アパルトマン - みる会図書館


検索対象: 僕たちの背に翼はない
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1. 僕たちの背に翼はない

アパルトマンを出るとモンパルナス墓地の閭が広がってい た。話し込んでいるうちにすっかり夜が更けてしまったのだ。 街灯のほとんどないこの界隈は足元があやういほど暗い。 「遅くまで引きとめてごめんね。ドルべースさん、心配してる んじゃないかな」 テランスが本気で恐縮しているのに、アスティは鼻で笑った。 「そんなわけないだろ。俺、もう、子供じゃないぜ。・・・・・・じゃあな、 画伯。また来週」 真っ暗な舗道へ恐れげもなく踏み出していくアスティの後ろ 姿を、テランスはしばらく見送っていた。「もう子供ではない」 という本人の言葉を裏切るような、大人にはほど遠い華奢な体 の造り。絵画を好み、高級なお茶の味も知っているらしいのに いつばしの犯罪者を気取っている謎の少年。 部屋へ戻り、テープルを片付けながら、テランスは石でも飲 み込んだみたいな重苦しさが胸に居座っていることに気づい た。それは「寂しい」という感情だった。大声で泣きわめきた くなるような圧倒的な寂しさ。 テランスはそのとき初めて自覚した。自分のこれまでの生活 が、どれだけ孤独なものだったかを。 24

2. 僕たちの背に翼はない

・・誰の目にも触れないように隠しておけばいいんでしよう ? 気をつけて保管しますよ。それでいいでしよう ? 」 その後しばらく押し問答が繰り広げられたが、テランスは絶 対に譲らなかった。 ドルべースも最後には彼の意志の固さを感じ取ったらしい。 「わかりました。仕方ありませんな」とつぶやき、何事もなかっ たかのように元の仕事の話に戻った。 しかし、別れ際のドルべースの表情の中にある何かが、テラ ンスの脳内で警報を発動させた。画家であるテランスは細かい 観察力を備えていたのだ。 彼はその夜、アスティの肖像画と簡単な手荷物を携えて、友 人のアパルトマンに転がり込んだ。 絵を避難させたのは正解であったことが判明した。 数日後の昼間、テランスが部屋に戻ってみると、室内には徹 底的に荒らされた跡があった。何かを必死になって探した後の ような。 その後二度と、ポール・ドルべースからの連絡はなかった。 56 テランスは、ドルべースとの悶着を機に、犯罪者たちときっ 年月はあっという間に過き、た。 それに伴い、アスティの来訪も途絶えた。

3. 僕たちの背に翼はない

なるが、それでも友人の出世を心の底から祝ってやりたい。 彼らは結局、夜明け近くまで飲んだくれた。 ようやく雪がやんだ早朝、真っ白く染まった道を、テランス はアトリエまで歩いて帰った。酔っているせいで寒さを感じな いが、吐く息はおそろしく白い。滑って転んではいけないと、 慎重に舗道を踏みしめて進んだ。 アパルトマンの階段を昇り、扉を開くと、絵具の匂いの立ち こめた空気と無人の空間が彼を出迎えた。 アトリエの中は屋外と同じで、凍りつくように冷えている。 しらじらと冴えた朝の光の中で、イーゼルに立てかけられた 制作中の作品が目に入った。 ヨハネス・フェルメール。フランス・ハルス。 美しく、精密かっ完璧に再現された、彼らの作品。これほど までに高い技術で描かれた贋作はこの世に他に存在しないだろ つ。 圧倒的な美を秘めた絵画が、冷え冷えとした空気の中で凛と 佇んでいる。 彼自身の作品は一つもない。彼が本当に描きたいものは。 36 存在なのだ。 彼は犯罪者なのだ。贋作家という、画家の風上にも置けない ない深い穴の底に落ち込んでいる己を自覚した。 テランスは不意に、狂おしい焦燥感に襲われた。光さえ差さ

4. 僕たちの背に翼はない

捕された時のことを考えたら、贋作の依頼主に関する知識はな るべく少ない方がいい。だから彼らと必要以上に関わりを持つ 「ちょっと待ってて」 つもりはなかった。 の依頼したフェルメールの絵の贋作を取りに現れた。 秋も終わリに近い、ある日の夕方。アスティが、ドルべース 1 5 『ル・ドーム』というのは、『ラ・ロトンド』と同じく、ヴァ 「おい、シャルル。これ『ル・ドーム』のテープルじゃないか」 た。そのテープルには見覚えがあった。 び上げたがっている「荷物」とは、使い古した丸テープルだっ テランスは友人について一階まで降りた。友人が三階まで運 はいかない。 いた。制作中の贋作が置いてある部屋に、他人を入れるわけに かったが、テランスは他の住人との間にきっちり一線を引いて お互いの部屋を行き来するのはむしろ当たり前と言ってもよ 芸術家たちが多く暮らすアパルトマンでは、ノックもなしに てるだろう ? 」 「わかったよ、行くよ。いきなり入って来るなっていつも言っ その男の前に立って進路と視界を遮った。 中へずかずか入り込んで来ようとする。テランスはあわてて 運べないんだ」 「テランス、頼む。手を貸してくれ。荷物がかさばって上まで 人が立っていた。 そのとき、ノックもなしに扉が開いた。三階に住んでいる友 そうとした。 テランスは、完成している絵を渡すために、イーゼルから外

5. 僕たちの背に翼はない

し取る技術に長けていた。勉強のためルーヴル美術館でレンプ ラントを模写していた時、見知らぬ男に「その絵を売ってほし い」と頼まれたのだ。 9 かりになっていた。主に詐欺師たちだ。真作でない絵を真作と ところがいつの間にか、彼に複製画を依頼するのは犯罪者ば して悦に入っていた。罪がないと言えば、罪がない。 かせた複製画を、本物と偽って自宅に飾り、知人に見せびらか う見栄っぱりな金持ちが依頼主だった。彼らは、テランスに描 初めは、員重な名画を所有しているように見せかけたいとい テランスにもよくわからない。 依頼主の人種が変わり始めたのは一体いつのことだったか。 て売るようになった。 それからもテランスは、依頼があれば、名画の複製画を描い 腹はかえられない。 自分の絵よりも模写の方か高く売れたのは屈辱だったが、背に けれどもアパルトマンの家賃をすでに三か月滞納していた。 テランスにもそのことはわかっていた。 術家のやることではない。芸術家なら己の芸術を追求すべきだ。 金のために、他人の作品をまて描いた絵を売るなんて、芸 はるかに高い金額だったのだ。 これまで自分の「オリジナルの」絵につけられた値段より、 テランスは金を受け取って困惑した。 ばえだった。 鑑定眼のある人間でなければ本物と見分けられないほどの出来 テランスの模写は単なる模写のレベルを超えていた。よほど

6. 僕たちの背に翼はない

ぱり手を切り贋作の制作を止めることにした。今までよりさら に安いアパルトマンへ引っ越し、毎日、絵を描いた。生活費を 稼ぐために夜はキャパレーで働いた。 金はあまり無いが、納得できる暮らしだった。 あいかわらず風景画ばかり好んで描いていたテランスに、転 機が訪れた。依頼を受けて、ラヴェル夫人という六十代の未亡 人の肖像画を描くことになったのだ。肖像画は、彼女の子供た ちが、彼女の誕生日プレゼントとして依頼してきたものだ。 アトリエで、恰幅の良い銀髪の婦人と二人きりで向かい合い、 テランスは困惑していた。生きた人間をモデルに描くのは数年 ぶりだ。とっかかりがつかめない。静物画を描くのと同じよう に、目に映る物をそのままキャンバスに移し変えるだけでいい のだろうか。しかし、それはどうも違うような気がする。依 頼主である子供たちが望んでいるのはそんな絵ではないだろう 「あの。描き始める前に少しお話をしたいんですけど、 すか ? 」 いいで テランスは時間を稼ごうとしていた。「お話」といっても何 を話せばいいのか見当もつかないが。 「えーっと・・・・・・ラヴェルさん。その・・・・・・」 天啓は、不意に訪れた。 「一一 - あなたのいちばん大切な人についてのお話を聞かせてく れませんか ? 」 未亡人はいそいそと語り始めた。亡き夫の思い出話を。初め ての出会い、愛の告白、つき合い始めた頃の夢みたいに浮き立っ た日々のことを。 57

7. 僕たちの背に翼はない

仲間たちはいっそう大声で笑い転げた。どの顔も、アルコー ルでてらてらと赤く光っている。 「おまえさ。そんなだと、一生童貞のままで終わるぞ、きっと」 「おまえも少しは生身の人間に興味を持てよ。芸術家に恋は つきものだぞ ? 狂おしい情念、不条理な愛着・・・・・・感情的な嵐を 何度もくぐり抜けてこそ、人の魂を揺さぶる作品が生み出せる んだ」 「フレムト・ダンテだって晩年は、五十歳も年の離れた少女を 愛人にしてたっていうじゃないか。性愛は創作には欠かせない エネルギーだ。ぽんやリ風景画ばかり描いてる場合じゃないぜ、 テランス」 「風景画ばかり描くことの、どこが悪いんだ。それから、僕は 童貞じゃないっ」 テランスは勢いよく立ち上がり、叫んだ。その拍子にぐらり と体が揺れ、仰向けに倒れそうになったので、あわてて椅子の 背につかまった。自覚している以上に酔いが回っているらしい。 童貞でないのは、事実だ。 しかし、生身の人間に興味を持てないのも、事実だった。 仲間と思う存分飲んで騒いだ夜の後は、一人の時間がいっそ う耐えがたいものに感じられる。酔いで感覚が鈍っていなけれ ば、閭と静寂のあまりの重さに打ちのめされていたことだろう。 テランスがふらっく足取りで住居兼アトリエに帰り着いたと き、時刻は午前二時を回っていた。モンパルナス墓地の南側に 建っ白塗りのアパルトマンだ。 灯りをつけると見慣れた光景が目に飛び込んできた。 粗末なべッド。昨年パリを引き上げて郷里へ帰った友人から 6