彼の才能は反社会的な目的のために費やされており、世間で 認められることは決してないだろう。 テランスが、友人のルネのように日の当たる場所へ出られる 可能性は千に一つもないのだ。 今わかった。さっき酒場で押さえつけなければならなかった のは、単純な嫉妬やひがみとは次元が違う、救いのない絶望感。 普段できるだけ意識しないように努めている、自らの境遇へ かもを。 打ち壊したかった。いまいましい贋作を。自分自身を。何も の恐怖だ。 げた。刺すような冷たさが全身を包んだ。 もりと積もっている。テランスはその柔らかい雪の山に身を投 建物の壁沿いに、屋根から滑り落ちた雪が小山のようにこん テランスは獣のような唸り声をあげ、戸外へ飛び出した。 かなる意味でも暴力的な人間ではなかった。 の瞬間だけでも気が晴れたかもしれない。しかしテランスはい 暗い衝動に任せてキャンバスを叩き壊すことができれば、そ メトロに乗って移動したはずだが、道中のことは何も覚えて か・・ ここでこのまま倒れていれば、楽に死ねるのではないだろう 37
ぐに、イーゼ丿レに架けられたアスティの肖像画に目をとめた。 詐欺師の顔から愛想の良い笑みが消え、難しい表情が浮かび 上がるさまを、テランスはじっと眺めていた。 「この絵は・・・・・・うちの坊主ですか。モデル無しでここまで描け るとは、さすがですね、画伯」 「どうしてモデ丿レ無しで描いたとわかるんです ? 」 ドルべースはゆったりした動作で肩をすくめてみせた。 「あいつが自分の顔を絵に描かせるわけがない。手配されてい ないとは言え、いちおう法の外側を歩く人間ですからな。それ に・・・・・・あいつは人前でこんな顔はしない」 理由ははっきりしないが、ドルべースの態度に、テランスは いら立ちのようなものを覚えた。 「ときどき、なんだか寂しそうな顔をしていることがあリます よ」 きつばりと言い返した。自分でも意外なほど強い口調になっ てしまった。 「なるほど。芸術家の心眼というやつですか。しかし、失礼な がら、少し美化し過ざではないですか。そりゃあ確かに線の細 い顔をしてますがね。うちの坊主は銃で撃たれたって泣き声ひ とつあげない奴ですよ」 テランスは思わず、体の両脇で拳を握リしめていた。どす黒 い巨大な塊が胸元までせり上がってくるような感覚だった。 それは憤怒だった。人と深く関わらないのを常としてきた彼 が、生まれて初めて他人に感じる激情。 この男は、年端もゆかない少年を、銃で撃たれるような危険 に平気でさらしているのか。 今のロぶりからすると、ドルべースは少年を危地に追いやる 54
モンパルナスのカフェでは夜ごと男女がダンスに興じ、その まま一夜限りの情事へ流れていく者も少なくない。「創作のイ ンスピレーションを得るため」と称して、ハッシッシ ( 大麻 ) に走る者もいる。女にもドラッグにも手を出さないテランスは 「堅物」だと仲間たちにからかわれてきた。 けれどもアスティの言葉は、そんなテランスをやんわりと肯 定してくれる。それが、心地よい。 「・・・・・・『人を愛したこともないような奴が、人の心を揺さぶる 芸術作品を生み出せるはずがない』と言われることもあるんだ。 そこまで言われると、さすがに考えちゃうよね。だから、無理 して、それほど好きでもない女の子とつき合ったりするんだけ ど、ちっとも楽しくないし長続きしないんだ」 「うつわー、あんたって人でなしだな、画伯。そんなの相手の 女に失礼じゃねーか」 テランスはくすりと笑う。 gamin が達観したような台詞を 吐くのが痛快だ。 「アカデミーにいた頃は『人間嫌い』とまで言われてたよ。いや、 別に、本当に人間が嫌いなわけじゃないんだ。友達とは普通に つき合ってるし。ただ・・・・・・僕の絵が・・・・・・」 テランスは言葉を選ぶのに苦労した。こんな話は今まで誰に も打ち明けたことがないのだ。 「昔から、人物画が下手だと言われてきた。それもあって今も 風景画ばかり描いてるんだけどね。何と言うのか・・・・・・魂が宿っ ていない、と言われるんだ。そこに人がいるように見えない、 26 「あんたの絵って、人間の気配がしないんだ。街並みを描い 「え ? わかるの ? 」 「あー。なんか、わかるような気がする」 というか」
「僕が贋作を描くのを止めたら・・・・・・もう、きみには会えなくなっ てしまうね。堅気の人間になんか、用はないだろう ? 」 「そんな事はないさ。あんたが有名な画家になったら、顔を 見に来るよ」 「それは・・・・・・本当の約束 ? それとも嘘 ? 」 アスティは答えず、微笑んだ。 50
仲間たちはいっそう大声で笑い転げた。どの顔も、アルコー ルでてらてらと赤く光っている。 「おまえさ。そんなだと、一生童貞のままで終わるぞ、きっと」 「おまえも少しは生身の人間に興味を持てよ。芸術家に恋は つきものだぞ ? 狂おしい情念、不条理な愛着・・・・・・感情的な嵐を 何度もくぐり抜けてこそ、人の魂を揺さぶる作品が生み出せる んだ」 「フレムト・ダンテだって晩年は、五十歳も年の離れた少女を 愛人にしてたっていうじゃないか。性愛は創作には欠かせない エネルギーだ。ぽんやリ風景画ばかり描いてる場合じゃないぜ、 テランス」 「風景画ばかり描くことの、どこが悪いんだ。それから、僕は 童貞じゃないっ」 テランスは勢いよく立ち上がり、叫んだ。その拍子にぐらり と体が揺れ、仰向けに倒れそうになったので、あわてて椅子の 背につかまった。自覚している以上に酔いが回っているらしい。 童貞でないのは、事実だ。 しかし、生身の人間に興味を持てないのも、事実だった。 仲間と思う存分飲んで騒いだ夜の後は、一人の時間がいっそ う耐えがたいものに感じられる。酔いで感覚が鈍っていなけれ ば、閭と静寂のあまりの重さに打ちのめされていたことだろう。 テランスがふらっく足取りで住居兼アトリエに帰り着いたと き、時刻は午前二時を回っていた。モンパルナス墓地の南側に 建っ白塗りのアパルトマンだ。 灯りをつけると見慣れた光景が目に飛び込んできた。 粗末なべッド。昨年パリを引き上げて郷里へ帰った友人から 6
雰囲気はまったく違う。ばっと見、完全に別人だ。 間違えるはずがなかった。 ・・・アスティ ? 」 しかし見 テランスの 絵を食い入るように眺める憂いに満ちた横顔が、 瞳に焼きついた。 アスティがこちらを向くまでに、やや間があった。真正面か ら相手の顔を見て、テランスは言葉で言い表せない違和感を覚 えていた。目の前にあるのは確かに、「片時も胸から離れない」 と言っても過言ではない面立ちだ。しかし、どうしても、似て いるだけの別人ではないかという感覚がぬぐい切れない。髪型 や服装が常と違っているというだけではない。人間が発してい る、根本的な《気配》のようなものが異なっているのだ。 もし「人違いですよ」と言われたりしたら、テランスは抗弁 もできずに引き下がるしかなかっただろう。 「こんな所で会うなんて奇遇だな、画伯」 アスティが低い声で言った。テランスはようやく驚きから立 ち直り、声を発することができた。 「今日はいつもと印象が違うんだ」 「仕事帰りだから。急に切り替えられないんだ」 今はまだ朝の九時過き、なのだが。何の仕事からの帰りなのだ ろう。 39
これまでこのアトリエに立ち入った人間の誰かが、この襲撃 者たちと関連があるということだろうか・・ しようとしたのは、こういう事態を見越してのことだったのか。 五年前、ドルべースが乱暴な手段を使ってまで肖像画を回収 をこの連中に与えることになってしまう。 テランスが描いた肖像画が、アスティの所在を示す手がかり 追っている。 あからさまな殺意をみなき、らせたこの男たちはアスティを 「し・・・・・・知らない。最近会っていないんだ」 その質問にテランスは震えあがった。 「おまえの描いたこの絵の子供だが。今はどこにいる ? 」 福な紳士たちがときどき漂わせている香りだ。 いるが、高級プランドの男性用コロンだ。顧客として接する裕 テランスはかすかな甘い香りを嗅き、取った。だいぶ薄れては てきた。 三人のうちいちばん背の高い痩せた男が、テランスに近づい 『・・・・あなたとアスティとの間に接点があったという証拠を 『・・・・俺たちみたいな悪党と関わると、いろいろ危険も多い 62 くる。 当時は気にもとめなかった言葉の断片が、まざまざと蘇って 残すのは危険なんです・・・・・・』
エピローグ ~ 1931 年・冬 ~ 61 は微笑みながら、しかしきつばりと、断り続けてきた。 「売ってほしい」という申し出も何度かあったが、テランス ランスの最高傑作だったからだ。 の生々しい情念が見る者にも伝わるこの絵は、まき、れもなくテ アスティの肖像画に目を留める者は少なくなかった。描き手 人間の数も増えている。 画商とのつき合いが増えるにつれて、アトリエに出入りする 「あったぞ。これだ」 撃を受けていた。 た。男たちの目的がその絵だと知って、全身が痺れるほどの衝 椅子に縛りつけられたテランスは呆然と成り行きを眺めてい 「うむ。この顔は・・・・・・間違いないな」 いた。 画を携えて戻ってきた。残りの二人の男は絵を確認し、うなず 室内で何かを探していたらしい一人の男が、アスティの肖像 ら引きずり出され、縛り上げられた。 熟睡していたテランスはろくな抵抗もできないままべッドか きた。 深夜。黒い覆面で顔を隠した三人の男たちが突然押し入って だった。 それは、アスティに会えなくなってから五回目の冬のこと
それ以来、ロコミでぼっリぼつりと肖像画の依頼が来るよう になった。テランスも自分からモデルを雇って人物画を描いて みたりした。 仲間で金を出し合って展覧会を開いた。盛況とはお世辞にも 言えなかったが、予想以上に大勢の人が足を運んでくれた。テ ランスの絵が一枚売れた。 ちゃんと地面に足がついている。一歩一歩進んでいる。 何かが急に変わったわけではないし、ハッピーエンドも約束 されていないが。 今でもダンテの『飛翔』は好きだ。ときどきルーヴルまで 見に行く。 でも、空に飛び立ちたいとは、あまり思わなくなった。 翼を持たない凡庸な人間は、毎日歩き続けたとしても、結局 大した距離を進めずに終わるだろう。 でも、それでいいのだと思える。 大事なのは、選んだ道を自分の足で歩き続けることだから。 いくら願ったって背中に翼なんか生えてこない。俺たち は自分の足で歩いていくしかないんだよ。 二人きりの夜中に、本音らしく零れ落ちたアスティの言葉を 59
し取ろうと努めてきたどんな風景よりも、目の前の少年の方が 輝かしく美しい。 30 く頼りなさげな表情が。 強気な言動と裏腹に、ときおりその整った顔をよき、る、はかな そして、心に焼きついて、どうしても離れようとしないのだ。 大な謎を内包して、何食わぬ顔で微笑んでみせるその姿が。 気になって仕方なかったのだ。まだほんの子供のくせに、巨 を極めるためまっすぐに突き進んでいくその姿が。 ばかりの自分と比べて、 ( たとえ法律に違反していても ) 職業 まぶしかったのだ。不本意な生き方を強いられ、迷い悩んで ドックスの向こうにある。 どこまで信じたらいいのか ? 」という昔ながらの嘘つきのパラ 真実はすべて、「『私は嘘つきだ』と言っている人間の言葉を としない。 何が真実かなんて、わからない。アステイも教えてくれよう かもしれない。 家の子弟のように見える」ことがすでにプロの詐欺師の技なの しかしもちろん、アスティ自身が明言しているように、「良 美術に対する造詣の深さ。見え隠れする教養。 のではないかと思わせられることが何度もある。品の良い容貎。 そのチンピラの顔こそが見せかけで、本当は裕福な生まれな 慣れているふてぶてしいチンピラの少年。 詐欺を生業とし、カードのいかさまが上手で、年齢の割に世