抱きしめ - みる会図書館


検索対象: 僕たちの背に翼はない
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1. 僕たちの背に翼はない

まだ子供と言っていい年頃なのに、すでに犯罪の世界にどっ ぶり浸っているのは、それなりの事情があってのことだろう。 心安らぐ生活だとは到底思えない。 「本当に偶然だね。僕も大好きなんだ、この絵」 「俺は、別に、好きだから見てたわけじゃない。たまたま通り かかっただけさ」 きみが本音を言わないことには、もうとっくに慣れている。 「この絵は、空を飛ぶことへの憧れをかき立てるよね。きみ も・・・・・・翼が欲しいと思う ? どこか遠い所へ飛び去るための翼 が ? 」 アスティは無言で、よろよろと歩み寄るテランスを見上げた。 綺麗な大きい瞳に吸い込まれそうになる。 テランスは不意に、目の前の少年の華奢な体型を強く意識し た ( 普段は、チンピラらしいやさぐれた態度のせいで、それほ ど非力な印象は与えないのだ ) 。そして、手を伸ばせば容易に 触れられる、距離の近さも。 その瞬間、テランスの心と体の均衡が一気に崩れた。 己が何を欲しているのか自覚しないまま、彼は衝動に任せて、 アスティを抱きしめた。 女の体型とは似ても似つかないが、まだ男になりきっていな い柔らかい体が、すっぽりと彼の腕の中に収まった。 湧き上がる狂おしい感情のままに、彼は抱きしめた腕に力を 込めた。

2. 僕たちの背に翼はない

思い出す。 今のテランスを見たら、アスティはどんな言葉をくれるだろ 空を見上げるのを止め、着実に地面を歩き始めたテランスを 平価してくれるだろうか。 それとも、詐欺師の約束を真に受けて、それを心のよりどこ ろに生きている彼のことを嗤うだろうか。 つ。 一三ロ あんたが有名な画家になったら、顔を見に来るよ。 その約束を何より大切に抱きしめているのだ、月日が流れた 今でも。 60

3. 僕たちの背に翼はない

第 5 章 蜂蜜色の夜 うめきながら意識を取り戻すと、自分の部屋のべッドに横た で寝ていることを不思議にも思わなかった。 それはあまりに見慣れた風景だったから、彼は、自分がこ 漆喰塗りの天井。空気を満たす絵具の匂い。 わっていた。 43 頭痛に顔をしかめながら、テランスはしやがれた声を絞り出 かけたね」 「きみがここまで運んでくれたのかい ? ・・ ごめん・・・・・・迷惑 無理に動かそうとすると割れるような痛みが脳天に走った。 だが体が動かない。頭が重すき、て持ち上げられそうにない。 パニックに襲われ、べッドに起き上がろうとした。 意識を失う直前、思わずアスティを抱きしめてしまったこと。 ルーヴル美術館で高熱のため立ったまま意識を失ったこと。 その瞬間、ようやくテランスはすべてを思い出した。 てきた。 読書灯の作る蜂蜜色の光の円錐の中へ、アスティが歩み入っ 「気がついたか。気分はどう ? 」 が跳ね上がった。 ンスが考えていると、突然すぐ近くから声が響き、驚愕で心臓 僕はどうしてこんな夜中に目が覚めたんだろう、などとテラ ーの明かりだ。 辺りは暗い。もう夜なのだろう。べッドサイドの読害灯が唯

4. 僕たちの背に翼はない

急速に温度か奪われていく。居心地の良い小世界が外気に侵 食される。 テランスは寒さから身を守るように自分の体を抱きしめた。 周りの画家仲間が歓声をあげる中、とっさに彼の頭に浮かんだ のは、 『押さえつけなければ』 という言葉だった。 押さえつけるって一一一何を ? 自分でもよく理解できないまま、テランスは内なる声の指示 に従い、仲間と一緒に歓声をあげて手を叩いた。 「すごいな、ルネの奴。王立美術協会かよ」 「まあ、最近のあいつの作品は神がかってたからな」 「むしろ認められるのが遅すき、たぐらいじゃないか ? 」 パリ国立美術協会から賞を受けるということは「売れる」画 家への第一歩だ。受賞歴があれば個展も開けるし、画商からも 契約の声がかかる。絵の依頼も増える。前途洋洋だ。 「祝賀会をやろうぜ。ルネの奢りで」 「それ、おかしくないか。普通はお祝いに奢ってやるものだろ う ? 」 「だけど一番幸せなのはあいつなんだから、あいつがみんなに 幸せをおすそ分けすべきだ」 古くからの友人が日の当たる場所へ出ることは、我が事のよ うに喜ばしい。 「先を越された」という悔しさがまったくないと言えば嘘に 35