まだ子供と言っていい年頃なのに、すでに犯罪の世界にどっ ぶり浸っているのは、それなりの事情があってのことだろう。 心安らぐ生活だとは到底思えない。 「本当に偶然だね。僕も大好きなんだ、この絵」 「俺は、別に、好きだから見てたわけじゃない。たまたま通り かかっただけさ」 きみが本音を言わないことには、もうとっくに慣れている。 「この絵は、空を飛ぶことへの憧れをかき立てるよね。きみ も・・・・・・翼が欲しいと思う ? どこか遠い所へ飛び去るための翼 が ? 」 アスティは無言で、よろよろと歩み寄るテランスを見上げた。 綺麗な大きい瞳に吸い込まれそうになる。 テランスは不意に、目の前の少年の華奢な体型を強く意識し た ( 普段は、チンピラらしいやさぐれた態度のせいで、それほ ど非力な印象は与えないのだ ) 。そして、手を伸ばせば容易に 触れられる、距離の近さも。 その瞬間、テランスの心と体の均衡が一気に崩れた。 己が何を欲しているのか自覚しないまま、彼は衝動に任せて、 アスティを抱きしめた。 女の体型とは似ても似つかないが、まだ男になりきっていな い柔らかい体が、すっぽりと彼の腕の中に収まった。 湧き上がる狂おしい感情のままに、彼は抱きしめた腕に力を 込めた。
ある程度の年配になると、昔話を乞われて嫌がる人はいない。 数十年前のエピソードでも、まるで昨日の出来事のように、生 き生きと詳しく話すものだ。 しかし夫人の話はテランスにとって、とりとめのない記憶の 寄せ集め以上のものだった。 好きな相手と少しずつ距離を縮めていく時の、胸のときめき。 知れば知るほど好きになっていく気持ち。 不安と歓喜の間をめまぐるしく揺れ動く心。 それはテランス自身が数か月前に知った感情の追体験だっ た。心の底から揺さぶられた。 かさぶたが取れて生傷が開くように、アスティと過ごした 日々の幸福を鮮明に思い出し、愛しさに泣き出したくなった。 その瞬間、テランスは夫人に深く共感していた。 テランスの描いた夫人の肖像画は、依頼主に非常に喜ばれた。 薄くなり始めた髪。いくつもの皺が刻まれ、シミの浮き出し た顔。たるんだ顎の下の皮膚。テランスの写実的すき、る筆は夫 人の老いを容赦なく写し取っていたが、絵全体が与える印象は 優しく好ましいものだった。 満ち足りた女性の内面がにじみ出してくるような。 「おまえ・・・・・・いつの間にこんな絵描くようになったんだ ? 『人 間嫌い』のテランスが・ 友人たちも、驚きと感心の入り混じった表情でその絵を眺め ていた。 58
ーもくじ 第 1 章 愛を知らない男・ 第 2 章 孤独に届く刃・ 指先 1 メートルの楽園・ 第 3 章 その感情の名は絶望 第 4 章 蜂蜜色の夜・・ 第 5 章 第 6 章 失われた面影・・ エピローグ ~ 1 931 年 ・ 1 4 ・・ 25 ・・ 32 ・・ 43 ・・ 5 1 ・・ 61
しておくのが習慣になっている。べッドサイドの読書灯は彼の 入眠を妨げるものではなかった。 すぐ近くにいるアスティの存在が気になって仕方ない。眠気 が訪れないのはそれが理由だった。 昼間、人目もはばからずに抱き寄せたのに、アスティが彼を 警戒している様子がないので、テランスは安堵を覚えると同時 に少しがっかりしていた。 きっと、熱でふらついて倒れかかっただけだと思われている。 今までと変わらない無防備な態度が、つらい。熱にうかされ ていたとは言え、こちらだってそれなりに覚悟を決めて手を伸 ばしたのに、それを何もなかったことにされてしまうのは。 なぜ抱きついたりしたのかと、なじられた方がよかった。そ うすれば「きみのことが好きだからだ」と答えることができた のに でも、その言葉を口にしたからといって、どうなるというの テランスの想いは、「その先」を望むべくもない不毛な感情 なのに。 か。 自分で思う以上に、発熱は彼の体力を奪っていたらしい。 いつの間にかテランスは深い眠りに入っていた。 再び目を覚ました時、辺りはまだ暗かった。 46
アパルトマンを出るとモンパルナス墓地の閭が広がってい た。話し込んでいるうちにすっかり夜が更けてしまったのだ。 街灯のほとんどないこの界隈は足元があやういほど暗い。 「遅くまで引きとめてごめんね。ドルべースさん、心配してる んじゃないかな」 テランスが本気で恐縮しているのに、アスティは鼻で笑った。 「そんなわけないだろ。俺、もう、子供じゃないぜ。・・・・・・じゃあな、 画伯。また来週」 真っ暗な舗道へ恐れげもなく踏み出していくアスティの後ろ 姿を、テランスはしばらく見送っていた。「もう子供ではない」 という本人の言葉を裏切るような、大人にはほど遠い華奢な体 の造り。絵画を好み、高級なお茶の味も知っているらしいのに いつばしの犯罪者を気取っている謎の少年。 部屋へ戻り、テープルを片付けながら、テランスは石でも飲 み込んだみたいな重苦しさが胸に居座っていることに気づい た。それは「寂しい」という感情だった。大声で泣きわめきた くなるような圧倒的な寂しさ。 テランスはそのとき初めて自覚した。自分のこれまでの生活 が、どれだけ孤独なものだったかを。 24
そうじゃない、とテランスは叫びたかった。 楽しかったのは、きみと話していたからだ。きみと話すなら、 どんな話題でも楽しいんだよ。 「きみは、どうなんだ、アスティ。翼が欲しいとは思わない の ? ここから飛び立ちたい・・・・・・そう思ってあの絵を眺めていた んじゃないのかい ? 」 「いくら願ったって、背中に翼なんか生えてこない。俺たちは 自分の足で歩いていくしかないんだよ。一歩ずつ。たとえ地上 がどんなに糞ったれな場所でも」 テランスはアスティの顔から視線をそらせなくなっていた。 あらゆる感情の動きをきれいに隠した、落ち着き払った表情。 それなのに、まるで泣いているみたいに感じられるのはなぜ だろう。 墓地に近いこの界隈は、ひたすら静かだ。屋外の物音など聞 こえた試しがない。彼らを残して文明が消滅していたとしても、 たぶん気づかない。 濃い閭に閉ざされた二人きりの空間。読書灯の淡い光が届く 範囲だけの小さな世界。 そして目の前にいるのは、プロの嘘つきを自称するきみ。己 の言葉や表情さえも自由自在に覆して、尻尾をつかませないよ うにかわし続ける。 それでも、そんなきみに今夜少しは近づけた、ような気がし ているのは、僕の勘違いなのだろうか 49
この偶然の出会いは、運命の引き合わせとしか思えない。 彼がいちばん絶望している時に、この広大な美術館で、世界 でいちばん会いたい人と偶然めぐり会えるとは。 ーーールーヴ丿レ美術館の、自分のいちばん好きな絵の前で偶然 出会えたら、それは運命の相手・・ アスティは女ではないが。《連命の相手》だと言われれば納 得できる。 会って話している時は、体全体が宙に浮かび上がりそうな高 揚感を覚える。 会えない時は、会っていた時間の記憶を心が追いかける。 寒くて暗い真夜中にふと目を覚まし、どうしてここにアス ティがいないんだろう、ずっと一緒に過ごせればいいのに、な どと考える。 生まれて初めて経験するこの激しい感情を《恋愛》と呼ぶの だとすれば。恋とはなんと甘美なものだろう。 会えない日の寂しさや切なささえ、甘さを伴って心を締めつ ける。 テランスは、過去のどの女性との交際においても、このよう な境地を知らなかった。 アスティをじっとみつめ、おぼっかない足を一歩前へ踏み出 先刻かいま見た寂しげな横顔が忘れられない。 アステイも、テランスと同じように、翼を求めているのだろ うか。苦痛と汚濁に満ちた地上を離れるための翼を。 す。 40
いない。気づけばテランスはルーヴル美術館のリシュリュー翼 をよろめく足取りで進んでいた。 元は宮殿であった壮麗な建物は、増築に増築を重たおかげ で今ではとてつもなく広大で、迷路のように複雑な構造を持っ ている。慣れない来場者にとって、目的の作品にたどり着くこ とは容易ではない。しかし画塾に入る前からこの美術館に通い つめているテランスは、一刻の時間も無駄にせず、まっすぐそ の絵に向かった。目隠しされていたってたどり着けただろう。 フレムト・ダンテの「飛翔」。 彼の《運命の絵》、愛してやまない美しい別世界は、いつも 通りの静謐さでそこに存在していた。 タ閭迫る空の複雑な色彩。 翼をはためかせて飛翔する男の歓喜の表情。 耳を打つ風の音さえ伝わってきそうな臨場感だ。 テランスはいつもと変わらぬ感動に満たされた。いや、絶望 の中だからこそ、その絵はいつも以上に崇高に輝いて見えた。 絵を見上げながら懸命に嗚咽をこらえた。人目がなければ泣き ながら床にくずおれたいぐらいだった。神々しい美の前にひれ 伏したかった。 そのとき、誰かがテランスのすぐ隣に立った。「飛翔」を見 上げているようだ。自分と同じ絵を好むのがどんな人かが気に なって、テランスはつい視線を隣へ投げかけた。 年恰好からして大学生、だろう。艶のある金髪と、簡素だが 清潔な感じの純白のシャツが、きちんとした印象を与える。こ ちらに向けられている横顔は、はっとするほど整っていて、睫 毛が長くて・・・ 38
第 4 章その感情の名は絶望 カフェ『ラ・ロトンド』の、いつものテープル、いつもの仲 間。テランスは杯を傾けながら語り、笑った。 外では大粒の雪が乱舞していた。まるで意地でも明朝までに 街を白く塗りつぶそうと決意したみたいに、無数の雪粒が絶え 間なく、容赦なく降り注いでいる。しかし人いきれに満たされ た室内では、戸外の厳しい寒さも、遠い別世界のように思われ ふと思いついたことがあって、テランスは隣の席の人物に声 をかけた。 「ねえ。紅茶に合う、お勧めのお茶菓子を知らないかな ? 今 度お客に出したいんだけど・・・・・・舌が肥えてる人だから、よっぽ ど上等なお菓子でないと喜んでもらえないと思うんだ。きみな ら、そういうの詳しいだろう、キキ ? 」 キキと呼ばれた二十代半ばの黒髪の女性は、大きな瞳を輝か せてテランスをみつめた。彼女はパリ随一の売れっ子モデルで、 自ら絵も描く。『ラ・ロトンド」の人気者だ。 「教えてあげてもいいけど、条件があるわ。・・・・・・あなたのその『舌 が肥えてる』彼女がどんな人なのか、ここでみんなに発表する こと。私たちの知ってる子じゃないのよね ? 」 テランスはぼかんと口を開けた。キキと、それまで続けてい た話を急に止めて興味津々の表情で彼をみつめている他の仲間 たちを、呆然と見返す。 「彼女って・・・・・・何のことだい ? 」 「やつばり、そういうことか。きっと女だと思ってたんだよなー。 最近のおまえ、やけに機嫌が良いから」 32
仲間たちはいっそう大声で笑い転げた。どの顔も、アルコー ルでてらてらと赤く光っている。 「おまえさ。そんなだと、一生童貞のままで終わるぞ、きっと」 「おまえも少しは生身の人間に興味を持てよ。芸術家に恋は つきものだぞ ? 狂おしい情念、不条理な愛着・・・・・・感情的な嵐を 何度もくぐり抜けてこそ、人の魂を揺さぶる作品が生み出せる んだ」 「フレムト・ダンテだって晩年は、五十歳も年の離れた少女を 愛人にしてたっていうじゃないか。性愛は創作には欠かせない エネルギーだ。ぽんやリ風景画ばかり描いてる場合じゃないぜ、 テランス」 「風景画ばかり描くことの、どこが悪いんだ。それから、僕は 童貞じゃないっ」 テランスは勢いよく立ち上がり、叫んだ。その拍子にぐらり と体が揺れ、仰向けに倒れそうになったので、あわてて椅子の 背につかまった。自覚している以上に酔いが回っているらしい。 童貞でないのは、事実だ。 しかし、生身の人間に興味を持てないのも、事実だった。 仲間と思う存分飲んで騒いだ夜の後は、一人の時間がいっそ う耐えがたいものに感じられる。酔いで感覚が鈍っていなけれ ば、閭と静寂のあまりの重さに打ちのめされていたことだろう。 テランスがふらっく足取りで住居兼アトリエに帰り着いたと き、時刻は午前二時を回っていた。モンパルナス墓地の南側に 建っ白塗りのアパルトマンだ。 灯りをつけると見慣れた光景が目に飛び込んできた。 粗末なべッド。昨年パリを引き上げて郷里へ帰った友人から 6