これまでこのアトリエに立ち入った人間の誰かが、この襲撃 者たちと関連があるということだろうか・・ しようとしたのは、こういう事態を見越してのことだったのか。 五年前、ドルべースが乱暴な手段を使ってまで肖像画を回収 をこの連中に与えることになってしまう。 テランスが描いた肖像画が、アスティの所在を示す手がかり 追っている。 あからさまな殺意をみなき、らせたこの男たちはアスティを 「し・・・・・・知らない。最近会っていないんだ」 その質問にテランスは震えあがった。 「おまえの描いたこの絵の子供だが。今はどこにいる ? 」 福な紳士たちがときどき漂わせている香りだ。 いるが、高級プランドの男性用コロンだ。顧客として接する裕 テランスはかすかな甘い香りを嗅き、取った。だいぶ薄れては てきた。 三人のうちいちばん背の高い痩せた男が、テランスに近づい 『・・・・あなたとアスティとの間に接点があったという証拠を 『・・・・俺たちみたいな悪党と関わると、いろいろ危険も多い 62 くる。 当時は気にもとめなかった言葉の断片が、まざまざと蘇って 残すのは危険なんです・・・・・・』
エピローグ ~ 1931 年・冬 ~ 61 は微笑みながら、しかしきつばりと、断り続けてきた。 「売ってほしい」という申し出も何度かあったが、テランス ランスの最高傑作だったからだ。 の生々しい情念が見る者にも伝わるこの絵は、まき、れもなくテ アスティの肖像画に目を留める者は少なくなかった。描き手 人間の数も増えている。 画商とのつき合いが増えるにつれて、アトリエに出入りする 「あったぞ。これだ」 撃を受けていた。 た。男たちの目的がその絵だと知って、全身が痺れるほどの衝 椅子に縛りつけられたテランスは呆然と成り行きを眺めてい 「うむ。この顔は・・・・・・間違いないな」 いた。 画を携えて戻ってきた。残りの二人の男は絵を確認し、うなず 室内で何かを探していたらしい一人の男が、アスティの肖像 ら引きずり出され、縛り上げられた。 熟睡していたテランスはろくな抵抗もできないままべッドか きた。 深夜。黒い覆面で顔を隠した三人の男たちが突然押し入って だった。 それは、アスティに会えなくなってから五回目の冬のこと
ぱり手を切り贋作の制作を止めることにした。今までよりさら に安いアパルトマンへ引っ越し、毎日、絵を描いた。生活費を 稼ぐために夜はキャパレーで働いた。 金はあまり無いが、納得できる暮らしだった。 あいかわらず風景画ばかり好んで描いていたテランスに、転 機が訪れた。依頼を受けて、ラヴェル夫人という六十代の未亡 人の肖像画を描くことになったのだ。肖像画は、彼女の子供た ちが、彼女の誕生日プレゼントとして依頼してきたものだ。 アトリエで、恰幅の良い銀髪の婦人と二人きりで向かい合い、 テランスは困惑していた。生きた人間をモデルに描くのは数年 ぶりだ。とっかかりがつかめない。静物画を描くのと同じよう に、目に映る物をそのままキャンバスに移し変えるだけでいい のだろうか。しかし、それはどうも違うような気がする。依 頼主である子供たちが望んでいるのはそんな絵ではないだろう 「あの。描き始める前に少しお話をしたいんですけど、 すか ? 」 いいで テランスは時間を稼ごうとしていた。「お話」といっても何 を話せばいいのか見当もつかないが。 「えーっと・・・・・・ラヴェルさん。その・・・・・・」 天啓は、不意に訪れた。 「一一 - あなたのいちばん大切な人についてのお話を聞かせてく れませんか ? 」 未亡人はいそいそと語り始めた。亡き夫の思い出話を。初め ての出会い、愛の告白、つき合い始めた頃の夢みたいに浮き立っ た日々のことを。 57
るほど長い時間が過き、た後。テランスは固く閉じていた目をお そるおそる開いた。拷問と大量の出血のせいで意識は朦朧とし ていたが、ただーっの目的意識が彼を支配していた。どうして も確認しておかなければならないことがある。 死体のように固まり、なかなか動こうとしない体は、もはや 自分のものではなくなってしまったかのようだ。テランスは懸 命に首を動かした。必死で周囲を見回そうとした。もどかしい ほどのろのろした動作で。 彼の目がついに、探していた物をとらえた。アスティの肖像 画がテープルの上に無造作に置き去りにされていた。 テランスは安堵のあまり脱力した。目を閉じ、心地よい暗闇 の世界へ戻った。 よかった。絵は奪われずに済んだ。あの男たちに絵まで 奪われていたら、もう生きてはいけないところだった。 こんな目に遭ったのは自業自得だ。それはわかっている。本 人の了承も得ずに勝手にアスティの肖像画を描き、その上、「誰 にも見せないよう注意して保管する」というドルべースへの約 束も守らなかった。もうこの手では絵筆を自在に操ることはで きないだろう。軌道に乗り始めたテランスの画家としてのキャ リアは葬られてしまった。 どこで僕は間違ってしまったのだろう。こんな結末を迎えず に済むための別の道筋があったのではないか。 いや、それはないな、とテランスは胸の中でつぶやいた。 破滅することがわかっていたとしても、僕はきっときみの絵 を描いただろう。何度人生をやり直しても、何度でも同じこと を繰り返すだろう。 僕が画家だったから、きみを手に入れることができた。永遠 に色褪せることのないキャンバスに閉じ込めて、僕だけのもの 64
それ以来、ロコミでぼっリぼつりと肖像画の依頼が来るよう になった。テランスも自分からモデルを雇って人物画を描いて みたりした。 仲間で金を出し合って展覧会を開いた。盛況とはお世辞にも 言えなかったが、予想以上に大勢の人が足を運んでくれた。テ ランスの絵が一枚売れた。 ちゃんと地面に足がついている。一歩一歩進んでいる。 何かが急に変わったわけではないし、ハッピーエンドも約束 されていないが。 今でもダンテの『飛翔』は好きだ。ときどきルーヴルまで 見に行く。 でも、空に飛び立ちたいとは、あまり思わなくなった。 翼を持たない凡庸な人間は、毎日歩き続けたとしても、結局 大した距離を進めずに終わるだろう。 でも、それでいいのだと思える。 大事なのは、選んだ道を自分の足で歩き続けることだから。 いくら願ったって背中に翼なんか生えてこない。俺たち は自分の足で歩いていくしかないんだよ。 二人きりの夜中に、本音らしく零れ落ちたアスティの言葉を 59
・・誰の目にも触れないように隠しておけばいいんでしよう ? 気をつけて保管しますよ。それでいいでしよう ? 」 その後しばらく押し問答が繰り広げられたが、テランスは絶 対に譲らなかった。 ドルべースも最後には彼の意志の固さを感じ取ったらしい。 「わかりました。仕方ありませんな」とつぶやき、何事もなかっ たかのように元の仕事の話に戻った。 しかし、別れ際のドルべースの表情の中にある何かが、テラ ンスの脳内で警報を発動させた。画家であるテランスは細かい 観察力を備えていたのだ。 彼はその夜、アスティの肖像画と簡単な手荷物を携えて、友 人のアパルトマンに転がり込んだ。 絵を避難させたのは正解であったことが判明した。 数日後の昼間、テランスが部屋に戻ってみると、室内には徹 底的に荒らされた跡があった。何かを必死になって探した後の ような。 その後二度と、ポール・ドルべースからの連絡はなかった。 56 テランスは、ドルべースとの悶着を機に、犯罪者たちときっ 年月はあっという間に過き、た。 それに伴い、アスティの来訪も途絶えた。
ことを、悪いとも何とも感じていないようだ。 そして何よりも彼の神経を逆撫でしたのは、アスティのこと あいつは俺のものだ、と高らかに宣言するかのような。 なら何でもわかっていると言いたげなドルべースの自信たつぶ 何も知らないくせに りな物言いだった。 55 「この絵は僕のものです。絶対に手放すつもりはありません。 とってね。どうか買い取らせてください。お願いします」 があったという証拠を残すのは危険なんです。むしろあなたに 「脅すわけではありませんが、あなたとアスティとの間に接点 「これは売り物じゃありません」 テランスは反射的に答えていた。 スの顔をのぞき込んでいた。 気がつくとドルべースが、如才のない営業用の微笑でテラン 画伯。いくらでも構いませんから」 「この肖像画は私が買います。代金をおっしやってください、 のに ら、強気な少年もときどき「翼が欲しい」と願っているという 師匠と称するこの男の傍らで日々危険な仕事に携わりなが いくら願っても あの言葉も。 に満ちた横顔も。「いくら願っても翼なんか生えない」という、 ダンテの『飛翔』を食い入るようにみつめていた、あの憂い
で熟睡した。 テランスは描きあげた絵をアスティに見せるべきかどうか 迷った。 渾身の力を振り絞って完成させた作品だ。彼のこれまでの作 品の中でも出色の出来ばえと言ってもよい。彼の作品を好きだ と言ってくれた少年に、どうしても見てもらいたい。そしてで きれば感想を聞かせてほしい。 けれどもアスティ本人の許しを得ずに勝手に顔を描いてし まったのは、まずかったかもしれない。それに、描き手である テランスの執着があらわになったこんな絵を果たして見せても いいものか。 しかし結局、肖像画をアスティに見せる機会はなかった。 仕事の依頼のためポール・ドルべースがテランスのアトリエ を訪ねてきたのだ。 「いつもあなたに良い仕事をしていただくおかげで、こっちの 商売も順調です。今後もこの調子でお願いしますよ」 品良く微笑むドルべースは、どこからどう見ても、羽振りの 良い実業家だった。身につけているスーツも帽子も最高級品に 違いない。知性と気品、そして成功者に特有の余裕を全身から 発散させていた。 狭いアトリエ内では、隠しようがなかった。ドルべースはす 53
ある程度の年配になると、昔話を乞われて嫌がる人はいない。 数十年前のエピソードでも、まるで昨日の出来事のように、生 き生きと詳しく話すものだ。 しかし夫人の話はテランスにとって、とりとめのない記憶の 寄せ集め以上のものだった。 好きな相手と少しずつ距離を縮めていく時の、胸のときめき。 知れば知るほど好きになっていく気持ち。 不安と歓喜の間をめまぐるしく揺れ動く心。 それはテランス自身が数か月前に知った感情の追体験だっ た。心の底から揺さぶられた。 かさぶたが取れて生傷が開くように、アスティと過ごした 日々の幸福を鮮明に思い出し、愛しさに泣き出したくなった。 その瞬間、テランスは夫人に深く共感していた。 テランスの描いた夫人の肖像画は、依頼主に非常に喜ばれた。 薄くなり始めた髪。いくつもの皺が刻まれ、シミの浮き出し た顔。たるんだ顎の下の皮膚。テランスの写実的すき、る筆は夫 人の老いを容赦なく写し取っていたが、絵全体が与える印象は 優しく好ましいものだった。 満ち足りた女性の内面がにじみ出してくるような。 「おまえ・・・・・・いつの間にこんな絵描くようになったんだ ? 『人 間嫌い』のテランスが・ 友人たちも、驚きと感心の入り混じった表情でその絵を眺め ていた。 58
ぐに、イーゼ丿レに架けられたアスティの肖像画に目をとめた。 詐欺師の顔から愛想の良い笑みが消え、難しい表情が浮かび 上がるさまを、テランスはじっと眺めていた。 「この絵は・・・・・・うちの坊主ですか。モデル無しでここまで描け るとは、さすがですね、画伯」 「どうしてモデ丿レ無しで描いたとわかるんです ? 」 ドルべースはゆったりした動作で肩をすくめてみせた。 「あいつが自分の顔を絵に描かせるわけがない。手配されてい ないとは言え、いちおう法の外側を歩く人間ですからな。それ に・・・・・・あいつは人前でこんな顔はしない」 理由ははっきりしないが、ドルべースの態度に、テランスは いら立ちのようなものを覚えた。 「ときどき、なんだか寂しそうな顔をしていることがあリます よ」 きつばりと言い返した。自分でも意外なほど強い口調になっ てしまった。 「なるほど。芸術家の心眼というやつですか。しかし、失礼な がら、少し美化し過ざではないですか。そりゃあ確かに線の細 い顔をしてますがね。うちの坊主は銃で撃たれたって泣き声ひ とつあげない奴ですよ」 テランスは思わず、体の両脇で拳を握リしめていた。どす黒 い巨大な塊が胸元までせり上がってくるような感覚だった。 それは憤怒だった。人と深く関わらないのを常としてきた彼 が、生まれて初めて他人に感じる激情。 この男は、年端もゆかない少年を、銃で撃たれるような危険 に平気でさらしているのか。 今のロぶりからすると、ドルべースは少年を危地に追いやる 54