らしく、テランスへの制作依頼も多かった。おかげでテランス も、いつになく金銭的にゆとりのある冬を過ごすことができた。 暖房費をけちらずにアトリエ全体を暖めることができるおかげ で、仕事もよくはかどった。 アスティがドルべースの代理で、制作の進捗を確認しにやっ て来た。 戸外はひどく寒いらしく、アスティは頬と鼻の頭を真っ赤に している。そのせいでやけに幼く見えて、ふてぶてしい態度と のミスマッチがおかしかった。 テランスは少年を描きかけの絵の所へ案内した。 いくら幼く見えるからといって、仕事に関してアスティを子 供扱いできないことをテランスは承知していた。この少年には 絵画を見る目があり、ドルべースの代理を十分に務められるだ けの知識と交渉能力も持ち合わせているのだ。 アスティは鋭い視線でテランスの作品をしばらく吟味してい 「一一一よかったらお茶でも飲んでいかないかい」 仕事に必要なやり取りを終え、帰ろうとしているアスティに 向かって、テランスは思いきって声をかけた。 「外は寒いだろう ? 熱いお茶で温まって行くといいよ」 贋作の依頼主に対してこんな誘いをかけるのは初めてだ。生 活費を稼ぐためだけに必要なっき合いだと割り切って、これま で常に一定の距離を保ってきたのだ。 こちらを見返すアスティの顔に、とまどいの色が見えた。 テランスはどき、まき、した。もともと自分から人を誘うのは苦 手な性質 ( たち ) だ。それに、十代の少年の歓心をどうやった ら買えるのかなんて見当もつかない。 そもそもテランスの生活圏に、 gamin ( 子供 ) は存在してい 19
なるが、それでも友人の出世を心の底から祝ってやりたい。 彼らは結局、夜明け近くまで飲んだくれた。 ようやく雪がやんだ早朝、真っ白く染まった道を、テランス はアトリエまで歩いて帰った。酔っているせいで寒さを感じな いが、吐く息はおそろしく白い。滑って転んではいけないと、 慎重に舗道を踏みしめて進んだ。 アパルトマンの階段を昇り、扉を開くと、絵具の匂いの立ち こめた空気と無人の空間が彼を出迎えた。 アトリエの中は屋外と同じで、凍りつくように冷えている。 しらじらと冴えた朝の光の中で、イーゼルに立てかけられた 制作中の作品が目に入った。 ヨハネス・フェルメール。フランス・ハルス。 美しく、精密かっ完璧に再現された、彼らの作品。これほど までに高い技術で描かれた贋作はこの世に他に存在しないだろ つ。 圧倒的な美を秘めた絵画が、冷え冷えとした空気の中で凛と 佇んでいる。 彼自身の作品は一つもない。彼が本当に描きたいものは。 36 存在なのだ。 彼は犯罪者なのだ。贋作家という、画家の風上にも置けない ない深い穴の底に落ち込んでいる己を自覚した。 テランスは不意に、狂おしい焦燥感に襲われた。光さえ差さ
捕された時のことを考えたら、贋作の依頼主に関する知識はな るべく少ない方がいい。だから彼らと必要以上に関わりを持つ 「ちょっと待ってて」 つもりはなかった。 の依頼したフェルメールの絵の贋作を取りに現れた。 秋も終わリに近い、ある日の夕方。アスティが、ドルべース 1 5 『ル・ドーム』というのは、『ラ・ロトンド』と同じく、ヴァ 「おい、シャルル。これ『ル・ドーム』のテープルじゃないか」 た。そのテープルには見覚えがあった。 び上げたがっている「荷物」とは、使い古した丸テープルだっ テランスは友人について一階まで降りた。友人が三階まで運 はいかない。 いた。制作中の贋作が置いてある部屋に、他人を入れるわけに かったが、テランスは他の住人との間にきっちり一線を引いて お互いの部屋を行き来するのはむしろ当たり前と言ってもよ 芸術家たちが多く暮らすアパルトマンでは、ノックもなしに てるだろう ? 」 「わかったよ、行くよ。いきなり入って来るなっていつも言っ その男の前に立って進路と視界を遮った。 中へずかずか入り込んで来ようとする。テランスはあわてて 運べないんだ」 「テランス、頼む。手を貸してくれ。荷物がかさばって上まで 人が立っていた。 そのとき、ノックもなしに扉が開いた。三階に住んでいる友 そうとした。 テランスは、完成している絵を渡すために、イーゼルから外
地上のしがらみを離れ、自由に空を舞うことの幸福感。 夜の闇に半は飲み込まれつつある地上の様子が、男が後に残 してきたものの重さを象徴しているかのようだ。 日に焼けた男の顔に刻み込まれた、おずおずとした、だが強 烈な陶酔の表情を見るたびに、テランスの心はかきむしられる。 この絵が象徴しているのは絶対的な解放だ。 所へ飛んで行きたい。 背中の翼で空気を打ち、力強くはばたいて、見知らぬ遠い場 吸い上げられたい。 ままならない地上の世界をすべて捨て去り、広大な空の中へ 自分も飛びたい、この男のように。 13 こ。ここから飛び去るための翼が欲しいと。 だからテランスは、自分の《運命の絵》を眺めながら願うの るのに、抜け出す道がみつからない。 本当にやりたいことからどんどん遠ざかっているとわかってい 後ろめたさと不安に苛まれる日々は、もうたくさんだ。自分が このままではいけない、と思う。今の生活から抜け出したい。 を淡々と生産するだけの毎日。 送っている。贋作職人だ。金をもらって、魂のこもらない絵画 ところが今のテランスは芸術家というより職人に近い生活を に、贋作の制作に手を染めたはずだった。 い。そう願って画家を志したはずだった。その夢を支えるため 自分もいつか、人の心に楔のように打ち込まれる絵を描きた
ない。 gamin なんて、街角のソーダ売りの屋台に群がってい る半ズボンの少年たちしか思いつかなかった。 「ちょうど、マリアージュ・フレールの茶葉が手に入ったとこ ろなんだ」 テランスは、とりあえず頭に浮かんだ言葉を、急いでロにし マリアージュ・フレールの紅茶は非常に高価で、普通なら、 テランスのような貧乏画家には手が届かない。 たまたま昨日の昼、『ラ・ロトンド』に来ていたムーランルー ジュの踊り子からもらったのだ。彼女自身はそれをファンから プレゼントされたらしいが。彼女がテランスの親しい友人の情 婦であることを知っていたので、黒い茶葉の缶を手渡すときの 彼女の艶っぽい微笑みを、テランスは見ないふりをした。 でも、値打ちを知らなければ、いくら高級品といってもただ のお茶だ。マリアージュ・フレールなど有難がるのは大人だけ で、十代の子供にとっては何の意味も持たないかもしれない。 テランスが自分のうかっさに内心で舌打ちするのと、アス 然のような態度でひらりと腰を下ろした。 あっけらかんと言い放ち、テランスが椅子を勧める前に、当 「貧乏画家にしちゃ良いお茶飲んでるんだな」 ティが感嘆のロ笛を吹いたのとはほぼ同時だった。 20 見られるわけにはいかないからだ。 人をアトリエに招き入れたことは一度もない。制作中の贋作を のだ。表沙汰にできない《副業》を始めてからというもの、友 ランスは再認識した。来客用のカップを探し出すのに苦労した この部屋で誰かとお茶を飲むのは久しぶりだという事実をテ
微笑んだ。 「企業秘密だよ、それは」 「えー、教えてくれたっていいじゃん。誰にも言わないからさ。 心配しなくても、俺には絵は描けないから、あんたの商ま敵に ロノし なったりしないよ」 「どうしてそんなことを訊くんだい。絵を描かないのなら、必 要ない知識だろ ? 」 「仕事に少しでも関係することだったら、何でも知っときたい んだ」 テランスは微笑み続けながら、迷っていた。 絵画の制作年代をごまかすための技術は、彼が文献を研究し て独自に開発した技術であり、あまり他人に教えたくないのは 事実だ。でも、それなりに力を入れて取り組んでいる自分の仕 事について、誰かに理解してもらいたいという気持ちもある。 「じゃあ交換条件だ。あんたが企業秘密を一つ教えてくれれば、 俺の企業秘密も一つ教えてやる。それでどうだ ? 」 子どもらしい無邪気な熱意をたたえた瞳で見上げられ、テラ ンスはそれ以上断る理由を挙げることができなかった。 「本物の十七世紀のキャンバスを使ってるんだ。二年前、ボワ セル美術学校の取り壊しの時に、十セ世紀の無名の画家の絵が たくさん処分されそうになっていたから、それをもらってきた。 絵具を削り落とせば、そのキャンバスをまた使えるからね」 テランスは語り始めた。 子供にそんな話が理解できるのか、半信半疑でしゃべり始め たのだが。アスティは食い入るような真剣なまなざしでこちら 22
ぱり手を切り贋作の制作を止めることにした。今までよりさら に安いアパルトマンへ引っ越し、毎日、絵を描いた。生活費を 稼ぐために夜はキャパレーで働いた。 金はあまり無いが、納得できる暮らしだった。 あいかわらず風景画ばかり好んで描いていたテランスに、転 機が訪れた。依頼を受けて、ラヴェル夫人という六十代の未亡 人の肖像画を描くことになったのだ。肖像画は、彼女の子供た ちが、彼女の誕生日プレゼントとして依頼してきたものだ。 アトリエで、恰幅の良い銀髪の婦人と二人きりで向かい合い、 テランスは困惑していた。生きた人間をモデルに描くのは数年 ぶりだ。とっかかりがつかめない。静物画を描くのと同じよう に、目に映る物をそのままキャンバスに移し変えるだけでいい のだろうか。しかし、それはどうも違うような気がする。依 頼主である子供たちが望んでいるのはそんな絵ではないだろう 「あの。描き始める前に少しお話をしたいんですけど、 すか ? 」 いいで テランスは時間を稼ごうとしていた。「お話」といっても何 を話せばいいのか見当もつかないが。 「えーっと・・・・・・ラヴェルさん。その・・・・・・」 天啓は、不意に訪れた。 「一一 - あなたのいちばん大切な人についてのお話を聞かせてく れませんか ? 」 未亡人はいそいそと語り始めた。亡き夫の思い出話を。初め ての出会い、愛の告白、つき合い始めた頃の夢みたいに浮き立っ た日々のことを。 57
エピローグ ~ 1931 年・冬 ~ 61 は微笑みながら、しかしきつばりと、断り続けてきた。 「売ってほしい」という申し出も何度かあったが、テランス ランスの最高傑作だったからだ。 の生々しい情念が見る者にも伝わるこの絵は、まき、れもなくテ アスティの肖像画に目を留める者は少なくなかった。描き手 人間の数も増えている。 画商とのつき合いが増えるにつれて、アトリエに出入りする 「あったぞ。これだ」 撃を受けていた。 た。男たちの目的がその絵だと知って、全身が痺れるほどの衝 椅子に縛りつけられたテランスは呆然と成り行きを眺めてい 「うむ。この顔は・・・・・・間違いないな」 いた。 画を携えて戻ってきた。残りの二人の男は絵を確認し、うなず 室内で何かを探していたらしい一人の男が、アスティの肖像 ら引きずり出され、縛り上げられた。 熟睡していたテランスはろくな抵抗もできないままべッドか きた。 深夜。黒い覆面で顔を隠した三人の男たちが突然押し入って だった。 それは、アスティに会えなくなってから五回目の冬のこと
「まったくだ。ここまでのタクシー代と医者の往診料、今の仕 事の代金から差し引くからな」 「え。この部屋に医者を入れたのかい ? 」 「大丈夫だ。人に見られて困る物は全部隠しといたから」 「そう言えば・・・・・・表のドア、鍵がかかってたはずなんだけど ・・・中へはどうやって・・・・・・ ? 」 「あんなの鍵とは言わないよ。泥棒に入られないうちに、もっ とちゃんとした鍵につけ替えた方がいいぜ」 アスティは木製の腰掛けを、べッドに横たわるテランスの顔 が見える位置まで運んできて、どっかり腰を下ろした。 「もしかして今回の仕事、納期がきっ過き、た ? 」 気づかうような口調で尋ねられ、テランスの胸がうずいた。 「え・・・ ? どういうこと ? 」 「あんたが過労で体力が落ちてたから風邪をこじらせたんだろ うって、医者に言われたんだ。確かに今回は二作品同時の依頼 だったし、期間もそれほど長くなかったから、あんたに無理を させたのかな、って・・・・・・」 珍しく、神妙な様子だ。テランスはあわてて否定した。 「いや、違うんだ。納期はきつくないよ。今朝酔っ払って雪の 中でしばらく寝てたから、それで風邪をひいちゃったんじゃな いかな」 「酔っ払って雪の中で寝てた、だって・・・ ! ? 」 アスティの表情がとたんに険悪になった。 「何やってんだよ、あんた。プロの自覚なさ過き、だろ。依頼を 受けてる間は体調管理ぐらいしろよ。心配して損した」 「何ニャニヤしてる ? 熱で脳がやられたのか ? 」 44
自分がこれまでそのような安らき、の中で生きていたことを、 テランスは自覚していなかった。それを失ってしまうまでは。 街で警官の姿を見かけるたびに、息苦しいほど胸の鼓動が高 まる。 誰かが自分を見ていると、私服警官なのではないかという恐 怖を感じる。 厳重にアトリエに戸締りをしないと不安で眠れない。 警官隊が踏み込んでくる夢を見て、汗びっしよりになって目 を覚ます。 逮捕されたら、すべてを失ってしまう。今の生活も、いつか 画家として大成できるかもしれないという夢も。そして何年も 刑務所に幽閉されてしまう。 それは恐怖以外の何物でもなかった。 仲間と飲んで騒いでいても、「僕はもう、こいつらとは違う。 犯罪者なんだ」という思いがときおり胸をよき、り、暗い影を落 とす。 自分が贋作作家だとバレたら、仲間にどれほど軽蔑されるだ ろう。 そう思うと怖くて苦しくてたまらない。 テランスは、誰と一緒にいても、心を開いて打ち解けること ができなくなった。楽しんでいるふりをしているだけで、心の 中には常に不安と恐怖があった。もともと人づき合いに積極的 な方ではなかったが、いっそう人との距離を取るようになった。