絵 - みる会図書館


検索対象: 僕たちの背に翼はない
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1. 僕たちの背に翼はない

しかし、友人は大きく手を振ってテランスの言葉を否定した。 「違うって ! そんなお綺麗な話じゃなくてさ。その女のため ならすべてを失ってもいいーーー破滅しても後悔しない。それぐ らい激しくのめり込めるような、いい女に会ってみたいもん だ、って話だよ」 「ナナみたいな」 別の友人がすかさず補足した。 ナナというのはきっと、先日公開されたばかりの映画『女優 ナナ』のことを言っているのだ。大勢の男を狂わせ、翻弄し、 破滅に追い込む高級娼婦ナナ。あの印象派の巨匠ルノワールの 息子が監督し、ルノワールの妻だったカトリーヌ・エスランが 主演を務めた点でも話題になっている。 「『運命の女』は知らないけど。『運命の絵』になら、もう出会っ てるよ。僕の人生を変えた、すごい絵にね」 テランスは力をこめて叫んだ。 「フレムト・ダンテの「飛翔』。これを超える絵を、僕はいまだ かって見たことがない。十年以上前に初めて出会って以来・・ 僕は覚めない恋をしているんだ、あの絵に。画家になろうと決 心したのも、あの絵を見てからさ」 「さ・す・が、「絵バカ」のテランス。女よりも絵かよ」 仲間たちは無遠慮に爆笑した。 「当然だろう ? 僕たち絵描きにとって、絵以上に重要なもの があるっていうのか ! ? 」 テランスは心外だという表情を作って、胸を張った。 大きな声を出してみせたが、実際はそれほど興奮しているわ けではない。「絵バカ」と呼ばれるのは嫌いではないのだ。む しろ褒め言葉だと思っている。 5

2. 僕たちの背に翼はない

し取る技術に長けていた。勉強のためルーヴル美術館でレンプ ラントを模写していた時、見知らぬ男に「その絵を売ってほし い」と頼まれたのだ。 9 かりになっていた。主に詐欺師たちだ。真作でない絵を真作と ところがいつの間にか、彼に複製画を依頼するのは犯罪者ば して悦に入っていた。罪がないと言えば、罪がない。 かせた複製画を、本物と偽って自宅に飾り、知人に見せびらか う見栄っぱりな金持ちが依頼主だった。彼らは、テランスに描 初めは、員重な名画を所有しているように見せかけたいとい テランスにもよくわからない。 依頼主の人種が変わり始めたのは一体いつのことだったか。 て売るようになった。 それからもテランスは、依頼があれば、名画の複製画を描い 腹はかえられない。 自分の絵よりも模写の方か高く売れたのは屈辱だったが、背に けれどもアパルトマンの家賃をすでに三か月滞納していた。 テランスにもそのことはわかっていた。 術家のやることではない。芸術家なら己の芸術を追求すべきだ。 金のために、他人の作品をまて描いた絵を売るなんて、芸 はるかに高い金額だったのだ。 これまで自分の「オリジナルの」絵につけられた値段より、 テランスは金を受け取って困惑した。 ばえだった。 鑑定眼のある人間でなければ本物と見分けられないほどの出来 テランスの模写は単なる模写のレベルを超えていた。よほど

3. 僕たちの背に翼はない

いない。気づけばテランスはルーヴル美術館のリシュリュー翼 をよろめく足取りで進んでいた。 元は宮殿であった壮麗な建物は、増築に増築を重たおかげ で今ではとてつもなく広大で、迷路のように複雑な構造を持っ ている。慣れない来場者にとって、目的の作品にたどり着くこ とは容易ではない。しかし画塾に入る前からこの美術館に通い つめているテランスは、一刻の時間も無駄にせず、まっすぐそ の絵に向かった。目隠しされていたってたどり着けただろう。 フレムト・ダンテの「飛翔」。 彼の《運命の絵》、愛してやまない美しい別世界は、いつも 通りの静謐さでそこに存在していた。 タ閭迫る空の複雑な色彩。 翼をはためかせて飛翔する男の歓喜の表情。 耳を打つ風の音さえ伝わってきそうな臨場感だ。 テランスはいつもと変わらぬ感動に満たされた。いや、絶望 の中だからこそ、その絵はいつも以上に崇高に輝いて見えた。 絵を見上げながら懸命に嗚咽をこらえた。人目がなければ泣き ながら床にくずおれたいぐらいだった。神々しい美の前にひれ 伏したかった。 そのとき、誰かがテランスのすぐ隣に立った。「飛翔」を見 上げているようだ。自分と同じ絵を好むのがどんな人かが気に なって、テランスはつい視線を隣へ投げかけた。 年恰好からして大学生、だろう。艶のある金髪と、簡素だが 清潔な感じの純白のシャツが、きちんとした印象を与える。こ ちらに向けられている横顔は、はっとするほど整っていて、睫 毛が長くて・・・ 38

4. 僕たちの背に翼はない

第 3 章指先 1 メートルの楽園 例えば、週一回の約束。 どこまでいっても二流止まりさ。本気で打ち込まないと一流に 優先するのは当然だろ ? 『遊びも仕事も』なんて言ってる奴は 「でも、どんな仕事でも、一流になろうと思えば、仕事を最 アスティは大人びた口調で、きつばり断言した。 「うん。そりゃあ、『絵バカ』と呼ばれても仕方ないな」 とを話していいのかどうか自信がなかったが。 テランスは冗談っぽく力説してみせた。子供相手にそんなこ まだ会ったことがないんだ」 創作のための時間を犠牲にしてもいいと思えるような女には、 る。そんな事に時間を使うぐらいだったら絵を描いていたい。 うと、確かに、女とつき合うなんて面倒だなーと思うことはあ だって。ひどい言い方だと思わないかい ? ・・・・・・まあ白状しちゃ だけで頭が一杯で、他の事をすべて後回しにしてしまう朴念仁 「・・・・仲間には僕、『絵バカ』って呼ばれてるんだ。絵のこと ているおかげで室内は快適そのものだ。 の香りが空気を華やかに染め上げる。気前よく暖房を稼働させ 週に一度だけ、テランスの部屋に笑い声が響く。高級なお茶 ながら暮らすことは、生活に彩りを与えてくれる。 人を幸福にするには、それだけで十分だ。何かを心待ちにし とがわかり始めていた。 に勉強しようとする。短いつき合いだが、テランスにもそのこ この少年はとても仕事熱心な犯罪者だ。努力を惜しまず、常 なんかなれっこない」 25

5. 僕たちの背に翼はない

ヴァン交差点の人気力フェだ。 テランスの質問に対し、友人は悪びれた様子もなくうなずい 「そうさ。貸してもらったんだ」 貸してもらったと言っても、おそらくオーナーの許可をとっ たわけではないだろう。十中八九、沿道に置かれているテープ ルを勝手に持ち帰って来たのだ。 二人は、狭い階段に苦労しながら、テープ丿レを三階まで運び 上げた。テープルはかさばるだけでそれほど重いわけではな かったから、二人がかりで簡単に運ぶことができた。 テランスが自分の部屋へ戻ると、アスティが一枚の絵を両手 で持ち、真剣に眺めていた。こちらに横顔を向けている。絵に 見入るあまり、テランスが入って来たのにも気づいていないよ うだ。 少年が持っている絵が、依頼された贋作ではなく、部屋の隅 に立てかけてあった彼自身の「オリジナル」作品の一つである ことがわかって、テランスは仰天した。 ドルべースの弟子が一一犯罪者が彼の作品に興味を持つな ど、思いもかけないことだった。 アスティはまもなく彼の存在に気づき、向き直った。人の心 に正面から切り込むかのように、まっすぐな視線をぶつけてく る少年だった。 「ごめん。勝手に見ちゃ悪かったかな」 「あ、いや。かまわないよ」 ・・・こういう写実的すざる風景画 「あんたの絵、悪くないね。 は今の流行 ( はやり ) じゃないから売れないだろうけど」 いきなりストレートに核心を突かれ、テランスはたじろいだ。 「・・・・・・それを言われると、つらいな」 16

6. 僕たちの背に翼はない

を見据えている。ー語一句聞き漏らさない、という態度だ。 「それに、十七世紀に実際にオランダで使われていたのと同じ 絵具や溶剤、絵筆を、僕が自分で手作りした。いろいろ本を調 べて作ったからね。完璧だと思うよ。 ・・・フェルメールの時代 のキャンパスに、フェルメールが使っていたのと同じ絵筆と絵 具で描いてるんだから、専門家にも見破れっこない」 「アルコールを浸した綿で絵の表面をなぞったら、新しい絵具 は色か落ちるだろ。それで最近描いた絵だってバレるんじゃな いの ? 」 年端もゆかない子供が、プロの真贋判定方法を知っていたこ とに、テランスはびつくりした。次の瞬間、ひとりでに、自分 の頬が笑みに崩れるのを感じた。知識のある相手、本当に「理 解してくれる」相手に自分の工夫を披露できる喜びに、胸が躍っ 「だから、それをごまかすために、絵の表面にフェノール樹脂 を塗って加熱するんだ。友達の勤めてるパン屋のオープンを夜 ・・・そうすればアルコール 中にこっそり使わせてもらってる。 でこすっても絵具は落ちない」 「な・る・ほ・ど。さすがは画伯だな ! 」 テランスが企業秘密を打ち明けたお返しに、アスティはカー ドゲームでの初歩的なイカサマの方法を教えてくれた。 テランスは生まれてこのかた金を賭けてカードをしたことな ど一度もないし、今後もやらないだろうと思ったが一一一幼い少 年が、とてつもなく鮮やかな手つきでカードを自在に操ってい る有様は、興味深い見物 ( みもの ) ではあった。 23

7. 僕たちの背に翼はない

時間ができた時。逆に、仕事に煮つまった時。テランスはメ トロを乗り継いでルーヴル美術館へ足を運ぶ。彼にとっての《運 命の絵》に会うために フレムト・ダンテの「飛翔」。 この P60 号の絵は、ダンテの代表作でもなければ人気作で もない。しかし一目見た瞬間からテランスの心をわし掴みにし て離さなかった絵だ。 絵の中心に描かれているのは初老の男だ。顔立ちも服装もく たびれている。見たところ農夫か工員といったところだ。黒っ ぽい服を着たその背中に、巨大な純白の翼が生えている。 男は空へ向かって飛翔する。上へ上へと。 はるかな眼下に、建物が寄り添って立つ集落が見える。その 小ささが、男の到達した高みをいっそう際立てている。 夕暮れ時なのだろう。地上の建物から東へ長く伸びる影も、 細かく描き込まれている。 なんという、巧みな構図。はるかな空の高みから地上にまで 至る広大な空間が表現されている。絵画が二次元であることを 忘れさせてしまうような奥行き感だ。 そして、男の背中に生えた翼の、透明感のある美しさ。羽毛 の一本一本までか確かな質感をもって描き出されている。輝か んばかりに白く、清らかな羽。天使の翼というのはきっとこう いうものだろう。 しかし、何よりも圧倒的なのは、男の表情だ。 翼を手に入れたことへの戸惑い。高さに対する恐怖。それら が、飛ぶことの喜びに取って代わられつつある様子が、まるで その場に居合わせたかのように生き生きと伝わってくる。 歓喜、興奮、陶酔。 1 2

8. 僕たちの背に翼はない

エピローグ ~ 1931 年・冬 ~ 61 は微笑みながら、しかしきつばりと、断り続けてきた。 「売ってほしい」という申し出も何度かあったが、テランス ランスの最高傑作だったからだ。 の生々しい情念が見る者にも伝わるこの絵は、まき、れもなくテ アスティの肖像画に目を留める者は少なくなかった。描き手 人間の数も増えている。 画商とのつき合いが増えるにつれて、アトリエに出入りする 「あったぞ。これだ」 撃を受けていた。 た。男たちの目的がその絵だと知って、全身が痺れるほどの衝 椅子に縛りつけられたテランスは呆然と成り行きを眺めてい 「うむ。この顔は・・・・・・間違いないな」 いた。 画を携えて戻ってきた。残りの二人の男は絵を確認し、うなず 室内で何かを探していたらしい一人の男が、アスティの肖像 ら引きずり出され、縛り上げられた。 熟睡していたテランスはろくな抵抗もできないままべッドか きた。 深夜。黒い覆面で顔を隠した三人の男たちが突然押し入って だった。 それは、アスティに会えなくなってから五回目の冬のこと

9. 僕たちの背に翼はない

第 6 章失われた面影 二十代の体力は伊達ではなく、一晩眠ったテランスはすっか り回復した。迷いを振り捨て、目前の仕事に全力で没頭した一 ーオランダ画家の絵を偽造するという、いつもながらの非合法 な仕事だったが。 完成したフェルメールとハルスの絵を受け取りに来たのはア スティではなく、珍しくも詐欺師ポール・ドルべース本人だっ た。表情に出さないよう努力したが、テランスは非常に落胆し ぐ えラ る 与テ え をて と 定な なと よ 確の も 明も うな て 鋭 な事 恋そ っ ら仕 まの た造 想肩 て偽 く画 く感 巻の た絵 渦そ 会け 中来 イめ 胸以だ テた のてん スの 分っ苛 アそだ自まを しス リし きみが欲しい。ああ、こんなにも、欲しくてたまらないんだ。 居ても立ってもいられないほど。渇望でこの身が焼け落ちて しまいそうなほど。 もちろん理解している。決して遂げられない想いだというこ とは。 5 1

10. 僕たちの背に翼はない

こみいった夢を見ていた気がする。 テランスは夢の世界に心を半ば残したまま目覚めた。ぽんや りとした不安感に包まれていたが、すぐに夢の内容を忘れ、続 いて不安感も忘れた。 夜は長かった。体調が悪い時にありがちな、決して明けない ような気がする夜だった。 アスティがべッドの傍らで、テランスの蔵書である美学の本 を読んでいた。 ローティーンが読むようなレベルの本ではないはずだが、ア スティは本に熱中していて、テランスの覚醒にも気づいていな いようだ。 暗閭を背景にして、読害灯の光を真正面から受けている。 肌の白さが、まばゆいばかりだ。 「うれしかったんだ。ダンテの『飛翔』。僕の大好きな絵を、き みも好きだと知って」 何か伝えたい事があるからというより。こちらを見てほしい、 声を聞きたい、というやむない欲求に駆られて、テランスは言 葉を発していた。 少年は本から顔を上げてテランスを見た。その瞳が光を受け 止めてきらりと輝いた。 「絵なんか好きじゃない」といういつもの否定、本気で信じ させるつもりもないような挨拶代わりの嘘が返ってくることを テランスは予期したが、アスティの返事は思いもかけないもの だった。 「あの絵、翼の描き方が良いよな。羽ばたいている感じがうま く出てて」 47