風景画 - みる会図書館


検索対象: 僕たちの背に翼はない
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1. 僕たちの背に翼はない

仲間たちはいっそう大声で笑い転げた。どの顔も、アルコー ルでてらてらと赤く光っている。 「おまえさ。そんなだと、一生童貞のままで終わるぞ、きっと」 「おまえも少しは生身の人間に興味を持てよ。芸術家に恋は つきものだぞ ? 狂おしい情念、不条理な愛着・・・・・・感情的な嵐を 何度もくぐり抜けてこそ、人の魂を揺さぶる作品が生み出せる んだ」 「フレムト・ダンテだって晩年は、五十歳も年の離れた少女を 愛人にしてたっていうじゃないか。性愛は創作には欠かせない エネルギーだ。ぽんやリ風景画ばかり描いてる場合じゃないぜ、 テランス」 「風景画ばかり描くことの、どこが悪いんだ。それから、僕は 童貞じゃないっ」 テランスは勢いよく立ち上がり、叫んだ。その拍子にぐらり と体が揺れ、仰向けに倒れそうになったので、あわてて椅子の 背につかまった。自覚している以上に酔いが回っているらしい。 童貞でないのは、事実だ。 しかし、生身の人間に興味を持てないのも、事実だった。 仲間と思う存分飲んで騒いだ夜の後は、一人の時間がいっそ う耐えがたいものに感じられる。酔いで感覚が鈍っていなけれ ば、閭と静寂のあまりの重さに打ちのめされていたことだろう。 テランスがふらっく足取りで住居兼アトリエに帰り着いたと き、時刻は午前二時を回っていた。モンパルナス墓地の南側に 建っ白塗りのアパルトマンだ。 灯りをつけると見慣れた光景が目に飛び込んできた。 粗末なべッド。昨年パリを引き上げて郷里へ帰った友人から 6

2. 僕たちの背に翼はない

「ほとんど風景画ばっかりだ。人物画を描こうとは思わない の ? 」 「モデルを雇うお金がないんだよ。風景画ならタダで描けるか ら」 「あ。なるほど」 テランスは興味を引かれて、アスティをしげしげと眺めた。 これまで仕事で何度も顔を合わせてきたが、きちんと観察する 気になったのは初めてだ。 いつも帽子を目深 ( まぶか ) にかぶり、渋い色柄の上着を着 て、抑えた低い声でしゃべるので、大人びた印象を受けていた が。帽子を脱いだ顔は意外と幼かった。まだ十四、五歳かもし れない。 貴族的と称してもよいほど、上品に整った顔立ち。まっすぐ こちらを見返す瞳は紺青色で、宝石のように美しく澄んでいる。 通った鼻筋も、やわらかそうな唇も、精巧な工芸品のように繊 細な造りだ。これほど整った容姿に、今まで気づかなかったこ とが不思議なぐらいだった。 窓から差し込む日を受けて、天使の羽根のように金髪がきら めく。 「・・・・・・きみは絵が好きなんだな。かなり詳しいの ? 」 「好きとかそういうんじゃないよ。欲の皮の突っ張った金持ち 連中を騙せる程度には知識がある。それだけさ」 「嘘だね」 その言葉はひとりでにテランスの唇からすべり落ちた。アス ティが一瞬、ひどく鋭い視線を彼に投げかけた。 「本当に絵が好きな人というのは、すぐにわかるよ。絵に向け るまなざしが違うから。 ・・・きみは美術が好きで・・・・・・おそらく 美術鑑賞の教育も受けている。そうじゃないかい ? 」 1 7

3. 僕たちの背に翼はない

ぱり手を切り贋作の制作を止めることにした。今までよりさら に安いアパルトマンへ引っ越し、毎日、絵を描いた。生活費を 稼ぐために夜はキャパレーで働いた。 金はあまり無いが、納得できる暮らしだった。 あいかわらず風景画ばかり好んで描いていたテランスに、転 機が訪れた。依頼を受けて、ラヴェル夫人という六十代の未亡 人の肖像画を描くことになったのだ。肖像画は、彼女の子供た ちが、彼女の誕生日プレゼントとして依頼してきたものだ。 アトリエで、恰幅の良い銀髪の婦人と二人きりで向かい合い、 テランスは困惑していた。生きた人間をモデルに描くのは数年 ぶりだ。とっかかりがつかめない。静物画を描くのと同じよう に、目に映る物をそのままキャンバスに移し変えるだけでいい のだろうか。しかし、それはどうも違うような気がする。依 頼主である子供たちが望んでいるのはそんな絵ではないだろう 「あの。描き始める前に少しお話をしたいんですけど、 すか ? 」 いいで テランスは時間を稼ごうとしていた。「お話」といっても何 を話せばいいのか見当もつかないが。 「えーっと・・・・・・ラヴェルさん。その・・・・・・」 天啓は、不意に訪れた。 「一一 - あなたのいちばん大切な人についてのお話を聞かせてく れませんか ? 」 未亡人はいそいそと語り始めた。亡き夫の思い出話を。初め ての出会い、愛の告白、つき合い始めた頃の夢みたいに浮き立っ た日々のことを。 57

4. 僕たちの背に翼はない

モンパルナスのカフェでは夜ごと男女がダンスに興じ、その まま一夜限りの情事へ流れていく者も少なくない。「創作のイ ンスピレーションを得るため」と称して、ハッシッシ ( 大麻 ) に走る者もいる。女にもドラッグにも手を出さないテランスは 「堅物」だと仲間たちにからかわれてきた。 けれどもアスティの言葉は、そんなテランスをやんわりと肯 定してくれる。それが、心地よい。 「・・・・・・『人を愛したこともないような奴が、人の心を揺さぶる 芸術作品を生み出せるはずがない』と言われることもあるんだ。 そこまで言われると、さすがに考えちゃうよね。だから、無理 して、それほど好きでもない女の子とつき合ったりするんだけ ど、ちっとも楽しくないし長続きしないんだ」 「うつわー、あんたって人でなしだな、画伯。そんなの相手の 女に失礼じゃねーか」 テランスはくすりと笑う。 gamin が達観したような台詞を 吐くのが痛快だ。 「アカデミーにいた頃は『人間嫌い』とまで言われてたよ。いや、 別に、本当に人間が嫌いなわけじゃないんだ。友達とは普通に つき合ってるし。ただ・・・・・・僕の絵が・・・・・・」 テランスは言葉を選ぶのに苦労した。こんな話は今まで誰に も打ち明けたことがないのだ。 「昔から、人物画が下手だと言われてきた。それもあって今も 風景画ばかり描いてるんだけどね。何と言うのか・・・・・・魂が宿っ ていない、と言われるんだ。そこに人がいるように見えない、 26 「あんたの絵って、人間の気配がしないんだ。街並みを描い 「え ? わかるの ? 」 「あー。なんか、わかるような気がする」 というか」

5. 僕たちの背に翼はない

ヴァン交差点の人気力フェだ。 テランスの質問に対し、友人は悪びれた様子もなくうなずい 「そうさ。貸してもらったんだ」 貸してもらったと言っても、おそらくオーナーの許可をとっ たわけではないだろう。十中八九、沿道に置かれているテープ ルを勝手に持ち帰って来たのだ。 二人は、狭い階段に苦労しながら、テープ丿レを三階まで運び 上げた。テープルはかさばるだけでそれほど重いわけではな かったから、二人がかりで簡単に運ぶことができた。 テランスが自分の部屋へ戻ると、アスティが一枚の絵を両手 で持ち、真剣に眺めていた。こちらに横顔を向けている。絵に 見入るあまり、テランスが入って来たのにも気づいていないよ うだ。 少年が持っている絵が、依頼された贋作ではなく、部屋の隅 に立てかけてあった彼自身の「オリジナル」作品の一つである ことがわかって、テランスは仰天した。 ドルべースの弟子が一一犯罪者が彼の作品に興味を持つな ど、思いもかけないことだった。 アスティはまもなく彼の存在に気づき、向き直った。人の心 に正面から切り込むかのように、まっすぐな視線をぶつけてく る少年だった。 「ごめん。勝手に見ちゃ悪かったかな」 「あ、いや。かまわないよ」 ・・・こういう写実的すざる風景画 「あんたの絵、悪くないね。 は今の流行 ( はやり ) じゃないから売れないだろうけど」 いきなりストレートに核心を突かれ、テランスはたじろいだ。 「・・・・・・それを言われると、つらいな」 16

6. 僕たちの背に翼はない

第 5 章 蜂蜜色の夜 うめきながら意識を取り戻すと、自分の部屋のべッドに横た で寝ていることを不思議にも思わなかった。 それはあまりに見慣れた風景だったから、彼は、自分がこ 漆喰塗りの天井。空気を満たす絵具の匂い。 わっていた。 43 頭痛に顔をしかめながら、テランスはしやがれた声を絞り出 かけたね」 「きみがここまで運んでくれたのかい ? ・・ ごめん・・・・・・迷惑 無理に動かそうとすると割れるような痛みが脳天に走った。 だが体が動かない。頭が重すき、て持ち上げられそうにない。 パニックに襲われ、べッドに起き上がろうとした。 意識を失う直前、思わずアスティを抱きしめてしまったこと。 ルーヴル美術館で高熱のため立ったまま意識を失ったこと。 その瞬間、ようやくテランスはすべてを思い出した。 てきた。 読書灯の作る蜂蜜色の光の円錐の中へ、アスティが歩み入っ 「気がついたか。気分はどう ? 」 が跳ね上がった。 ンスが考えていると、突然すぐ近くから声が響き、驚愕で心臓 僕はどうしてこんな夜中に目が覚めたんだろう、などとテラ ーの明かりだ。 辺りは暗い。もう夜なのだろう。べッドサイドの読害灯が唯

7. 僕たちの背に翼はない

し取ろうと努めてきたどんな風景よりも、目の前の少年の方が 輝かしく美しい。 30 く頼りなさげな表情が。 強気な言動と裏腹に、ときおりその整った顔をよき、る、はかな そして、心に焼きついて、どうしても離れようとしないのだ。 大な謎を内包して、何食わぬ顔で微笑んでみせるその姿が。 気になって仕方なかったのだ。まだほんの子供のくせに、巨 を極めるためまっすぐに突き進んでいくその姿が。 ばかりの自分と比べて、 ( たとえ法律に違反していても ) 職業 まぶしかったのだ。不本意な生き方を強いられ、迷い悩んで ドックスの向こうにある。 どこまで信じたらいいのか ? 」という昔ながらの嘘つきのパラ 真実はすべて、「『私は嘘つきだ』と言っている人間の言葉を としない。 何が真実かなんて、わからない。アステイも教えてくれよう かもしれない。 家の子弟のように見える」ことがすでにプロの詐欺師の技なの しかしもちろん、アスティ自身が明言しているように、「良 美術に対する造詣の深さ。見え隠れする教養。 のではないかと思わせられることが何度もある。品の良い容貎。 そのチンピラの顔こそが見せかけで、本当は裕福な生まれな 慣れているふてぶてしいチンピラの少年。 詐欺を生業とし、カードのいかさまが上手で、年齢の割に世

8. 僕たちの背に翼はない

こみいった夢を見ていた気がする。 テランスは夢の世界に心を半ば残したまま目覚めた。ぽんや りとした不安感に包まれていたが、すぐに夢の内容を忘れ、続 いて不安感も忘れた。 夜は長かった。体調が悪い時にありがちな、決して明けない ような気がする夜だった。 アスティがべッドの傍らで、テランスの蔵書である美学の本 を読んでいた。 ローティーンが読むようなレベルの本ではないはずだが、ア スティは本に熱中していて、テランスの覚醒にも気づいていな いようだ。 暗閭を背景にして、読害灯の光を真正面から受けている。 肌の白さが、まばゆいばかりだ。 「うれしかったんだ。ダンテの『飛翔』。僕の大好きな絵を、き みも好きだと知って」 何か伝えたい事があるからというより。こちらを見てほしい、 声を聞きたい、というやむない欲求に駆られて、テランスは言 葉を発していた。 少年は本から顔を上げてテランスを見た。その瞳が光を受け 止めてきらりと輝いた。 「絵なんか好きじゃない」といういつもの否定、本気で信じ させるつもりもないような挨拶代わりの嘘が返ってくることを テランスは予期したが、アスティの返事は思いもかけないもの だった。 「あの絵、翼の描き方が良いよな。羽ばたいている感じがうま く出てて」 47

9. 僕たちの背に翼はない

なるが、それでも友人の出世を心の底から祝ってやりたい。 彼らは結局、夜明け近くまで飲んだくれた。 ようやく雪がやんだ早朝、真っ白く染まった道を、テランス はアトリエまで歩いて帰った。酔っているせいで寒さを感じな いが、吐く息はおそろしく白い。滑って転んではいけないと、 慎重に舗道を踏みしめて進んだ。 アパルトマンの階段を昇り、扉を開くと、絵具の匂いの立ち こめた空気と無人の空間が彼を出迎えた。 アトリエの中は屋外と同じで、凍りつくように冷えている。 しらじらと冴えた朝の光の中で、イーゼルに立てかけられた 制作中の作品が目に入った。 ヨハネス・フェルメール。フランス・ハルス。 美しく、精密かっ完璧に再現された、彼らの作品。これほど までに高い技術で描かれた贋作はこの世に他に存在しないだろ つ。 圧倒的な美を秘めた絵画が、冷え冷えとした空気の中で凛と 佇んでいる。 彼自身の作品は一つもない。彼が本当に描きたいものは。 36 存在なのだ。 彼は犯罪者なのだ。贋作家という、画家の風上にも置けない ない深い穴の底に落ち込んでいる己を自覚した。 テランスは不意に、狂おしい焦燥感に襲われた。光さえ差さ

10. 僕たちの背に翼はない

し取る技術に長けていた。勉強のためルーヴル美術館でレンプ ラントを模写していた時、見知らぬ男に「その絵を売ってほし い」と頼まれたのだ。 9 かりになっていた。主に詐欺師たちだ。真作でない絵を真作と ところがいつの間にか、彼に複製画を依頼するのは犯罪者ば して悦に入っていた。罪がないと言えば、罪がない。 かせた複製画を、本物と偽って自宅に飾り、知人に見せびらか う見栄っぱりな金持ちが依頼主だった。彼らは、テランスに描 初めは、員重な名画を所有しているように見せかけたいとい テランスにもよくわからない。 依頼主の人種が変わり始めたのは一体いつのことだったか。 て売るようになった。 それからもテランスは、依頼があれば、名画の複製画を描い 腹はかえられない。 自分の絵よりも模写の方か高く売れたのは屈辱だったが、背に けれどもアパルトマンの家賃をすでに三か月滞納していた。 テランスにもそのことはわかっていた。 術家のやることではない。芸術家なら己の芸術を追求すべきだ。 金のために、他人の作品をまて描いた絵を売るなんて、芸 はるかに高い金額だったのだ。 これまで自分の「オリジナルの」絵につけられた値段より、 テランスは金を受け取って困惑した。 ばえだった。 鑑定眼のある人間でなければ本物と見分けられないほどの出来 テランスの模写は単なる模写のレベルを超えていた。よほど