キャンバス - みる会図書館


検索対象: 僕たちの背に翼はない
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1. 僕たちの背に翼はない

微笑んだ。 「企業秘密だよ、それは」 「えー、教えてくれたっていいじゃん。誰にも言わないからさ。 心配しなくても、俺には絵は描けないから、あんたの商ま敵に ロノし なったりしないよ」 「どうしてそんなことを訊くんだい。絵を描かないのなら、必 要ない知識だろ ? 」 「仕事に少しでも関係することだったら、何でも知っときたい んだ」 テランスは微笑み続けながら、迷っていた。 絵画の制作年代をごまかすための技術は、彼が文献を研究し て独自に開発した技術であり、あまり他人に教えたくないのは 事実だ。でも、それなりに力を入れて取り組んでいる自分の仕 事について、誰かに理解してもらいたいという気持ちもある。 「じゃあ交換条件だ。あんたが企業秘密を一つ教えてくれれば、 俺の企業秘密も一つ教えてやる。それでどうだ ? 」 子どもらしい無邪気な熱意をたたえた瞳で見上げられ、テラ ンスはそれ以上断る理由を挙げることができなかった。 「本物の十七世紀のキャンバスを使ってるんだ。二年前、ボワ セル美術学校の取り壊しの時に、十セ世紀の無名の画家の絵が たくさん処分されそうになっていたから、それをもらってきた。 絵具を削り落とせば、そのキャンバスをまた使えるからね」 テランスは語り始めた。 子供にそんな話が理解できるのか、半信半疑でしゃべり始め たのだが。アスティは食い入るような真剣なまなざしでこちら 22

2. 僕たちの背に翼はない

彼の才能は反社会的な目的のために費やされており、世間で 認められることは決してないだろう。 テランスが、友人のルネのように日の当たる場所へ出られる 可能性は千に一つもないのだ。 今わかった。さっき酒場で押さえつけなければならなかった のは、単純な嫉妬やひがみとは次元が違う、救いのない絶望感。 普段できるだけ意識しないように努めている、自らの境遇へ かもを。 打ち壊したかった。いまいましい贋作を。自分自身を。何も の恐怖だ。 げた。刺すような冷たさが全身を包んだ。 もりと積もっている。テランスはその柔らかい雪の山に身を投 建物の壁沿いに、屋根から滑り落ちた雪が小山のようにこん テランスは獣のような唸り声をあげ、戸外へ飛び出した。 かなる意味でも暴力的な人間ではなかった。 の瞬間だけでも気が晴れたかもしれない。しかしテランスはい 暗い衝動に任せてキャンバスを叩き壊すことができれば、そ メトロに乗って移動したはずだが、道中のことは何も覚えて か・・ ここでこのまま倒れていれば、楽に死ねるのではないだろう 37

3. 僕たちの背に翼はない

パプロ・ピカソ。アーネスト・ヘミングウェイ。マックス・ アンリ・ルソー。コンスタンティン・プランクーシ。 アメデオ・モディリアー ジャン・コクトー。マルク・シャ ジャコプ。 金はなかった。食うや食わずの生活だった。 て世間に認められることを夢見ていた。 テランス・ソワイエも、そんな若者の一人だった。画家とし ガール。スコット・フィッツジェラルド。 8 もともとテランスは、目で見た物をそのままキャンバスに写 たのは二年ほど前のことだ。 生活のために、いわゆる「名画」の複製画を描いて売り始め あった。 う現実を思い知り、己の才能の乏しさに打ちのめされる時も れば。自分よりはるかに才能のある画家が星の数ほどいるとい 見る目がないせいだ」という強烈な自負心に満たされる時もあ 「僕には才能がある。僕が認められないのは、世間の連中に しか希望と絶望との間で引き裂かれた。 いつまで経っても芽が出ない極貧生活。テランスの心はいつ ナーがいた。 デッサンを代金として受け取ってくれる、親切なカフェのオー そして、一文無しの画家たちに飲み食いさせ、金の代わりに 強い絆があった。 を語り合い、金や物や、ときには女さえ共有する仲間たちとの けれども彼には若さがあった。燃えるような夢があった。夢

4. 僕たちの背に翼はない

んだろ、あんたも ? 甘いんだよ。どんな世界だって、一流にな ろうと思ったら、努力と研究か不可欠だ。俺は一流の詐欺師に なるぜ。今はまだガキだから、やれる役柄も限られてるけど ・・・大人になったら誰にも負けない。世界へ打って出て、稼き、 まくってやる」 その声、表情ににじみ出る熱意は、まき、れもなく本物のよう に思われた。 世間の基準からすれば熱意の方向性が間違っているのだろう が、テランスはただ、少年のひたむきな生き方を好ましく感じ、 微笑んだ。 「だからきみは絵にも詳しいのか。勉強したんだね、それも」 「ああ。あんたにいろいろ教えてもらえて、ためになるよ」 「絵に詳しいのは仕事のためだけ。本当は絵なんて好きでも何 でもない。 ・・・そういうことかい」 「そういうこと。あいにく育ちが悪いんでね。高尚な趣味は持 ち合わせてないのさ」 テランスは息を深く吸い込んだ。 「きみが今言っているのは・・・・・・本当のこと ? それとも、嘘 ? 」 こちらへ向かって挑戦的に微笑み返す少年が、まるで天上の 存在のように思えて、テランスはつかの間呼吸を忘れる。 「本当のことなんか言うわけないだろ。俺はプロの嘘つきだ ぜ ? あんたが見ている俺は、俺があんたにそう思わせたいと これまで目にしてきたどんな自然の美。彼がキャンバスに写 ああ、綺麗だ、とテレンスは感じた。 思っている俺さ」 29

5. 僕たちの背に翼はない

ぱり手を切り贋作の制作を止めることにした。今までよりさら に安いアパルトマンへ引っ越し、毎日、絵を描いた。生活費を 稼ぐために夜はキャパレーで働いた。 金はあまり無いが、納得できる暮らしだった。 あいかわらず風景画ばかり好んで描いていたテランスに、転 機が訪れた。依頼を受けて、ラヴェル夫人という六十代の未亡 人の肖像画を描くことになったのだ。肖像画は、彼女の子供た ちが、彼女の誕生日プレゼントとして依頼してきたものだ。 アトリエで、恰幅の良い銀髪の婦人と二人きりで向かい合い、 テランスは困惑していた。生きた人間をモデルに描くのは数年 ぶりだ。とっかかりがつかめない。静物画を描くのと同じよう に、目に映る物をそのままキャンバスに移し変えるだけでいい のだろうか。しかし、それはどうも違うような気がする。依 頼主である子供たちが望んでいるのはそんな絵ではないだろう 「あの。描き始める前に少しお話をしたいんですけど、 すか ? 」 いいで テランスは時間を稼ごうとしていた。「お話」といっても何 を話せばいいのか見当もつかないが。 「えーっと・・・・・・ラヴェルさん。その・・・・・・」 天啓は、不意に訪れた。 「一一 - あなたのいちばん大切な人についてのお話を聞かせてく れませんか ? 」 未亡人はいそいそと語り始めた。亡き夫の思い出話を。初め ての出会い、愛の告白、つき合い始めた頃の夢みたいに浮き立っ た日々のことを。 57

6. 僕たちの背に翼はない

だから、僕がきみを手に入れる方法は、一つしかないんだ。 彼を突き動かした狂気にも似た熱情がようやく落ち着き、ひ ざしていた。 れ落ちた羽くずのような雪が無数に宙に舞い、世界を無音に閉 縦長の大きな窓の外では、灰色の空の下、天使の翼からこぼ まずに描き続けた。完全に没我の境地だった。 寝食を忘れて昼も夜もキャンバスの前に立った。三日三晩休 テランスは憑とりつかれたように絵筆をふるい始めた。 パリをその冬三回目の寒波が覆い尽くした日。 ンバスの中からこちらをみつめていた。 テランス特有の写実的なタッチで描き出された少年が、キャ 一個の作品が完成していた。 F20 号の胸像画。 と息つくだけの余裕が戻ってきた時。 52 憔悴しきったテランスはべッドに倒れ込み、数時間ぶっ通し 実在するかのような確かな質感で描き出していた。 頬を伝う涙の透明な輝きを、テランスの筆は、まるでそこに るかのように、唇はうっすらと開かれている。 その顔は深い哀しみに曇っている。何かを訴えかけようとす ち。複雑な陰影を帯びた金髪の輝き。 プルシアンプ丿レーの澄んだ瞳。なめらかな肌。員族的な顔立

7. 僕たちの背に翼はない

るほど長い時間が過き、た後。テランスは固く閉じていた目をお そるおそる開いた。拷問と大量の出血のせいで意識は朦朧とし ていたが、ただーっの目的意識が彼を支配していた。どうして も確認しておかなければならないことがある。 死体のように固まり、なかなか動こうとしない体は、もはや 自分のものではなくなってしまったかのようだ。テランスは懸 命に首を動かした。必死で周囲を見回そうとした。もどかしい ほどのろのろした動作で。 彼の目がついに、探していた物をとらえた。アスティの肖像 画がテープルの上に無造作に置き去りにされていた。 テランスは安堵のあまり脱力した。目を閉じ、心地よい暗闇 の世界へ戻った。 よかった。絵は奪われずに済んだ。あの男たちに絵まで 奪われていたら、もう生きてはいけないところだった。 こんな目に遭ったのは自業自得だ。それはわかっている。本 人の了承も得ずに勝手にアスティの肖像画を描き、その上、「誰 にも見せないよう注意して保管する」というドルべースへの約 束も守らなかった。もうこの手では絵筆を自在に操ることはで きないだろう。軌道に乗り始めたテランスの画家としてのキャ リアは葬られてしまった。 どこで僕は間違ってしまったのだろう。こんな結末を迎えず に済むための別の道筋があったのではないか。 いや、それはないな、とテランスは胸の中でつぶやいた。 破滅することがわかっていたとしても、僕はきっときみの絵 を描いただろう。何度人生をやり直しても、何度でも同じこと を繰り返すだろう。 僕が画家だったから、きみを手に入れることができた。永遠 に色褪せることのないキャンバスに閉じ込めて、僕だけのもの 64

8. 僕たちの背に翼はない

を見据えている。ー語一句聞き漏らさない、という態度だ。 「それに、十七世紀に実際にオランダで使われていたのと同じ 絵具や溶剤、絵筆を、僕が自分で手作りした。いろいろ本を調 べて作ったからね。完璧だと思うよ。 ・・・フェルメールの時代 のキャンパスに、フェルメールが使っていたのと同じ絵筆と絵 具で描いてるんだから、専門家にも見破れっこない」 「アルコールを浸した綿で絵の表面をなぞったら、新しい絵具 は色か落ちるだろ。それで最近描いた絵だってバレるんじゃな いの ? 」 年端もゆかない子供が、プロの真贋判定方法を知っていたこ とに、テランスはびつくりした。次の瞬間、ひとりでに、自分 の頬が笑みに崩れるのを感じた。知識のある相手、本当に「理 解してくれる」相手に自分の工夫を披露できる喜びに、胸が躍っ 「だから、それをごまかすために、絵の表面にフェノール樹脂 を塗って加熱するんだ。友達の勤めてるパン屋のオープンを夜 ・・・そうすればアルコール 中にこっそり使わせてもらってる。 でこすっても絵具は落ちない」 「な・る・ほ・ど。さすがは画伯だな ! 」 テランスが企業秘密を打ち明けたお返しに、アスティはカー ドゲームでの初歩的なイカサマの方法を教えてくれた。 テランスは生まれてこのかた金を賭けてカードをしたことな ど一度もないし、今後もやらないだろうと思ったが一一一幼い少 年が、とてつもなく鮮やかな手つきでカードを自在に操ってい る有様は、興味深い見物 ( みもの ) ではあった。 23