々の前を行きすぎていこう とした。一瞬で・ほくのやることは決まった。勢いよく右腕をあげた。 をしをしをしをしし / ーイ。じゃあ。ほくがっきあうよー いろんな種類の視線が : ほくのぶあつい面の皮に刺さってきた。 まだ立ったままの藤谷と、立ち止まった桐哉が、それそれにぼくを見た。 「どうして ? 」 おくめん 桐哉が尋ねた : ほくは臆面なく答えた。 「カオと声がいいから ! 」 「そう けいべっ 桐哉が軽蔑するように笑った。同時に藤谷が、もっと強くぼくを問いつめる目つきをした。 ぼくは許されないことをしたらしい 「ハイバイ」 あっさり、桐哉が言った。勝手に後ろから藤谷のマフラーを奪いとった。鳶色のカシミアを のどもと 自分の喉元にからませながら、まっすぐに歩いて外へ出ていった。 「友導 , こ ぼくは藤谷に訊いた。 答えてくれなかった。 つら とび
27 さよならカナリア 「・・・・ : よオこそ」 電気的な、マイクを通した声が言った。客のなかを縦断してステージに上った桐哉が、ポー ていねい カルマイクをスタンドからもぎとって、呼吸をふきこんだのだった。丁寧に、優しく話した。 「ミナサン、ようこそ・ : ・ : それから、サヨウナラ」 猪狩と別れたときと同じに。 あっさり言った。笑った。マイクにもっと唇を近づけて、とどめをさした。 「今夜で解散」 どごう らくたん だんまつま : ・断末魔の悲隝か一杯あがった気もする。あるいは落胆、あるいは怒号。・ほくの隣ではマ ルが、毛色の違う反応をしていた。すごい勢いでとびはねて、やったやったやった ! 桐哉サ こぶし イコー、最高ーツ、と叫びながら拳をふっていた。へえー、おもしろいなと思った。 乾いた音を背景に、桐哉が歌いだした。ああ、惜しいな。歌よりも、最初の一言のほうが、 うまく聴衆を傷つけている。歌だけじゃ痛みが足りない。 まだ足りない。 ・ほくは終演までつきあえなかった。二曲で腹一杯になった。 「おじさんおじさん、これ」 ジュラルミンケースをかかえて、マルが・ほくの前に走ってきた。