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検索対象: 僕たちの背に翼はない
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1. 僕たちの背に翼はない

けれどもテランスが一歩でも突っ込んだ話をしようとする う力、 ? きみのことをもっと知りたいと願うのは、いけないことだろ なる点が増えてくる。 一緒に過ごす時間が長くなればなるほど、不思議な点や気に と、ひらりとかわされてしまう。 28 「犯罪者は、働くのが嫌いな負け犬がなるものだと思ってる をたてた。アスティはそんな彼に向かって人差し指を突き出し、 『勉強』という言葉がおかしくて、テランスは思わず笑い声 だって、そんなに深く究めてるわけじゃない」 ・・・表面だけざっとかじっておけばいいんだよ。どうせ相手 を合わせられるように勉強してる。 あるふりぐらいできないとまずいだろ。だから金持ち連中と話 とが多いんだ。員族の子弟にだって化けることがある。教養の け手の内明かすけど。俺は仕事で、金持ちの子供の役をやるこ 「まあ、あんたにはいつもご馳走になってるから、ちょっとだ ンス自身にもよくわからない。 その目でみつめられるとなぜこんなにも胸が泡立つのか、テラ 何を考えているか読めない謎めいた瞳がテランスを見返す。 ながら、「うん。訊いちゃいけないな」とあっさり答えた。 テープルの向こうの少年は優雅な動作でカップを口元に運び テランスは思いきって尋ねてみたことがある。 曲』を読んだことがあるって、普通じゃないよね ? 」 庭教師でもつけてもらえるような。きみの年齢でダンテの『神 きみは本当は、かなり良い家の子じゃないの ? 小さい頃から家 「え。こんな事を訊いちゃいけないのかもしれないけど。

2. 僕たちの背に翼はない

こみいった夢を見ていた気がする。 テランスは夢の世界に心を半ば残したまま目覚めた。ぽんや りとした不安感に包まれていたが、すぐに夢の内容を忘れ、続 いて不安感も忘れた。 夜は長かった。体調が悪い時にありがちな、決して明けない ような気がする夜だった。 アスティがべッドの傍らで、テランスの蔵書である美学の本 を読んでいた。 ローティーンが読むようなレベルの本ではないはずだが、ア スティは本に熱中していて、テランスの覚醒にも気づいていな いようだ。 暗閭を背景にして、読害灯の光を真正面から受けている。 肌の白さが、まばゆいばかりだ。 「うれしかったんだ。ダンテの『飛翔』。僕の大好きな絵を、き みも好きだと知って」 何か伝えたい事があるからというより。こちらを見てほしい、 声を聞きたい、というやむない欲求に駆られて、テランスは言 葉を発していた。 少年は本から顔を上げてテランスを見た。その瞳が光を受け 止めてきらりと輝いた。 「絵なんか好きじゃない」といういつもの否定、本気で信じ させるつもりもないような挨拶代わりの嘘が返ってくることを テランスは予期したが、アスティの返事は思いもかけないもの だった。 「あの絵、翼の描き方が良いよな。羽ばたいている感じがうま く出てて」 47

3. 僕たちの背に翼はない

を見据えている。ー語一句聞き漏らさない、という態度だ。 「それに、十七世紀に実際にオランダで使われていたのと同じ 絵具や溶剤、絵筆を、僕が自分で手作りした。いろいろ本を調 べて作ったからね。完璧だと思うよ。 ・・・フェルメールの時代 のキャンパスに、フェルメールが使っていたのと同じ絵筆と絵 具で描いてるんだから、専門家にも見破れっこない」 「アルコールを浸した綿で絵の表面をなぞったら、新しい絵具 は色か落ちるだろ。それで最近描いた絵だってバレるんじゃな いの ? 」 年端もゆかない子供が、プロの真贋判定方法を知っていたこ とに、テランスはびつくりした。次の瞬間、ひとりでに、自分 の頬が笑みに崩れるのを感じた。知識のある相手、本当に「理 解してくれる」相手に自分の工夫を披露できる喜びに、胸が躍っ 「だから、それをごまかすために、絵の表面にフェノール樹脂 を塗って加熱するんだ。友達の勤めてるパン屋のオープンを夜 ・・・そうすればアルコール 中にこっそり使わせてもらってる。 でこすっても絵具は落ちない」 「な・る・ほ・ど。さすがは画伯だな ! 」 テランスが企業秘密を打ち明けたお返しに、アスティはカー ドゲームでの初歩的なイカサマの方法を教えてくれた。 テランスは生まれてこのかた金を賭けてカードをしたことな ど一度もないし、今後もやらないだろうと思ったが一一一幼い少 年が、とてつもなく鮮やかな手つきでカードを自在に操ってい る有様は、興味深い見物 ( みもの ) ではあった。 23

4. 僕たちの背に翼はない

だから、僕がきみを手に入れる方法は、一つしかないんだ。 彼を突き動かした狂気にも似た熱情がようやく落ち着き、ひ ざしていた。 れ落ちた羽くずのような雪が無数に宙に舞い、世界を無音に閉 縦長の大きな窓の外では、灰色の空の下、天使の翼からこぼ まずに描き続けた。完全に没我の境地だった。 寝食を忘れて昼も夜もキャンバスの前に立った。三日三晩休 テランスは憑とりつかれたように絵筆をふるい始めた。 パリをその冬三回目の寒波が覆い尽くした日。 ンバスの中からこちらをみつめていた。 テランス特有の写実的なタッチで描き出された少年が、キャ 一個の作品が完成していた。 F20 号の胸像画。 と息つくだけの余裕が戻ってきた時。 52 憔悴しきったテランスはべッドに倒れ込み、数時間ぶっ通し 実在するかのような確かな質感で描き出していた。 頬を伝う涙の透明な輝きを、テランスの筆は、まるでそこに るかのように、唇はうっすらと開かれている。 その顔は深い哀しみに曇っている。何かを訴えかけようとす ち。複雑な陰影を帯びた金髪の輝き。 プルシアンプ丿レーの澄んだ瞳。なめらかな肌。員族的な顔立

5. 僕たちの背に翼はない

ある程度の年配になると、昔話を乞われて嫌がる人はいない。 数十年前のエピソードでも、まるで昨日の出来事のように、生 き生きと詳しく話すものだ。 しかし夫人の話はテランスにとって、とりとめのない記憶の 寄せ集め以上のものだった。 好きな相手と少しずつ距離を縮めていく時の、胸のときめき。 知れば知るほど好きになっていく気持ち。 不安と歓喜の間をめまぐるしく揺れ動く心。 それはテランス自身が数か月前に知った感情の追体験だっ た。心の底から揺さぶられた。 かさぶたが取れて生傷が開くように、アスティと過ごした 日々の幸福を鮮明に思い出し、愛しさに泣き出したくなった。 その瞬間、テランスは夫人に深く共感していた。 テランスの描いた夫人の肖像画は、依頼主に非常に喜ばれた。 薄くなり始めた髪。いくつもの皺が刻まれ、シミの浮き出し た顔。たるんだ顎の下の皮膚。テランスの写実的すき、る筆は夫 人の老いを容赦なく写し取っていたが、絵全体が与える印象は 優しく好ましいものだった。 満ち足りた女性の内面がにじみ出してくるような。 「おまえ・・・・・・いつの間にこんな絵描くようになったんだ ? 『人 間嫌い』のテランスが・ 友人たちも、驚きと感心の入り混じった表情でその絵を眺め ていた。 58

6. 僕たちの背に翼はない

第 4 章その感情の名は絶望 カフェ『ラ・ロトンド』の、いつものテープル、いつもの仲 間。テランスは杯を傾けながら語り、笑った。 外では大粒の雪が乱舞していた。まるで意地でも明朝までに 街を白く塗りつぶそうと決意したみたいに、無数の雪粒が絶え 間なく、容赦なく降り注いでいる。しかし人いきれに満たされ た室内では、戸外の厳しい寒さも、遠い別世界のように思われ ふと思いついたことがあって、テランスは隣の席の人物に声 をかけた。 「ねえ。紅茶に合う、お勧めのお茶菓子を知らないかな ? 今 度お客に出したいんだけど・・・・・・舌が肥えてる人だから、よっぽ ど上等なお菓子でないと喜んでもらえないと思うんだ。きみな ら、そういうの詳しいだろう、キキ ? 」 キキと呼ばれた二十代半ばの黒髪の女性は、大きな瞳を輝か せてテランスをみつめた。彼女はパリ随一の売れっ子モデルで、 自ら絵も描く。『ラ・ロトンド」の人気者だ。 「教えてあげてもいいけど、条件があるわ。・・・・・・あなたのその『舌 が肥えてる』彼女がどんな人なのか、ここでみんなに発表する こと。私たちの知ってる子じゃないのよね ? 」 テランスはぼかんと口を開けた。キキと、それまで続けてい た話を急に止めて興味津々の表情で彼をみつめている他の仲間 たちを、呆然と見返す。 「彼女って・・・・・・何のことだい ? 」 「やつばり、そういうことか。きっと女だと思ってたんだよなー。 最近のおまえ、やけに機嫌が良いから」 32

7. 僕たちの背に翼はない

これまでこのアトリエに立ち入った人間の誰かが、この襲撃 者たちと関連があるということだろうか・・ しようとしたのは、こういう事態を見越してのことだったのか。 五年前、ドルべースが乱暴な手段を使ってまで肖像画を回収 をこの連中に与えることになってしまう。 テランスが描いた肖像画が、アスティの所在を示す手がかり 追っている。 あからさまな殺意をみなき、らせたこの男たちはアスティを 「し・・・・・・知らない。最近会っていないんだ」 その質問にテランスは震えあがった。 「おまえの描いたこの絵の子供だが。今はどこにいる ? 」 福な紳士たちがときどき漂わせている香りだ。 いるが、高級プランドの男性用コロンだ。顧客として接する裕 テランスはかすかな甘い香りを嗅き、取った。だいぶ薄れては てきた。 三人のうちいちばん背の高い痩せた男が、テランスに近づい 『・・・・あなたとアスティとの間に接点があったという証拠を 『・・・・俺たちみたいな悪党と関わると、いろいろ危険も多い 62 くる。 当時は気にもとめなかった言葉の断片が、まざまざと蘇って 残すのは危険なんです・・・・・・』

8. 僕たちの背に翼はない

ことを、悪いとも何とも感じていないようだ。 そして何よりも彼の神経を逆撫でしたのは、アスティのこと あいつは俺のものだ、と高らかに宣言するかのような。 なら何でもわかっていると言いたげなドルべースの自信たつぶ 何も知らないくせに りな物言いだった。 55 「この絵は僕のものです。絶対に手放すつもりはありません。 とってね。どうか買い取らせてください。お願いします」 があったという証拠を残すのは危険なんです。むしろあなたに 「脅すわけではありませんが、あなたとアスティとの間に接点 「これは売り物じゃありません」 テランスは反射的に答えていた。 スの顔をのぞき込んでいた。 気がつくとドルべースが、如才のない営業用の微笑でテラン 画伯。いくらでも構いませんから」 「この肖像画は私が買います。代金をおっしやってください、 のに ら、強気な少年もときどき「翼が欲しい」と願っているという 師匠と称するこの男の傍らで日々危険な仕事に携わりなが いくら願っても あの言葉も。 に満ちた横顔も。「いくら願っても翼なんか生えない」という、 ダンテの『飛翔』を食い入るようにみつめていた、あの憂い

9. 僕たちの背に翼はない

この偶然の出会いは、運命の引き合わせとしか思えない。 彼がいちばん絶望している時に、この広大な美術館で、世界 でいちばん会いたい人と偶然めぐり会えるとは。 ーーールーヴ丿レ美術館の、自分のいちばん好きな絵の前で偶然 出会えたら、それは運命の相手・・ アスティは女ではないが。《連命の相手》だと言われれば納 得できる。 会って話している時は、体全体が宙に浮かび上がりそうな高 揚感を覚える。 会えない時は、会っていた時間の記憶を心が追いかける。 寒くて暗い真夜中にふと目を覚まし、どうしてここにアス ティがいないんだろう、ずっと一緒に過ごせればいいのに、な どと考える。 生まれて初めて経験するこの激しい感情を《恋愛》と呼ぶの だとすれば。恋とはなんと甘美なものだろう。 会えない日の寂しさや切なささえ、甘さを伴って心を締めつ ける。 テランスは、過去のどの女性との交際においても、このよう な境地を知らなかった。 アスティをじっとみつめ、おぼっかない足を一歩前へ踏み出 先刻かいま見た寂しげな横顔が忘れられない。 アステイも、テランスと同じように、翼を求めているのだろ うか。苦痛と汚濁に満ちた地上を離れるための翼を。 す。 40

10. 僕たちの背に翼はない

まだ子供と言っていい年頃なのに、すでに犯罪の世界にどっ ぶり浸っているのは、それなりの事情があってのことだろう。 心安らぐ生活だとは到底思えない。 「本当に偶然だね。僕も大好きなんだ、この絵」 「俺は、別に、好きだから見てたわけじゃない。たまたま通り かかっただけさ」 きみが本音を言わないことには、もうとっくに慣れている。 「この絵は、空を飛ぶことへの憧れをかき立てるよね。きみ も・・・・・・翼が欲しいと思う ? どこか遠い所へ飛び去るための翼 が ? 」 アスティは無言で、よろよろと歩み寄るテランスを見上げた。 綺麗な大きい瞳に吸い込まれそうになる。 テランスは不意に、目の前の少年の華奢な体型を強く意識し た ( 普段は、チンピラらしいやさぐれた態度のせいで、それほ ど非力な印象は与えないのだ ) 。そして、手を伸ばせば容易に 触れられる、距離の近さも。 その瞬間、テランスの心と体の均衡が一気に崩れた。 己が何を欲しているのか自覚しないまま、彼は衝動に任せて、 アスティを抱きしめた。 女の体型とは似ても似つかないが、まだ男になりきっていな い柔らかい体が、すっぽりと彼の腕の中に収まった。 湧き上がる狂おしい感情のままに、彼は抱きしめた腕に力を 込めた。