エピローグ ~ 1931 年・冬 ~ 61 は微笑みながら、しかしきつばりと、断り続けてきた。 「売ってほしい」という申し出も何度かあったが、テランス ランスの最高傑作だったからだ。 の生々しい情念が見る者にも伝わるこの絵は、まき、れもなくテ アスティの肖像画に目を留める者は少なくなかった。描き手 人間の数も増えている。 画商とのつき合いが増えるにつれて、アトリエに出入りする 「あったぞ。これだ」 撃を受けていた。 た。男たちの目的がその絵だと知って、全身が痺れるほどの衝 椅子に縛りつけられたテランスは呆然と成り行きを眺めてい 「うむ。この顔は・・・・・・間違いないな」 いた。 画を携えて戻ってきた。残りの二人の男は絵を確認し、うなず 室内で何かを探していたらしい一人の男が、アスティの肖像 ら引きずり出され、縛り上げられた。 熟睡していたテランスはろくな抵抗もできないままべッドか きた。 深夜。黒い覆面で顔を隠した三人の男たちが突然押し入って だった。 それは、アスティに会えなくなってから五回目の冬のこと
時間ができた時。逆に、仕事に煮つまった時。テランスはメ トロを乗り継いでルーヴル美術館へ足を運ぶ。彼にとっての《運 命の絵》に会うために フレムト・ダンテの「飛翔」。 この P60 号の絵は、ダンテの代表作でもなければ人気作で もない。しかし一目見た瞬間からテランスの心をわし掴みにし て離さなかった絵だ。 絵の中心に描かれているのは初老の男だ。顔立ちも服装もく たびれている。見たところ農夫か工員といったところだ。黒っ ぽい服を着たその背中に、巨大な純白の翼が生えている。 男は空へ向かって飛翔する。上へ上へと。 はるかな眼下に、建物が寄り添って立つ集落が見える。その 小ささが、男の到達した高みをいっそう際立てている。 夕暮れ時なのだろう。地上の建物から東へ長く伸びる影も、 細かく描き込まれている。 なんという、巧みな構図。はるかな空の高みから地上にまで 至る広大な空間が表現されている。絵画が二次元であることを 忘れさせてしまうような奥行き感だ。 そして、男の背中に生えた翼の、透明感のある美しさ。羽毛 の一本一本までか確かな質感をもって描き出されている。輝か んばかりに白く、清らかな羽。天使の翼というのはきっとこう いうものだろう。 しかし、何よりも圧倒的なのは、男の表情だ。 翼を手に入れたことへの戸惑い。高さに対する恐怖。それら が、飛ぶことの喜びに取って代わられつつある様子が、まるで その場に居合わせたかのように生き生きと伝わってくる。 歓喜、興奮、陶酔。 1 2
アスティの今の居所をテランスが知らないのは本当のこと だったが、相手は「知らない」という答えを額面通り受け取っ てくれる人種ではなかった。 男たちは手慣れたやり口でテランスを痛めつけた。 苦痛と恐怖に錯乱し、彼はむせび泣きながら知っていること をすべて喋った。 とは言っても、大した内容ではない。五年前に仕事を依頼さ れ、その関係で何度か会ったこと。当時アスティがポール・ド ルべースという詐欺師と一緒にいたこと。突然音信不通になり、 それ以来会っていないこと。それぐらいしか話せる事はなかっ 五年前の当時、アスティたちがパリ市内のどこに住んでいた かさえ、テランスは知らなかったのだ。 男たちは、画家であるテランスに最大のダメージを与えるた め、絵筆を持つ彼の利き手を集中的に痛めつけた。 もうこれ以上彼から引き出せる情報はないと男たちが納得 し、引き上げた頃には、彼の右手は完全に破壊されていた。 手首から先は血まみれの肉塊と化し、五指はほとんど原形を とどめていなかった。 冷たい床で、自分の血でできた血溜まりの中に震えながら横 たわっていた。肉体的にも精神的にも打ちのめされ、しばらく 体を動かす気力も湧いてこなかった。傷の痛みは気が狂うほど 激しかった。 男たちが完全に立ち去り、二度と戻って来ないと確信が持て 63
地上のしがらみを離れ、自由に空を舞うことの幸福感。 夜の闇に半は飲み込まれつつある地上の様子が、男が後に残 してきたものの重さを象徴しているかのようだ。 日に焼けた男の顔に刻み込まれた、おずおずとした、だが強 烈な陶酔の表情を見るたびに、テランスの心はかきむしられる。 この絵が象徴しているのは絶対的な解放だ。 所へ飛んで行きたい。 背中の翼で空気を打ち、力強くはばたいて、見知らぬ遠い場 吸い上げられたい。 ままならない地上の世界をすべて捨て去り、広大な空の中へ 自分も飛びたい、この男のように。 13 こ。ここから飛び去るための翼が欲しいと。 だからテランスは、自分の《運命の絵》を眺めながら願うの るのに、抜け出す道がみつからない。 本当にやりたいことからどんどん遠ざかっているとわかってい 後ろめたさと不安に苛まれる日々は、もうたくさんだ。自分が このままではいけない、と思う。今の生活から抜け出したい。 を淡々と生産するだけの毎日。 送っている。贋作職人だ。金をもらって、魂のこもらない絵画 ところが今のテランスは芸術家というより職人に近い生活を に、贋作の制作に手を染めたはずだった。 い。そう願って画家を志したはずだった。その夢を支えるため 自分もいつか、人の心に楔のように打ち込まれる絵を描きた
これまでこのアトリエに立ち入った人間の誰かが、この襲撃 者たちと関連があるということだろうか・・ しようとしたのは、こういう事態を見越してのことだったのか。 五年前、ドルべースが乱暴な手段を使ってまで肖像画を回収 をこの連中に与えることになってしまう。 テランスが描いた肖像画が、アスティの所在を示す手がかり 追っている。 あからさまな殺意をみなき、らせたこの男たちはアスティを 「し・・・・・・知らない。最近会っていないんだ」 その質問にテランスは震えあがった。 「おまえの描いたこの絵の子供だが。今はどこにいる ? 」 福な紳士たちがときどき漂わせている香りだ。 いるが、高級プランドの男性用コロンだ。顧客として接する裕 テランスはかすかな甘い香りを嗅き、取った。だいぶ薄れては てきた。 三人のうちいちばん背の高い痩せた男が、テランスに近づい 『・・・・あなたとアスティとの間に接点があったという証拠を 『・・・・俺たちみたいな悪党と関わると、いろいろ危険も多い 62 くる。 当時は気にもとめなかった言葉の断片が、まざまざと蘇って 残すのは危険なんです・・・・・・』
そんなものがなくても心は完全に満たされていたからだ。 良いお茶菓子を出したときのアスティの反応が見てみたい。 喜んでくれたりすれば、こちらも嬉しい。高級なお菓子を食 べ慣れている風かどうか、その反応から読み取ろうと努めるの も楽しみのひとつだ。 楽園は彼のアトリエの中にあるのだ。あの狭い部屋に、すべ ての幸福な記憶か凝縮しているのだ。 そのとき、店の扉が開き、テランスたちの仲間の一人が入っ て来た。短く刈り込んだ赤毛にきらきら光る雪片を貼りつけ、 コートの周りに冷たい外気をまとわりつかせたその男は、ごっ た返す店内を大股で抜けて、まっすぐテランスたちのテープル へ近づいてきた。 「おー、やっと来たか、マイヨール」「遅かったじゃないか」 酔っ払いたちの適当な挨拶にうなずきながら、男は、仲間の 一人が外套をのけて空けた席に身を押し込めた。 「もう聞いたか、ルネのこと ? 」 ギャルソンにいつものオニオングラタンスープを注文してか ら、マイヨールは興奮した口調でしゃべり始めた。 ちょうどその時テランスは、キキの語るお菓子屋情報に一心 に耳を傾けているところだった。 「ルネの奴、パリ国立美術協会の特別賞を獲ったらしいぞ」 マイヨールの声が届いた瞬間、テランスは身も心も凍りつい たように感じた。 それはまるで、心地よく暖められた部屋の中に、突然ひやり とした夜風が吹き込んできたかのような感覚だった。 34
第 1 章愛を知らない男 「『運命の女』ってやつに、会ってみたいと思わないか ? 」 友人の一人が発したその言葉を聞いたとき、テランス・ソワ イエはすでにかなりできあがっていて、酔っ払い特有のやけに 坐った目線を、テープルの上のワインのグラスに据えていると ころだった。 メトロのヴァヴァン駅の正面に位置するカフェ『ラ・ロトン ド』は、画家、小説家、劇作家などの芸術家が好んでたむろす る店だ。密度の濃い空間には紫煙と喧騒が充満している。狭い 間隔で並んだテープ丿レはほぼ満席で、大勢の客が同時にしゃべ り、睡を飛ばし、哄笑しているので店内は割れんばかりの騒々 しさだ。 テランスは、テープ丿レを囲んで座る男たちの顔を、ぼんやり と見回した。 画塾アカデミー時代からの友人。カフェで知り合った友人。 集合アトリエ『ラ・リュッシュ ( 蜂の巣 ) 』にいた頃一緒だっ た友人。それらの友人の友人など、知り合った経緯も時期もま ちまちな連中だが、今のところ「売れない貧乏画家」である、 という点で共通している。 いつもこのカフェのこのテープルで集まってバカ話をする、 気のおけない仲間たち。 ・・・ルーヴル美術館の、自分のいちばん好き 「運命の女、ね。 な絵の前で、知り合いの女の子に偶然出会えたら、それは運命 の相手だっていうやっか。何年か前に流行ったよな、そういう ジンクス」 テランスは呂律のまわらない舌を苦労して動かしながら言っ 4
ーもくじ 第 1 章 愛を知らない男・ 第 2 章 孤独に届く刃・ 指先 1 メートルの楽園・ 第 3 章 その感情の名は絶望 第 4 章 蜂蜜色の夜・・ 第 5 章 第 6 章 失われた面影・・ エピローグ ~ 1 931 年 ・ 1 4 ・・ 25 ・・ 32 ・・ 43 ・・ 5 1 ・・ 61
ことを、悪いとも何とも感じていないようだ。 そして何よりも彼の神経を逆撫でしたのは、アスティのこと あいつは俺のものだ、と高らかに宣言するかのような。 なら何でもわかっていると言いたげなドルべースの自信たつぶ 何も知らないくせに りな物言いだった。 55 「この絵は僕のものです。絶対に手放すつもりはありません。 とってね。どうか買い取らせてください。お願いします」 があったという証拠を残すのは危険なんです。むしろあなたに 「脅すわけではありませんが、あなたとアスティとの間に接点 「これは売り物じゃありません」 テランスは反射的に答えていた。 スの顔をのぞき込んでいた。 気がつくとドルべースが、如才のない営業用の微笑でテラン 画伯。いくらでも構いませんから」 「この肖像画は私が買います。代金をおっしやってください、 のに ら、強気な少年もときどき「翼が欲しい」と願っているという 師匠と称するこの男の傍らで日々危険な仕事に携わりなが いくら願っても あの言葉も。 に満ちた横顔も。「いくら願っても翼なんか生えない」という、 ダンテの『飛翔』を食い入るようにみつめていた、あの憂い
まだ子供と言っていい年頃なのに、すでに犯罪の世界にどっ ぶり浸っているのは、それなりの事情があってのことだろう。 心安らぐ生活だとは到底思えない。 「本当に偶然だね。僕も大好きなんだ、この絵」 「俺は、別に、好きだから見てたわけじゃない。たまたま通り かかっただけさ」 きみが本音を言わないことには、もうとっくに慣れている。 「この絵は、空を飛ぶことへの憧れをかき立てるよね。きみ も・・・・・・翼が欲しいと思う ? どこか遠い所へ飛び去るための翼 が ? 」 アスティは無言で、よろよろと歩み寄るテランスを見上げた。 綺麗な大きい瞳に吸い込まれそうになる。 テランスは不意に、目の前の少年の華奢な体型を強く意識し た ( 普段は、チンピラらしいやさぐれた態度のせいで、それほ ど非力な印象は与えないのだ ) 。そして、手を伸ばせば容易に 触れられる、距離の近さも。 その瞬間、テランスの心と体の均衡が一気に崩れた。 己が何を欲しているのか自覚しないまま、彼は衝動に任せて、 アスティを抱きしめた。 女の体型とは似ても似つかないが、まだ男になりきっていな い柔らかい体が、すっぽりと彼の腕の中に収まった。 湧き上がる狂おしい感情のままに、彼は抱きしめた腕に力を 込めた。