124 みそこなった。 カリンから、パソコンにメールが届いていた。わたしがそのメールを読めたのは、わたしが トーヤ 桐哉を傷つけてから、ずいぶん日が経ったあとだった。わたしはもちろん、死にもせず、忘れ 「足りねえか」 「お気の毒ですけどー 「何でもくれてやるって言ってんのに」 「それは、お気の毒ですけれどー 「なア、天辺ってどこだかわからねえな。もう着いちまったかな」 「まだですよ」 マヒロが平然と、携帯電話で救急車を呼んだ。まだですよ真崎君、と言った。真崎君、あな たそれほど凄いことしてるかなあ、僕にはまだ天辺なんか見えないな、たぶんまだ死なせても らえませんよ。 ねえ。 あなた、かわいそうですけど。 てつべん
「桐哉と俺って同い年の兄弟なんだよ。お父さんが同じで、桐哉はその奥さんの産んだ子で、 俺のほうは奥さんじゃない人がうつかり産んだ子で、だけど俺の母親には我が子を育てたいと きゅ、っせい いう気持ちがなくて、逆に桐哉のお母さんはーーちなみに彼女の旧姓が真崎さんなので今は桐 ふぎみつつう 哉もその名前にしてるんだけどーー真崎さんには、不義密通の子供でも私が育てましようとい う心の広さというか責任感があって、うん、すごくまじめで優しいお母さんで : : : 俺も桐哉も 幼少時はいっしょに彼女からピアノを習ったの」 「へえー。おもしろいね」 「そうしたらそのうち彼女、とてもいい人なんだけど、まじめで、どう言えばいいのかな : ・ よその女の息子なんて憎んだって普通だろうけど、どうにか最大級に愛そうと努力したんだよ ね。すごく努力してくれて : : : どっちが自分の本当の息子だか時々わからない人になってしま しか って、桐哉はピアノを弾きまちがえると『ナオキくん、指が違うわよ』って叱られて、桐哉も 自分が桐哉なのかナオキくんなのかわからなくなって困ってるんだけど、だんだんナオキくん ア と呼ばれても『ハイ』って答えるようになって」 力「へえー。そういう子は病気になるんじゃない ? こ 「うん、なった。まわりの人が見かねて、俺は七歳の時点で真崎さんの家から外に出されて、 ちょっりつし さ 調律師のお父さんと。ヒアニストのお母さんがいる藤谷家の子になったの。俺はそのまま彼らに すこ そえん つれられて数年間ヨーロッパに行ってしまって、弟とは疎遠になって、その間に桐哉は健やか
まばたきして、桐哉が顎を斜めにあげた。藤谷を眺めた。凄く好きな相手に偶然でくわした みたいに、唇で笑った。 怖い顔だな。 最初にそう思った。 カッコイイなという感想は、遅れて来た。二拍子くらい、ずれていた。 ああ、まちがってるんだな。 カタマリ 表情と中身が合わない子だな。奇妙な間違いの集合体だな。 喋った。 「どうしたの」 「今からアルバイト。桐哉は ? 」 「うん、終わった」 桐哉が言った。立ちあがった。猪狩が見あげて、あわてた。 ア 「終わってないよ真崎君 ! ナ 力「だって、猪狩さんは俺につきあえないんだろ。わかったよ」 「そうじゃなくって、わかったら、もうちょっとでも変わってくれよ」 よ さ 「ごめんねえ」 じあい ふしぎに優しい口調で真崎桐哉が猪狩に答えた。まるで慈愛の神だ。奇妙な空気の集合体 しゃべ にびつし すご
かくう と、抵抗せずにすぐにおとなしく諦めてポーカリストが言った。遠くを、架空の景色を見た がる両眼をして、しかたないだろうと言った。 僕は、まあ異存はないですよと言った。 あなたは確かに気をつけないとちょっとまずくすると一方の手が一生機能しなくなるかもし けが れないほど馬鹿げた怪我をしたので、僕には異存はないですよ。だけど僕はあくまでも好奇心 で尋ねるんですけど真崎君は。ヒアニストでもなければギタリストでもないので、不必要な左手 まひ の麻痺くらいで困るのかな。どうせ要らない手だと真崎君も自分でも思ったんでしよう、だか ら自分でやったんでしよう。そこが僕にはわからないので知りたいんです。そう質問をした。 じっと僕を見返して、 「俺は歌えるけどー 彼が答えた。 乾いた、生命活動の止まった表情で。 「こんなときに歌ったって、たぶんしようがねえんだろー 「裏切者だなあ」 僕が言う。みつともないなあ。 ろぼう 飛ばない鳥なんて、路傍の白骨以下だよ。 あきら
一緒にやってみないかと持ちかけたのだった。 やめておいたほうがいいですよ。僕は自分がとっくに狂ってしまっているのを知っていたか ら、とても本気で、そう思うのだけれど。 オーヴァーサイト・サイバナイデッド・クローマティック・。フレイドフォース。あんな歌、 歌わないほうがいいですよ。危ないから気をつけたほうがいいですよ。 おねがいだから、気をつけたほうがいいですよ。 僕は今、夜道を歩きながら、まるで祈るみたいにそんなことを考えて、僕はいったいどうし たのかなと思った。それはきっと彼の真っ黒な背中のせいだった。僕はそう思った。彼女がな にもかも僕のせいにしたのと同じように、彼のせいだった。真崎君、と僕は遂に呼んだ。 「真崎君ー 僕より一一歩先で彼がふりかえった。何、と彼が言った。 帰っていいですか。僕はそう言いたかった。わかったから、もう帰っていいですか。 僕はあなたの歌は好きではないですよ。 「すぐ、そこ」 僕たちの立ちどまった街灯の下からほんの十歩ぶんくらい先を彼は右手で指差した。とても 近い場所だったので僕は少し、まがぬけたなと思って黙った。 「あんた俺の何が好き ? 」
カッターを握っている指が、汗でぬるぬるしてきて、左手首の血管を刃先がまだ刺してい て、それはいまだに動脈には行き着かなくて、だからわたしは死ねないのだろうけど、なのに 自分の鼓動が耳のなかで鳴って、死ぬかもしれないと思っていた。エレベーターが地下におり てきた。自動扉がひらいた。歌声がとぎれた。わたしはそのままでいた。 シンザキトーヤ 真っ黒な服が好きで、暗い色合いのサングラスでいつも武装していた真崎桐哉に、わたしが 出会ったのはそれが最初だった。 まだわたしは、真崎桐哉がだれなのか知らなかった。彼がつくった《オーヴァークローム》 というュニットの名も。 ( わたしはわたしの暮らす世界の外のほとんどを知らず、幼かったのです ) 足元に座っているわたしを、桐哉がみおろした。サングラスをずらして、わたしに両目を見 ーいこ、つと、つ せた。地下階の蛍光灯は薄暗くて、どんな眼をしたひとだか、よく見えなかった。けれど桐哉 は、カッターも手首も血液も関係なく、口元で笑った。わたしのことを知っているみたいに、 すっかり慣れているみたいに、笑った。スルッと唇をひらいて、言った。 「それだけ ? こ しごと 歌うことが生業のひとの、声で言った。 ( えつ、なにが ? ) それだけ ? と桐哉が訊いた。 こどう
のぞ 僕が直接に眼を覗いたのがいけなかったのかもしれなかった。もちろん僕は覗きたくてわざと そうしたのだけれど。猫科の猛獣みたいな反応でおもしろかった。 僕、ロッテリアが好きなんです、と僕は言った。チトセカラスヤマにもロッテリアがあるん しんざき ですね。真崎君はロッテリアきらいですか。 彼は黒いコートの内側の、黒いジーンズのポケットに左手の親指をひっかけて立っていた。 何かおかしいよと僕は思う。きみはなにかおかしいよ。立ち方がもう普通の人と違っていた。 ノイズのような立ち方だ。街が平面の音像だとすると彼は定位の狂ったノイズだった。君は幾 しぶやまるやまちょっ つだっけ、二十一 ? どうしてマッチ売りの少女みたいに、渋谷の円山町のくらがりに立って る売春の女の人みたいに、季節はずれのホタルみたいに、自分に気をつけてくれといわんばか ししゅんき ぶんびつ りに異常なノイズを出しているの ? 思春期の、ホルモン分泌バランスが悪い子供みたいじゃ ないですか。 とは言わなかった。 丿ー・フェニックスに似てるって一言われませんか、ジェームス・ディー 真崎君、あなた、 ンでもいいけど、似てるって言われませんか。 そう言った。それが何だという眼を彼がした。何も答えてくれなかった。千歳烏山駅の階段 の出口のすぐ横で踏切がカンカンカンとゴングを鳴らしはじめたのもタイミングが悪かった。 せ 黄昏時の踏切には買い物のおばさんたちと帰宅の学生と遊ぶ若者と自転車と自動車が堰きとめ たそがれどき
〈 over-chrome) 登揚人物紹介 有栖川シン ( ありす力、わしん ) 本名有Ⅱ賍 ( まひろ ) 。に引きっさ れて、《オーウ、アークローんを結対ること アレンジ、打ちを担当ーホ ート白だか、《オーウアークローんに固 執するもあ 真崎桐哉 ( しんざきとうや ) ノ 4 ヾンド《オーヴァークローんのホーカ リスト。周り口酌なファンカ移くい 《テン・フラングとはライ川レであり社 的だか、朱音にちょっかいを出してく藤
合唱が。 ったない、鍛えてはいない、。フロフェッショナルではない人間たちによる歌が、舞台の外か おの ら、客席から、大地から自ずから生まれるもののように。 せんりつ 僕らの創った旋律を、つないでいた。 ひとつに固まっていく音楽。 そうして新たな地平へと、拡がっていく音楽。 ゅ、 3 」う ( 今、この瞬間かぎりの融合でも ) き于な 一瞬かぎりの、透明な絆のひろがりを、彼らは、ひとりひとりで、つないだ。 真崎君、自分自身がいままで彼らに教えた旋律を、こんなふうに贈りかえされて、きみ、驚 いているけれど。 案外、よくあることなんじゃないのかな。 たとえばナッとか。 きれい 名も知らない綺麗な花なんかや。 たとえば僕とか。 そんなものだよ。きっと、めずらしくもないんだ。 大丈夫だよ。 僕は、彼の背中をながめた。 きた
132 「こえがでない」 と、ポーカリストが言う。むきだしの木材の匂いの濃くなっている舞台袖の暗がりに座りこ せき んで両脚をなげだして黒い服の胸元に指をひっかけて、酸素がどこにもない池の魚みたいな咳 を三度してから、ちくしようふざけんなとつぶやいた。 「声が出ない」 「しゃべれてるじゃないですか」 「あア、そうだっけ」 忘れやすい 「みつともないなあ」 僕が一 = ロ、つ。 かっこう 「そんなの恰好よくないですよ、真崎君」 カカッと喉の奥で第を引 0 かけて、彼が首を斜めにした。 「ここどこだっけ」 「さあ僕もよくわからないですけど」 「ミャギ ? ミャザキ ? こ 「北のほうだと思うなあ」 「終わった ? これから ? こ しんざき にお そで